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【13-005】大連から始まった(その1)

2013年 9月26日

金田一秀穂

金田一秀穂:杏林大学外国語学部教授

略歴

1953年東京生まれ。
東京外国語大学大学院修了。
中国大連外語学院、米イェール大学、コロンビア大学などで日本語を教えました。

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 今から30以上年前、大学は卒業しましたが、何もせず、一日中、本を読んだり、考え事をしたりして時間を潰していました。何をしたらいいのか。何が出来るのか。自分に価値があるとも思えず、そ れでも生きていかなければならないことにうんざりしていました。

 外国で日本語を教える仕事があるというので、面白半分で、日本語教師養成講座を受講しました。何も知りませんでしたが、内容はとても簡単でした。しかも、素 晴らしく頭のいい魅力的な先生に出会うことができ、これならやってもいいかと、勉強を進めました。1983年、私はまだ当時珍しかった、日 本語教師養成を専門とする大学院である東京外国語大学の修士課程を修了して、意気揚々と大連に派遣されたのでした。国際交流基金が実習日本語教師養成講座を開いていて、その第一回の修了生でもありました。言 ってみれば、当時の最高の教育を受けた日本語教師だったわけで、その最初の現場が大連の日語培訓部だったのです。

 大連には北京から列車の夜行で到着しました。三月で、まだ寒い時期でした。

 聞けば、中国全土から、大学院の成績の一番良かった人を集めて、海外に留学させるプロジェクトでした。30万人以上から選抜された数百人という、超エリートたちのようです。日本が明治維新後、当 時の俊才たちを欧米に留学させて、夏目漱石や森鴎外を育てたと同じような政策です。考えればそのもっと前、日本が当時の一大先進国である中国に遣隋使や遣唐使を送って学ばせたような計画です。歴 史に残ってしまいそうな、未来の中国の人材を創りだす仕事でした。

 それにしても大連の町は、寒く、貧しく、何もありませんでした。全員が男女を問わず藍や灰色の同じ人民服を着て、例外がありませんでした。全員が同じ布靴をはき、これも例外がありませんでした。帽 子をかぶるかどうか、分厚い外套を着るかどうか、その程度の変化しかなかったように思います。町には、雷峰に学べ、という声が溢れていました。

 私たちは大変恵まれていて、一か月の給料は、当時の鄧小平氏と同じ550元。私は一か月の電話代が200元だったのを覚えています。けれど他にお金を使えるところが何もありませんでした。買 いたいと思うものが何もなかったのです。たばこ代ぐらいでした。コカ・コーラは大連の町の中に瓶が三本あったのを確認しました。そのうちの1本は、私たちの泊っている棒錘島賓館の冷蔵庫の中にありました。パ ンもバターも、店に売られていませんでした。瀋陽に遊びに行ったとき、牛乳があったので2か月ぶりに飲み、嬉しかったのですが、早速その日の朝、最初の訪問地である瀋陽故宮で下痢をして、この時ばかりは、仕 切りも何もないトイレに飛び込んで、みんなに見られながらしゃがみこんだのを覚えています。

 街でビールを頼んだら、アルマイト製の小さなボウルに黄色い液体が運ばれてきて、かろうじてビールらしき味がしました。生の野菜を食べられることがなく、果物もなく、行 きつけの酒家できゅうりの一夜漬けを食べさせてもらいました。サラダもなく、冷やし中華もありませんでした。食べるものすべてに火を通すというのが中国の習慣であるようで、そのおかげで、中 国人は世界中どこへ行ってもお腹を壊すことなく、現地で活躍が出来るのだそうです。

 ホテルは、大連の町からちょっと離れたリゾートホテルのようなところで、私たちは海の見える本館の最上階に並ぶスイートルームを占領しました。別棟がいくつかあって、そ のうちの一つには周恩来だかが休養に泊まりに来るのだという噂がありました。   

 ただし、蛇口から出る水は、茶色く濁っていて、お茶を沸かすこともできませんでした。しかも口に含むと塩味で、4か月この水で歯を磨いたおかげで、歯槽膿漏がすっかり直りました。

 夏になったら、ベッドに蚊帳が吊られました。まるでどこかのお姫様になったような気持ちでした。学校を終えて部屋に帰り着くと、部屋の中に女性物の下着が干してあって、さすがにびっくりしました。か わいらしい服務員さんの仕業だったのでしょう。

 4か月、朝と晩、私たち5人は、いつも顔を合わせて食事をしました。私はあまり困りませんでした。ずっと泊まり続ける客のために、コ ックさんがそれなりの飽きない食事を作ってくれていたのだろうと思います。とても腕のいい人だったのでしょう。私は岩塩で食べるエビのフリッターが大好きでした。でも、皆 それぞれ日本から送ってもらったおかずを食卓に並べて分け合いました。是永先生は大阪のエビスメを出してくださいました。山本先生はしょうがの瓶詰をくださいました。私は昼御飯用に、小 岩井の缶バターを送ってもらい、みなさんに使ってもらいました。大学の食堂では特別に作ったパンを出してくれたのです。缶バターは高級品ですが、日本から空輸するには、缶でしかできなかったのです。今 でも覚えていますが、某先生は、その貴重なバターを、パンの上に5ミリ以上も分厚く塗ってニコニコしながら平気で食べてしまうのです。食い物の恨みは、絶対忘れることがありません。

 山本先生は当時独身でした。先生は替えのパンツが無くなってしまったのです。買えると思ったのでしょう、そんなに数を持ってこなかったのです。それである日、皆 で男物のパンツを探しに大連の町に繰り出しました。ところがどこにもない。自由市場にも百貨店にもない。いったいどうなっているのか。中国人の男はパンツを穿かないのだろうか。不思議に思って、あ る服屋で聞いたら、パンツは買うものではなく作るものである。布を買ってきて、お母さんや奥さんが縫うものであるとわかりました。そんなことを言ったって、山本先生には大連にお母さんも恋人もいない。ど うすればいいのだと言ったら、「じゃあ私が縫ってあげましょう」と言ってくれたのが、大連デパートの主任のおばちゃんでした。やがて数日後、出来たから取りに来いというので行ったら、新聞記者もいて、外 国の賓客に親切にもパンツを縫った模範的服務員というので、山本先生とおばちゃんがパンツを掲げて写真に撮られて、それが大連の新聞の一面にデカデカと載りました。のんびりとした、いい時代でした。( その2へつづく)


 ※本記事は、2013年8月、北京市郊外の香山飯店で開催された「1983年国家公派留日研究生30周年紀念大会」に ご参加された杏林大学外国語学部教授の金田一秀穂先生にご寄稿いただいた。

 ※1983年に、中国中から集められた最も優秀な学生158名が大連・長春において4ヶ月間日本語の特訓を受け、その後日本へ留学した。本 会はその同窓生の集まりである。

 ※金田一先生は当時、最初期の日本語教師として大連に派遣され、彼等に日本語を熱心に教授した。な お本記事中の写真はこの大会にて撮影されたものである。