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【14-05】中国の中等職業教育の発展段階と改革動向(その1)

2014年10月22日

陸 素菊:華東師範大学職業教育・成人教育研究所副教授
職業教育研究センター副主任

略歴

 蘇州大学政治学部卒。江蘇省教育委員会政策研究室科長研究員を経て、2003年名古屋大学大学院教育発達科学研究科博士学位取得、東京大学教育学研究科客員研究員。現在、華東師範大学職業教育・成人教育研究所副教授、上海市教育学会職業技術教育研究会事務局長、日本産業教育学会理事。専攻は学校職業教育・成人職業訓練。

はじめに

 職業教育は、「職業」に繋がる「教育」の一類型であり、一般的に、ある特定の職業に従事する職業人を養成する教育(訓練)活動をさす。比較職業教育論によれば、職業教育制度における普通教育と職業教育の関係はその国の教育制度の発展段階・構造や職業教育概念の意味合い、労働市場との関係でみた職業準備性の程度に依存し、国ごとに異なる[1]。職業教育の理念と制度は、その国の産業経済の歴史発展や教育制度のありよう、また中等教育制度の性質や労働市場との関係性に規定される。それは職業教育の手段的(経済・社会的)価値と目的(人間形成)価値の二つに区別される[2]。職業教育には、(1)個人の発達過程に則した知識、スキルの教育、(2)科学と技術の進展や企業社会、経済成長の原理に従う内容の教育という二つの側面を持つ活動が含まれているとも読み取れる。

 改革開放後の中国の中等職業教育は社会的経済的変動、企業制度の変革、教育の普及など経済的と教育的要因に影響され、また経済発展の需要と民衆の教育ニーズに対応してきた。そこで改革開放後の中等職業教育の発展は経済発展、また人間形成にとって一体如何なる役割を果たし、そのあり方は如何なるものであったのだろうか。

 改革開放後、市場主義への移行により、中等職業教育は高校教育の一部として、工業化を推進する労働力を養成するため、社会的に重要視され、学校体系に位置づけられることとなった。今日では、職業教育は普通教育とともに学校体系を構成する重要な制度として形成されている。それは主に義務教育終了後の中等職業教育段階において整備されている。中等職業教育に対する思惑は、政府側が経済発展に必要とされる技能労働者の養成を重視する一方、個人は高校段階の職業教育を利用しつつさらに社会的地位と経済的利益を得ることを目指してきたようである。市場経済への移行が進む中で、職業教育に係わる各主体(行政、業界・企業、個人を含む)がそれぞれ求めている利益は一致するものもあれば、一致していないものもある。

 本稿では、20世紀80年代以降市場体制への移行に伴って進展してきた中国の中等職業教育のあり方について、まず改革開放以来の発展段階を遡って整理する。その上で、中等職業教育の整備に係わる行政管理体制、財政体制、学校専門構造と教育課程、教員の養成と研修などの発展課題を政策動向と実践的成果を踏まえて検討する。最後に、中等職業学校卒業生の就職状況を取り上げ、その有効性を検証する。

中等職業教育の発展段階(1)

 ここで中国の歴史に注目してみれば、その近代的職業教育は1860年代の実業学堂をその発端としており、清朝末期において日本の実業教育を学んでいた。1866年設立の福州船政学堂は中国最古の職業学校であった。新中国建国初期には旧ソ連モデルの産業部門・企業が所管(所属)する中等専門学校と技術労働者学校が大いに発展し、それに中国的な農業高校や「半労半讀」学校を加えて、1960年代に高校段階の学校職業教育は大幅な発展を遂げた。しかし、文化大革命期を経て高校段階の学校教育は乏しく単一の構造になり、民衆の教育機関としての役割が果たせない、改革初期の経済発展に適応できない状態となった。

 1978年以降、改革開放の政策によって工業化が急速に進み、技能労働者の養成が急務となり、民衆の教育ニーズが高まった。それ以降、高校教育の構造的な改革によって新たな職業教育の歴史が幕を開け、中等職業教育が注目されるようになった。

 以下、中等職業教育の進展に大きな影響を与えた政策の発布を時期区分のメルクマールとして、1980年以降の中等職業教育の発展過程を大きく3つの時期に分けて、社会的情勢の変化に伴った中国の中等職業教育の量的、質的また構造的な変化を遡って把握する。

高校教育の構造的な調整による中等職業教育の規模の拡大(1980~1998年)

 1980年10月、国務院が転送した国家教育部と労働総局が制定する「中等教育の構造改革に関する報告」は、改革開放後はじめての中等職業教育を発展するための綱領的政策文書であった。同報告では、中等教育の構造的な単一化は国民経済発展の需要との関連を失っており、中等教育の構造改革を行わなければならないと判断した。そのうえ、高校段階の教育構造は「普通教育と職業技術教育を並行して進め、全日制と半労半讀学校・業余学校と並行して行い、国家の学校運営と産業部門・工場企業の学校運営を並行して実施する」方針が打ち出され、普通高校に職業技術教育クラスを設置し、一部の普通高校を職業技術学校に変えることを求めた。その後、1985年に出された「中共中央の教育体制改革に関する決定」においては、「社会主義近代化建設のため、高度な科学技術の専門家を必要とするだけではなく、数多くの良好な職業技術教育を受けた初級中級技術者と管理職、良好な職業訓練を受けた都市部と農村部の労働者も緊急に必要となった」と指摘し、「およそ五年で大多数の地区の各高校段階の職業技術学校の生徒募集数を普通高校生の募集数に相当させ、現在の中等教育構造の不合理な状況を逆転させる」との目標を掲げた。そのうえ、「職業技術教育は中等職業技術教育を中心とする」こと、とくに、その教育の責任は地方に委譲することを明確にした。それらの政策によって、1980年代に都市部では多くの普通高校が職業高校に、農村部では多くの普通高校が農業高校にそれぞれ改組され、20世紀50~60年代に発展を果たした中等専門学校と技術労働者学校も産業部門・工場企業によって新たに取り戻された。

 1991年10月に公布した「国務院の職業技術教育を大いに発展させることに関する決定」では「職業技術教育を発展する主要な責任は地方政府、鍵は市・県にある」ことを改めて強調した。1993年2月に中共中央、国務院の「中国の教育改革と発展の要綱」では,「中等職業技術学校の生徒募集数と在籍生徒数が高校段階のそれに占める割合は、すでに50%を超えている」ことを判断し、「各レベルの政府は職業技術教育を重視し、統一して計画し、積極的に発展させる方針を貫徹し、各部門、企業および社会全体の意欲を呼び起こし、多様な形態と多様なレベルの職業技術教育を経営する局面を形成すべきである」と呼びかけた。さらに、1994年7月に国務院の同「要綱」の「実施意見」において、「2000年まで各類型の中等職業学校の募集数と在籍生徒数は高校段階のそれに占める割合は、全国平均で60%前後を維持し、高校教育が普及した都市部は70%に達する」と中等職業教育発展を指導する重要な量的な指標と課題を明確にした。これをメルクマールに、全国にわたり普通高校を大規模に職業高校へと改造し、大部分の普通高校を職業高校に変えた。

 この時期には、強力な政策の推進によって、中等職業教育は規模的に急速な進展を果たした。1979年に中等職業学校の卒業生は高校段階学校の卒業生数のわずか4%を占めていたが、1985年になると、中等職業学校の生徒募集数は高校段階の44%を占め、1991年にその比率がさらに50%に達した。1998年の統計によると、中等職業学校の生徒募集数が526万、在籍する生徒数は1,467万になり、高校段階の職業高校と普通高校の規模は、ほぼ6:4になり、もとの単一な高校教育構造を徹底的に変えたとされている[3]。この時期は中国の中等職業教育が急速な進展を果たした時期である(図1を参照)。

 しかし、急速な拡大によって、学校の設備問題、教師問題、就職問題などの原因で、これらの職業学校の発展は必ずしも順調ではなく、とくに農村の職業学校は生徒の募集難によって閉鎖されることもあった。

図1

図1 中等職業学校の在籍生徒数の変化

出所:関係年度の「中国教育事業発展統計公報」の統計により作成。

その2へつづく)


[1] 寺田盛紀「職業教育の比較とその方法」(『職業と技術の教育学』第13号、2000年4月、pp.45-59)

[2] 寺田盛紀「職業教育の理念における人間形成と経済目的」(『名古屋大学院教育発達科学研究科紀要(教育科学)』第51巻第1号、2004年度、pp.61-73)

[3] 孫琳「新中国職業教育的発展与変革」(『中国職業技術教育』2008年第11号)