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【13-006】大連から始まった(その2)

2013年 9月26日

金田一秀穂

金田一秀穂:杏林大学外国語学部教授

略歴

1953年東京生まれ。
東京外国語大学大学院修了。
中国大連外語学院、米イェール大学、コロンビア大学などで日本語を教えました。

写真

その1よりつづき)

 街は自転車が多く、その波をかき分けるようにして、ぼくらは水色の上海二台に分乗して、どこへ行くのにも不便はありませんでした。運転手さんは曲さんと馬さんという名前で、私たちは曲馬団と密かに呼んでいました。ときどき、映画や劇に招待されたり、サッカーの試合を見せてもらったりして、ほんとうに特別待遇でしたが、それでも静かで刺激の少ない町でした。テレビも、放送時間が限られていて、北京中央の7時のニュースも平気で時間がずれました。

 本屋も新華書店しかなくて、店内は赤い本ばかり。それも種類がほとんどなく、どうして中国の人はこれでいいのだろうと不思議でした。さすがに退屈なのでしょう、お客さんの姿を見ることもほとんどありませんでした。たまに果物屋の前に地方からトラックが横付けされて、新鮮なりんごが荷台に一杯運び込まれると、黒山の人だかりになるのでした。あるとき、教えられて、天津名物の狗不理包子の大連支店に行きました。行列に並び、1斤だったか買おうとしたら、糧票がないと売れない、と言われ、途方に暮れていたら、周りの人たちがそれぞれ自分の持っている糧票を分けてくれました。あのときの包子のおいしさはまだ覚えています。後年天津で本物を買って食べましたが、あの時ほどおいしく思えませんでした。

 私たち教師団は、みな中国が大好きだったと思います。貧しいこと、何もないことは、その魅力を減らすものではありませんでした。なによりも、教室で学ぶ人たちの熱心さ、純真さ、誠実さにうたれ、みんなの背景にそれぞれある深い苦労がしのばれるのでした。まるで昨日農村から出てきたというような埃だらけの人民服を着て、爪の間には畑の泥が詰まっているのではないかと思えるような姿でしたが、若さだけではなく、美しく、力強く、魅力的に見えました。夜、真っ暗な中、外に出て街燈の下で教科書を読みふけっていた姿は、教える私たちの心を容赦なく引き締めました。

 私はその後、アメリカの大学へ行って日本語を教え、そのあと日本に帰って、日本語の先生を養成する仕事をしました。インドネシア、ブラジル、ベトナム、ミャンマー、台湾、スペインなどなど、いろいろな国に行って日本語の仕事をしました。でも不思議なことに、中国との縁がありませんでした。大連から後、再び中国に行けたのは2003年、保定の河北大学に用事があったのです。20年ぶりでした。

 そのとき、周囲の中国をよく知る友人たちから、中国は変わった、あのときの美しく清潔な中国はもうない、ガッカリするよ、行かないほうがいいかもしれないよ、などとさんざん言われました。確かに、それは半分当たっていました。

 北京空港は、ビルディングになっていました。空港から高速道路でした。あの時は埃だらけの並木道で、ロバにひかれた荷馬車を追い越すぐらいだったように思います。河北大学では日中経済のシンポジウムとかで、これからどのように経済発展の協力を日中間で出来るだろうか、お互いにウインウインの関係になるという、大変元気のよい話柄で、言い換えると、何やら生臭い話ばかりで、正直に言えば、なんとも居づらい思いをしたものです。雷峰に学んだ結果がこうなったのでしょうか。

 でも、その夜、保定の町を散歩して、気付きました。あの新華書店は、内部が明るく改造されていて、たくさんの親子連れが本当に楽しそうな顔をして、さまざまな本を選んでいる。真ん中に山積みにされていたのは、「チーズを誰が食べたか」でした。町の噴水公園は、イルミネーションに照らされて、スピーカーから音楽が流されて、電気も水も、豊かに消費されている。多くの若者たちが、思い思いの服を着て、おしゃれを楽しんでいる。誰も困っていない。貧しくない。

 私は思わず泣いてしまいました。暗かったので、思い切り涙を流して泣きました。

 先日の北京でも話しましたが、私は他人のために役に立つということが、よく分からない人間でした。社会に役に立つことが出来るとも思わないし、役に立ちたいとも思わない、どうしようもなくイケナイ人間だったはずでした。ところが、今あの中国が、大変貌を遂げている。この変貌を可能にしたのは、あの時大連にいた、あの人たちだったにちがいない。あの人たちの力のいくらかが、この若者たちの笑顔を作るのに役立ったのに違いない。とすれば、あの人たちに日本語を教えた私も、実は途方もなく役に立ってしまったのではないか。

 水を飲むときに井戸を掘った人たちを思い出しなさい、という言葉を、大連で知りました。それは、多くの場合、言葉だけのことであると思います。美しい考え方ですが、今や現代にあって、水を飲むときにいちいち井戸を掘った人のことなど、思いだしている暇なんてありません。私たちは忙しすぎる。でも、井戸を掘った当人は、自己満足であるにせよ、そのことを知っています。その喜びを感じることが出来ます。僕も井戸を掘ったのだ、と。

 井戸を掘れたのは、みなさんのおかげです。私の日本語教師としてのキャリアは、大連から始まりましたが、その後、あれ以上に成功を収めた日本語教室は一度もありません。残念ですが、ほんとうです。僕はとてもいい日本語教師なのだという自信に満ち溢れて大連を後にしましたが、あれから後、会う学生はすべて、みなさんほど上手にはなりませんでした。いい教室を作る最重要な要素は、教師でもなく教科書でもなく、学生の質です。それに気づいたのは、大連からずいぶん後のことです。自分がいい教師なのだと誤解させられていました。その後の学生たちには申し訳ないことをしたと思います。

 今回、北京で会って、いろいろな話を思いだしたりして、実は大連には4か月しかいなかったのだ、とあらためてその短さにおどろきました。もっと長い時間、あそこで働いていたように思っていました。あれから後、いろいろな場所や場面で、大連でのことを思いだしながらすごしていました。気付けば30年。あっという間でした。みなさんにとってのこの30年は、とても大きな変動の時期だったに違いありません。わたしにとっても、思いがけないことが次々と起きる30年間でした。そうして、まだ私たちには、これからも時間があります。今考えるべきことは、これからどうやっていくのかということです。いろいろなことがあるでしょうが、あの大連で私が学んだことは、ほんとうに大きな財産になっています。いろいろな判断をするときの、中心的な基準になっているように思います。

 あの時会った人たちは、私が生涯で会った人たちの中で、最も賢い人たちでした。あれ以上賢い人たちに、私はまだ会ったことがありません。もう会うこともないでしょう。例えば、あの中から中国最初のノーベル賞受賞者が出たとしても、あまり驚かないでしょう。教師が一番誇れるのは、その学生がどのくらい優秀であるか、だけです。僕を威張らせてください。自慢させてください。期待しています。(おわり)


 ※本記事は、2013年8月、北京市郊外の香山飯店で開催された「1983年国家公派留日研究生30周年紀念大会」にご参加された杏林大学外国語学部教授の金田一秀穂先生にご寄稿いただいた。

 ※1983年に、中国中から集められた最も優秀な学生158名が大連・長春において4ヶ月間日本語の特訓を受け、その後日本へ留学した。本会はその同窓生の集まりである。

 ※金田一先生は当時、最初期の日本語教師として大連に派遣され、彼等に日本語を熱心に教授した。なお本記事中の写真はこの大会にて撮影されたものである。



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