中国の法律事情
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【21-005】行政と対決する時代に考えておきたいこと

2021年04月20日

御手洗 大輔

御手洗 大輔:早稲田大学比較法研究所 招聘研究員

略歴

2001年 早稲田大学法学部卒業
2003年 社団法人食品流通システム協会 調査員
2004年 早稲田大学大学院法学研究科修士課程修了 修士(法学)
2009年 東京大学大学院法学政治学研究科博士課程単位取得退学
2009年 東京大学社会科学研究所 特任研究員
2009年 早稲田大学比較法研究所 助手(中国法)
2012年 千葉商科大学 非常勤講師(中国語)
2013年 早稲田大学エクステンションセンター 非常勤講師(中国論)
2015年 千葉大学 非常勤講師(中国語)
2015年 横浜市立大学 非常勤講師(現代中国論)
2016年 横浜国立大学 非常勤講師(法学、日本国憲法)
2013年より現職

行政と対決する時代の到来

 今、私たちが生活する中で行政と対決するほどのトラブルに発展することは少ないかもしれませんし、同時に市役所や警察などが提供する行政サービスの下で私たちの自由な行動が保障されていることを感じることも少ないのではないでしょうか。それが当たり前だと思う内に気づかないことは、日本でも中国でも同じです。

 一方、このように行政サービスが溢れる中で、例えば至る所に監視カメラが設置されて生きた心地がしないから赤信号を無視して横断しなくなっただの、個人情報と紐づけされないように自由な行動ができなくなっただのということを不自由になったと感じる人間は、その途端行政サービスを自由な行動を保障するための対価として評価できなくなります。そして最近のコロナ禍における報道や不平不満の声を見聞きするにつけ予感することは、行政と対決する時代の到来です。ただし、日本で不自由だと気付いた人間の声の背後にある論理を垣間見ると、実は中国崩壊論が日本でブームになっていた頃の論理と共通しているようです。この論理について、今回はお話したいと思います。

妄想が生み出した責任転嫁の論理

 この論理とは、「上に目を付けられるから、下の私は好き勝手なことができない」という理屈です。まずこの理屈は、中国社会のヒエラルヒーを、最下層に居る自分・私たち、最上層に居る中央政府・党中央の人たち、その間の中間層に居る地方政府や党幹部の人たちというように把握し、最上層(の人間)にすがれば超法規的に問題を解決してくれるはずだという「包公」文化が根強く残っていると示唆します。

 次に、この前提に立って「上に目を付けられるから下の私は好き勝手なことができない」という中間層に居る人々の不正は、同じ中間層のレベルで解決を目指すよりも最上層へ陳情して解決してもらおうとする方が合理的に思えますから、最下層の人々が中央政府・党中央の元を目指して行動を起こすだろうこと。同時に、中間層に居る人々からすれば、最上層への陳情を阻止することが身の危険を回避することになる一方で、公然と阻止行動をするとそれはそれで最上層から目を付けられることになるからマズイことを、間接的に相手の脳裏に描かせます。すると最後に、結局のところ自分が好き勝手なことをしないことが最も合理的になるから、自分を困らせるような要望はしてくれるな、というわけです[1]。中間管理職の悲哀のようにも映りますね。

 さて、よく出来たストーリーなのですが、このストーリーを徹底できるのであれば行政と対決する時代は到来しないでしょう。しかしながら、世の中このストーリーだけが当てはまるわけではありません。好き勝手なことをする人間は、どんな環境でも好き勝手なことをしますし、上の方の権力争いを眺めながら身の振り方を決めて行動する自己中心的な人間もいます。さらに、言われたことだけやるロボット人間でよいと達観している人間が存在することも事実です。したがって、この責任転嫁の屁理屈は、世の中が変わろうとも自分は変わりたくない人間であることの告白にすぎません。

中国版法治国家は責任転嫁がし難い

 この理屈が現在の中国で通用する可能性は基本的にありません。なぜなら中央政府・党中央に頼らずとも糾弾できる理屈を確立しているからです。例えば、中国的権利論によれば、現在の中国は法令条文が行為の合法性を規律し、保護する権利の内容を言明し、救済を得るための条件を事前に提示しその条件を満たした人(法主体)を守ることを徹底した「法治国家」ですから、法令条文の条件さえ守れば「自由」が保障される社会であると言えます。

 赤信号を無視した横断は違法ですし、何か法令違反があるから個人情報と紐づけされる――違反の事実も無く紐づける行為も違法ですから、想定される「上」とは究極的には法令しかなくなります。上から目を付けられようとも、それが合法な行動であれば後ろから刺されることはないわけです。そのため、好き勝手なことができないという責任転嫁の屁理屈は通用し難いと言えます。

 この論理の波及は、クリーンな公務員の養成メカニズムの構築からも言えます[2]。クリーンな公務員の要請を中国が積極的に推し進める理由も腐敗認識指数の国別ランキングの改善にあるのではありません。法の下では、私人も公人も、党員でも非党員でも、平等に扱われなければ自己矛盾に陥り、その結果として「法治国家」が瓦解するという自覚からです。

 したがって、今日において同様の理屈を披露されることがあったとしたら、「貴方とはビジネスパートナーになれない」と遠回しに言われているか、西側の法にどっぷりと浸かっている人間に対する「リップサービス」でしかないでしょう。そう言っておけば憐憫の情を出して要望の基準を下げてくれるかもしれないとさえ思っているかもしれません。

行政と対決する時代の心得は何か

 行政と対決する時代において私たちが自由な行動を保障されない、不自由だと感じる原因は何でしょうか。私はこの原因がその人自身の中の不安にあると考えます。例えば、行政と対決するというシーンでは、「後で仕返しされないか」と不安を抱えながら対峙する人々がいらっしゃいますし、行政訴訟を闘っている中でも「理不尽な嫌がらせを受けるのではないか」という不安に苛まれている人々の声を見聞するからです。

 このような不安が渦巻く中で、最も基礎となる不安は誰が真の相手なのかが判然としない不安です。行政組織は一般に巨大ですから、木を見て森を見ずの状況で対決することが多いので、行政と対決しやすくするには真の相手をどう選定するかが重要になります。

 したがって、行政と対決する時代の心得とは、行政と対決しやすくするために、真の相手を早期に把握することにあると言えます。そして先月中国では、私人が行政と対決しやすくするための司法解釈を最高人民法院が公布しました。

「行政主体をどう把握するか?」という古典的な問い

 最高人民法院は、2021年3月25日に「关于正确确定县级以上地方人民政府行政诉讼被告资格若干问题的规定(県レベル以上の地方人民政府の行政訴訟における被告資格の正しい確定に係わる若干問題に関する規定)」を公布しました[3]。この司法解釈は全8条と短いのですが、私人と直接に係わる行政サービスにおける行政訴訟法26条1項の「曖昧さ」を解消し、濫訴の抑制や人民法院による迅速な救済の提供を目的としたようです。

 ここに言う曖昧さとは何でしょうか。行政訴訟法26条1項は「国民、法人又はその他の組織が人民法院へ訴訟を直接提起する場合は、行政行為を行なった行政機関が被告である。」と言明しています。一見すると何処にも曖昧さはないように思えます。しかし、曖昧です。この曖昧さは、日本行政法においても同じ問題を抱えています。行政行為を行なった行政機関を被告にするとしているのだから行政機関だろうと解釈しがちですが、この「行政機関」が曲者です。

 行政機関すなわち「行政主体をどう把握するか?」という問いについての議論を「行政主体論」と講学上言っておきます。日本における行政主体論の議論は、次に説明する2つの行政機関概念の共生を前提にしています。ポイントは、行政行為すなわち行政事務を行なったか否かに注目するか、行政作用すなわち処分性を有するか否か(=抗告訴訟の対象かどうか)に注目するかです。後者の視点は、いつのまにか議論の出発点に戻っている時がありますから、2つの行政機関概念を説明した後に、私なりの見立てを述べておくことにします。

 第1に、行政事務を行なったか否かに注目すると、行政主体とは行政(事務)を行なう法主体のことを当然に言うことになります。行政主体を区別する理由は、日常生活の中で売買など私的な事務を行なう私たちのような法主体(私的主体)と区別するためです。そして、私たちがその他の私的主体との間ではなく行政主体との間でトラブルになった場合、それは行政の職務として行なわれた問題の行為の責任の帰属主体は誰なのかが重要ですから、問題の行為を行なった小さな組織単位を、訴える相手先の行政機関であると特定して裁判を行なうのが合理的であると考えられます。このような行政機関の概念分類を「事務配分的行政機関概念」と呼びます。ちなみに、内閣府以外については国家行政組織法によって規律するため、事務配分的行政機関概念で十分なのかもしれません。

 ところが、日本行政法では事務配分的な行政機関概念のみに基づくのではなく、行政主体が行政行為を行なう根拠すなわち、その行政行為の権限に基づく概念分類が広く用いられています。これが第2の把握の仕方です。この概念分類によれば、この行政主体には行政機関だけでなく、具体的な省庁のような行政庁のほか、そこで働く公務員や派遣職員などが想定されます。実際の行政行為は行政機関が行なうわけですが、その行政行為をするという意思を決定し、それを外部に表示する行政庁があり、この行政庁の意思決定の補助をする補助機関や行政庁の諮問によって意見を述べる諮問機関が存在し、さらに検察官や収税官、自衛官のように実力行使を担う執行機関が存在することによって行政行為(=行政事務)が行なわれると言えます。そうすると、問題の行為を根拠づける権限が存在するところを、訴える相手先の行政機関とすることが合理的と考えられます。このように権限に基づいて行政主体を分類するため、この行政機関の概念分類を「作用法的行政機関概念」と呼びます。

 この両者の行政機関概念が共生する理由は、現代社会における行政の役割が非常に広く、そのすべてを言明できない一方で、行政がサービス提供を行なわないという選択肢を選択できない立場にほぼ置かれるからであると私は考えます。そうすると、法令で言明できるところについては事務配分的行政機関概念に照らして解釈する一方で、法令で言明できないところについては作用法的行政機関概念に照らして解釈するという運用が合理的です。但し、この状況下で処分性の有無のみで行政主体を特定するとすれば、結果としてこの特定方法では事務配分的行政機関概念と重複しますから、作用法的行政機関概念の必要性がなくなりかねません。そのため、問題の行政行為に係わる複数の行政主体の中で指揮命令関係(上下関係)があったかなかったか等の行政主体間の関係性を分析しながら被告とすべき行政機関を特定する手法が日本では採られています。

 要するに、上記の2つの概念を相補的に共生させることによって、行政が担当すべき未知の領域についても遺漏なく行政サービスを提供させることを保障する点に行政主体論の意義があるわけです。

古典的な問いの新たな答えではない

 では、この古典的な問いに対して今回の司法解釈はどうアプローチしたのでしょうか。

 まず、県クラス以上の地方人民政府職能部門の行政職権に基づいて聞き取り、会議の招集、組織研究、文書の下達等の方法で指導を行なった場合で、その行政行為に不服である私人が訴訟を提起する場合は、人民法院が「[釈明(疎明)]し」、行政行為を行なった職能部門を被告にするよう告知すると言明します(第1条)。疎明するとは、証拠を挙げて確実さの心証を与えることを言います。つまり、人民法院が訴えようとしている私人に対して事実関係を説明し、貴方が訴える相手は誰だと告げる、というわけです。

 次に、第2条以降に具体的に私人の利益と直接に係わる行政サービスの場合を挙げて言明します。第1に、違法建築に対する強制撤去についてです。強制撤去決定を行なった行政機関を被告とする一方で、強制撤去決定書がない場合は強制撤去(の行政行為)を実際に行なった職能部門を被告にすると言明します(第2条)。不動産家屋等の強制撤去についても強制撤去決定書の有無で同様の判断を示します(第3条)。第2に、行政サービスの提供申請については、その行政サービスを行なう行政機関を被告にすると言明します(第4条)。第3に、不動産登記サービスの場合は、不動産登記機構又はその職務を実際に履行する職務部門を被告にし、不動産登記暫定条例の実施前のものであっても、その職務の移管を受けた不動産登記機構又はその職務を履行する職務部門を被告にすると言明します(第5条)。第4に、情報公開サービスについては、政府情報の公開を日常業務とする機構を訴える相手先の行政機関にすると言明します(第6条)。

 最後に、不服であるとして訴えた行政行為が、県レベル以上の地方人民政府が作成したものでなく、かつ、人民法院が指導ないし疎明して管轄権を有する人民法院へ訴えるように告知しても訴えを変更しない場合は、その訴えを裁定により立案しない(=法廷を開く段階へ進ませず却下する)か、管轄権を有する人民法院へ移送できることを言明します(第7条)。そして、この司法解釈は2021年4月1日より施行することを明示しました(第8条)。

 以上が今回の司法解釈です。行政主体論の視点で整理すると、まず中国法においても事務配分的行政機関概念と作用法的行政機関概念のどちらかへ集約できるものではないことを確認できます。司法権を担う裁判所が私人に対して疎明する点は、裁判が始まる前にその裁判ゲームの全容をほぼ知り得ることになりそうですね(「裁判は誰のためにあるのか?」については別稿に譲らせてください)。次に、私人の利益と直接に係わる行政サービスの場合において訴える相手を特定する判断基準を示していますが、結局のところ、この判断基準は処分決定の書類(証拠)が有ればそれで、無ければそれぞれの権限に照らして被告を決定すると言っているにすぎません。最後に訴える相手が違うと伝えているにもかかわらず変更しない場合は相手にしないこともあると警告し、濫訴を抑止したいという思いを吐露しているように感じます。

日本と中国で問題の根っ子は同じ

 今回の司法解釈は行政主体論における古典的な問いに対して日本行政法における到達点と同じ水準であるように見て取れます。なぜなら、「曖昧さ」の正体から「行政主体をどう把握するか?」という問いに対する新たな答えとは言えないからです。

 一方、行政と対決する時代において、日本と比べて中国では立法数が増えれば増えるほど「上に目を付けられるから下の私は好き勝手なことができない」という理屈が通用し辛い法的環境が整うことは論理的に予測できます。これは、行政法の根拠を間接的に援用しつつ私人に対して指導や助言を行なう「行政裁量」の幅を狭めることとリンクしますから、行政が暴走する可能性は、論理的には日本よりも低くなると言えますし、行政と対決する際の不安は低下することになるでしょう。

 総じて、日本と中国で問題の根っ子の部分は同じです。ポイントは、日本であれ中国であれ、それぞれの国の行政作用の在り方を理解し、その運用を把握できる視点を習得して自分の不安を解消できるか否かにかかっています。そのうえで、中国法の方が分かりやすいと感じるのであれば、それは私たち自身が、日本法において見るべき部分から目を背けているだけ、見たい部分しか見ていない証左ではないでしょうか。(了)


1. この論理の枠組みについての当時の言動は、信訪制度を対象に毛里和子=松戸庸子編『陳情 中国社会の底辺から』東方書店2012年を参照されたい。

2. この点については以前のコラムを参照ください(「クリーンな公務員の作り方」 Science Portal China, 2018年 5月10日)。

3. 原文については、以下を参照ください。
最高人民法院关于正确确定县级以上地方人民政府行政诉讼被告资格若干问题的规定》中华人民共和国最高人民法院, 2021-03-26