【15-05】亀井昭陽による楚辞学の成果--『楚辞玦』写本を中心に
2015年 5月 8日
朱新林(ZHU Xinlin):山東大学(威海)文化伝播学院 副教授
中國山東省聊城市生まれ。
2003.09--2006.06 山東大学文史哲研究院 修士
2007.09--2010.09 浙江大学古籍研究所 博士
2009.09--2010.09 早稻田大学大学院文学研究科 特別研究員
2010.11--2013.03 浙江大学哲学系 助理研究員
2011.11--2013.03 浙江大学ポスドク連絡会 副理事長
2013.03--現在 山東大学(威海)文化伝播学院 副教授
日本の江戸時代[1]における「楚辞」学研究の代表的な成果としては、浅見絅斎(1652-1711)の『楚辞師説』、蘆東山(1696-1776)の『無刑録』、亀井昭陽の『楚辞玦』が挙げられる[2]。筆者は2009年9月から2010年9月、早稲田大学の客員研究員として幅広い調査を行い、日本の「楚辞」学の関連文献と研究成果を集めた。慶應義塾大学所蔵の亀井昭陽『楚辞玦』写本はそのうちの一つである。同書は現在、梁容若『中国文化交流史論』[3]、星川清孝『楚辞研究』[4]、戴錫琦ら主編『屈原学集成』[5]、李慶『日本漢学史』[6]には記載されておらず、崔富章『楚辞書録解題』[7]には記載はあるものの簡略なもので、竹治貞夫『楚辞研究』[8]、稲畑耕一郎『日本楚辞研究前史述評』、徐公持『日本の楚辞研究』[9]、徐志嘯『日本楚辞研究論綱』[10]などの研究成果でも触れられているが詳しくはない。
同書は「日本の学者が単独で『楚辞』に対して行った最初の注解書」[11]であり、日本の「楚辞」学界において重要な位置にある。本稿では同書の作者、体裁、内容について簡単な考証を行う。
一、亀井昭陽と「楚辞玦」版本の概況
亀井昭陽(1773~1836年)は筑前生まれの江戸後期の著名な儒学者である。名を昱、字を符鳳、号を空石・月窟・天山遯者、通称を昱太郎と言った。亀井南冥の長男である。亀井南冥(1743~1814年)は名を魯、字を道載と言い、号の南冥で知られ、江戸時代の著名な儒学者、医学者、教育者であり、朱子学の代表的人物で、「亀井派」の創始者である。江戸時代の有名な学問所である甘棠館の祭酒(学長)を務めた。南冥と長男、三男は儒学で際立った成果を上げ、当時の「五亀」の代表的な3人となった。
昭陽は1792年、父を継いで福岡藩儒となり、甘棠館祭酒に就任したが、後に免官となった。昭陽は日本の徂徠学(古文辞学派)の積極的な提唱者で、博学で、数多くの古典や思想家をよく知り、見聞が広く記憶力もよく、豊富な著述を持ち、中国の先秦の文書の研究に長期にわたって従事した。書道においても群を抜き、その作品の多くには「昭陽陳人」「亀井昱印」「元鳳氏」などの印がある。昭陽が育てた人物には、江戸時代後期の儒学の大人物である広瀬淡窓(1782~1856年、江戸時代の著名な儒学者・教育家・漢詩人で、名を建、字を廉卿と言い、字で知られた。一時隆盛を誇った全寄宿制の私塾・咸宜園を興した)や広瀬旭荘(1807~1863年、江戸時代後期の著名な儒学者・教育家・漢詩人で、広瀬淡窓の弟。名は謙、字は吉甫、号で知られた。記憶力抜群で、亀井昭陽によって「生き字引」と呼ばれるほどだった。その詩歌の成果も際立ち、「東国詩人の冠」と称された)もいた。
代表作には『毛詩考』(26巻、付録1巻)、『楚辞玦』(2巻)、『礼記抄説』(14巻)、『論語語由述志』(10巻)、『老子考』(2巻)、『徂徠集注』(2巻)、『月窟沙筆』(2巻)、『国語考』(21巻)、『左伝纉考』(30巻、補1巻、付録1巻)など40種余りがある。その作品は1978年から次々出版された『亀井南冥•昭陽全集』に収録されている。『全集』は8巻9冊からなり、亀井父子の儒学の成果を全面的に反映するものとなった。亀井昭陽の著書の写本は現在、慶應義塾大学斯道文庫や二松学舎大学図書館、文教大学図書館、京都大学附属図書館などに分散して所蔵されている。
慶應義塾大学斯道文庫に所蔵されている「楚辞玦」の写本は、年代は定かでなく、序文や跋文はない。2巻からなり、巻の最初には「楚辞玦巻上」と書かれ、本文がそれから始まっている。半ページに9行、一行17字ほどが書かれている。本文には2行の注もつけられ、校正や考証が示されている。最初のページには、「慶應義塾図書館印」がなされている。タイトルの下には「□□」で区分がなされ、簡単な解題がなされている。例えば「九歌」の下には、「自『東皇』至『山鬼』是也,末二篇附之耳」[12]、「大司命」の下には「司中、司命出『周礼』。祭法:王為郡姓,立七祠,曰司命。屈子将輔王成大業而不遂,此其寓意。分段凡三」とある。語句や文を抜き出す際には「□」で示され、次のページの左側に語句や文が示され、その後ろに二文字開けて文が書かれている。書全体には朱筆で校正や文字の訂正、ページの上の空白部分への書き込みがある。本文と文字は異なり、後の人による校正と見られる。書全体には朱筆で句読が示されている。
同書には京都大学図書館の蔵本もある。これは河野鉄兜が所蔵していたものである。河野鉄兜(1824~1867年)は名を維羆、字を孟吉、号を秀野と言い、通称は絢夫で、播磨の人だった。古代の越智氏の出身であったことから、漢土の風習にならって越孟吉を自称した。林田藩の著名な儒学者で、当時の藩校である敬業館を主宰し、その後同地に私塾を開いて教えた。河野氏は、中国の古詩詞の創作に長け、「詩宜有動人処,不必屑屑界唐宋,但邦人短処在虚字斡旋,不可以不猛省也」[13]と主張し、頼山陽の再来と呼ばれた。1899年、その子である天瑞が「鉄兜遺稿」を出版・発行し、高弟である野口松陽(常共)が序を書いた。「序」には、「先生之草角入浪華也,為篠崎小竹所愛。弱冠東遊,梁川星岩一見奨引,以藝苑仲華、公瑾目之」[14]とある。「鉄兜遺稿」と随筆「掫觚」が伝わっている。1901年、鉄兜の子である天瑞は、3641冊にのぼる鉄兜の蔵書を京都大学附属図書館(当時の館長は島文次郎で、野口松陽の子に当たる)に寄贈した。『楚辞玦』はその一部である。この写本の巻頭には「楚辞玦」、末尾には「楚辞玦下 終」とある。上下巻の別は示されておらず、慶應義塾大学の蔵本とは違いが見られる。内容は似通っているが、違う版本系統の写本と見られる。
『楚辞玦』はさらに大阪大学図書館蔵の写本もある。西村時彦が編集した『読騒盧叢書』の坤集の一種で、かつては懐徳堂の所蔵だった。国士館大学附属図書館楠本文庫にも写本がある[15]。この二つの写本は慶應義塾大学所蔵の写本と同一の版本系統と見られる。
亀井昭陽の生涯と河野鉄兜の蔵本から見ると、同書は、昭陽が免官(1792年後)となった後に作られたもので、18世紀末から19世紀初めにかけての作品と見られる。昭陽は免官となった後、心中の鬱積と憤懣に悩まされた。屈原の境遇と「楚辞」に示された愛国の情、理想的な政治への思いは、昭陽の当時の境遇と重なった。そのため昭陽は『楚辞』の研究と注解にいそしみ、屈原とその作品に心の慰めを求めた。崔富章氏は、「歴代の文人や学者、志士ら、国家のために手柄を立てようとした人々は、多くが屈原精神の熏陶を受けていた。これらの人々が困難に遭遇し、鬱憤を抱えた時には、往往にして屈原に知己を見出し、屈原を模範とし、屈騒精神を自らの拠り所とし、屈騒の伝統を受け継ぐことを選んだのである」[16]としている。昭陽による『楚辞』の注解は、屈騒精神の時を超える大きな魅力を示している。屈騒精神は、日本の仁徳ある人や志士のうちで花を咲かせ、脈々と受け継がれ、その地域と時代の彩りを充実させている[17]。
二、『楚辞玦』の文献的価値
亀井昭陽は日本の江戸時代の古文辞学派に属する。古文辞学派は江戸時代、荻生徂徠によって創立された儒教古学の一派であり、「蘐園学派」とも呼ばれ、江戸中後期に興隆した。同派は朱子学を批判し、「文は秦漢、詩は盛唐」と提唱し、宋明理学の義理を重んじ考証を軽んじる傾向に反対し、中国の古代の書籍を考証・解釈する方法で当時の学術傾向を知ることを主張した[18]。『楚辞玦』はそのような思想の指導の下での研究成果である。同書は林雲銘『楚辞灯』[19]所収の屈原の27篇(『離騒』『九歌』『天問』『九章』『遠遊』、『卜居』『漁父』『招魂』『大招』)に対して注解を施している。内容は「読騒札記」に属し、林雲銘『楚辞灯』を底本とし[20]、王逸『楚辞章句』、洪興祖『楚辞補注』、『六臣注文選』の『楚辞』、荘允益『楚辞王注校本』[21]などの研究成果を参考とし、王念孫『読書雑誌』の体裁に照らして、『楚辞』の語句や文を解釈し、自らの見解を示し、旧説に訂正を加えている。疑問が残るところは疑問として残されており、慎重な態度も見て取れる。
同書には次の3つの価値がある。第一に、体裁が適格で、一篇ごとに解題があり、その核心が示され、新たな解釈を発見できること。それぞれの篇には次のような解題が付けられている。
- 『離騒』:『史記』:離騒猶離憂也,蓋離別而憂也。『九歌』:思公子兮徒離憂。又為離左離慜之離亦通。通篇四句一轄,読者要案之而不錯焉。
- 『東皇太一』:旧説祠在楚東,故曰東皇。『漢書』天神貴者太一。此篇寓意在千乗之富,君子可以娯楽。
- 『雲中君』:雲神。寓君不我顧,好戦自敗之憂。
- 『湘君』:君及夫人,天帝之二女也,非尭二女,郭璞為正,今従之。寓意在懐君雖切而君不顧,分段凡四。
- 『湘夫人』:寓意与『湘君』同。此言君之数化而猶有待時之意。『湘君』言其不一顧而無待也,此其異。分段凡四。
- 『少司命』:王初任屈子,以讒疎之,顧憂而願其去讒人以復初也,此是篇之意。分段凡四。
- 『東君』:六府三事允修,『九歌』所以作也,故『太一』在六篇之首,『東君』在三篇之上。寓意其太一肖,唯射天狼、酌桂漿比也。分段凡三。
- 『河伯』:河為四涜長,故以河神与山鬼取対,非楚望『九歌』,固不為祭祀作。此屈子寓『懐沙』之意也。分段凡二。
- 『山鬼』:山神也,非恠物。此所以終『九歌』也,体制与他篇異。上三段,下三段。山鬼之事隻在前二段,他皆思君之辞。既賦河伯,中心巑岏。
- 『礼魂』:蓋亦礼殤魂也。旧説,祭善終者也。然質之事実,大属蒙澒。
- 『天問』:『家語』有『郊問篇』一語法此,亦風刺之作,不啻自渫憤懣。
- 小注:王子朝以周之典籍奔楚,出『左伝』,則屈子博物,固当有世人不及者,故天門中事之有伝于子史者,可繹而通焉。其事不伝者,闕疑可也。
これらの解題は多くが定説を打ち破り、独自の見解を提示するものとなっている。
第二に、語句解釈の際の文脈からの読みに長け、旧説の訂正すべき点や自らの見解、保留すべき疑問点が慎重な態度と簡潔な文字によって明確に示されている。
旧説の訂正すべき点としては以下の見解が示されている。
- 「曰黄昏」:二句出『九章』,錯衍,可削。王氏無注,則必非別脱二句。「羌」字注后出。
- 「駝椒丘」:与蘭皐対,王誤。余処荘子謙校本「馳」字皆作「駝」,閲『字典』不載。
- 「衆不可戸説」:此二句与次二句前后錯誤,此二句屈子所嘆以緩遠遊四句,与霊雰語未全同。
- 「啓九辨与九歌」:『山海経』「夏后開上三嬪于天,得九辨与九歌以下」,此其説也。王氏不達,張詵訓開樹,大誤。以下数十句,皆屈子陳辞,夏康至后辛,皆風切時王。
- 「盛哲之茂行」:荘子謙校本「之」誤作「以」。
- 「危死」:荘本衍「節」字。危,幾也,言濱于死。
- 「以未具」:行装既成,故鸞鳳以引路,則雷師来将沮我行也,此特言天行亦有障碍。王逸鑿甚。
- 『九歌•少司命』「与女遊」:二句古本無,王氏無注,衍文。
保留すべき疑問点としては以下の見解が示されている。
- 『天問』「該秉季徳」:自此四章,故事全滅,不可臆説,併闕疑可也。古注断断支離,林氏亦鑿,而曰「無疑可闕」,咄将以誰欺乎?朱子皆曰未詳,是真実無妄。
- 「而后嗣」:荘本作「后嗣而」者,誤也。
- 「列撃紂躬」:朱雲「列一作到」,非是。
第三に、修辞の角度から詩句の意味の提示がはかられており、当時の日本の古文辞学派の特徴が見て取れる。
- 『離騒』「不撫壮而棄穢兮,何不改乎此度」:撫,循也,「撫于五辰」之「撫」正同。度,言其所由行也。君方壮而我亦未耄,是国事更張之要時也。故曰君今不棄壮時英気而放逐讒佞,而何故夷居不改此齷齪之行乎?
- 「何方圜之能周」:猶曰方圜何能周也,奇句。
- 「悔相道之不察」:昔不察屈心死直之道,而今乃悔之,故将行且延佇也,都是眷眷之意。
- 「紛総総」:再提是句,放甚,此言宓妃中背大有言。
- 「世幽昧」:依旧傷楚也。楚之哀如此,故欲従吉占。然未敢奮飛矣,四荒之志未伸。
- 『九歌•東皇太一』「既降」:下六句別段也,故其辞不与上八句相接。
- 『天問』「巫何活焉」:蓋為熊之后,巫復活之為人也。越岩鯀之暴也。巫活至怪,故問之。若説為反語,則是非問也。
- 「妹嬉何肆」:桀不明,故未喜放肆,此湯所以殛桀也。何雲者,問辞也。然非不知而問焉,読者欲対之,不知天問也。
このほか修辞の角度からは『九歌』の一章ごとに段落分けして自らの見解が付けられていることも同書の特徴となっている。例えば『大司命』は3段落に分けられ、文頭から「何寿夭兮在予」までが第一段落、「高飛兮安翔」から「衆莫知兮余所為」までが第二段落、残りが第三段落とされ、「前二段言其志,末段即今日境界也。乗竜二句神既去可知」と段落分けの根拠も示されている。
三、むすび
竹治貞夫は『楚辞研究』の中で、「本書の注解の特色はその透徹した合理性と、古代の文献に基づいた慎重で的確な考証にある」[22]という内容の指摘を行っている。この小冊子は『毛詩考』のような巨大な作品とは比べられないものの、日本の研究者の数多くの『楚辞』注解作品の中でも「消え去ることのない価値」[23]を持ったものと言える。稲畑耕一郎は同書について、「量においても質においても『毛詩考』の完成度には及ばないが、江戸時代の数多くの楚辞研究の成果の一つとして得るもののある作と言える」[24]としている。徐公持も同書について、「中国の各種の注釈本に依拠した解釈は多いが、多くの知識に基づく全面的な理解を土台として自らの見解を加えたもので、人が言っていることを繰り返したものではない」[25]。
筆者は同書について、江戸時代の古文辞学派の研究の特徴が『楚辞』の研究に現れたものであり、江戸時代の『楚辞』注解のうちでも群を抜き、江戸時代の日本の学術界の『楚辞』研究の気風と傾向とを代表するものと考える。同書は量こそ多くないが、その注解は亀井氏個人の観点を示したもので、他人の意見を盲従したり古いからといって信じたりすることなく、新たな見解を豊富に打ち出したものである。題名の「玦」が示す通り、昭陽の『楚辞』研究の真髄を示すもので、浅見絅斎や蘆東山、岡松甕谷などの『楚辞』の研究成果と十分に並び立つものと言える。
[1] 江戸時代は徳川幕府の統治した日本の時代区分で、1603年の徳川幕府の建立から1867年の大政奉還までを指す。日本の封建統治の最後の時代である。
[2] 竹治貞夫『楚辞研究』(風間書房,1978年)第5章または稲畑耕一郎「日本楚辞研究前史述評」(『江漢論壇』1986年第7期)参照。稲畑氏の同論文における『楚辞』及びその研究成果の論断は多くを竹治説に負っている。
[3] 梁容若『中日文化交流史論』,商務印書館,1985年。
[4] 星川清孝『楚辞研究』,養徳社,1961年。
[5] 戴錫琦、鐘興永『屈原学集成』,中央編訳出版社,2007年6月。
[6] 未収録の原因は、李慶の『日本漢学史』が1868年の明治維新を起点とし、江戸時代を含んでいないためである。李慶『日本漢学史』(全五部),上海人民出版社,2010年12月。
[7] 当時の客観的条件の制限を受け、目を通すことができなかった。崔富章『楚辞書録解題』(高等教育出版社,2010年1月)458頁参照。
[8] 竹治貞夫『楚辞研究』,風間書房,1978年。
[9] 厳錫康、周発祥主編『楚辞資料海外編』,湖北人民出版社,1986年,448頁。
[10] 徐志嘯『日本楚辞研究論綱』,学苑出版社,2004年1月,16-17頁。
[11] 厳錫康、周発祥主編『楚辞資料海外編』,湖北人民出版社,1986年,448頁。
[12] 亀井昭陽『楚辞玦』日本慶応義塾大学蔵写本。以下、引用元を示していないものはすべてのこの写本による。
[13] 野口松陽『鉄兜遺稿』序。神田喜一郎『日本填詞史話』(北京大学出版社,2000年10月)157頁からの引用。
[14] 同上。
[15] 竹治貞夫は『楚辞研究』において、同書が日本に2部現存し、1部は京都大学、もう1部は慶応大学にあるとしている。その後、稲畑耕一郎『日本楚辞研究前史述評』はこの説を踏襲している。現在は日本に4部現存しているとされ、いずれも写本である。
[16] 崔富章「屈騒精神 亘古常新」,『甘粛社会科学』2006年第1期、48頁。
[17] 目加田誠『屈原』や橋川時雄『楚辞』なども志を得られない鬱憤をばねにした著作と言える。
[18] 李慶『日本漢学史』(上海人民出版社,2010年12月)第一部、4頁参照。
[19] 林雲銘『楚辞灯』は日本に伝わった後、文章が平易で意味が明瞭であることが大きな影響力を持ち、当時さらに後世の多くの日本の楚辞学研究の著作は同書の篇目を基準としている。岡松甕谷『楚辞考』,菊池晩香・林南軒共訳『楚辞和解』など。
[20] 竹治貞夫は文中に「余拠荘子謙校本」とあることから、『楚辞玦』の底本を荘允益『楚辞王注校本』と考えている。竹治貞夫『楚辞研究』(風間書房,1978年)348頁参照。現在ではこの説は間違っているとされる。竹治貞夫は「処」の字を「拠」として誤読したとされる。実際には「余処荘子謙校本」。
[21] 同書は日本の寛延三年(1750)に出版された。竹治貞夫『楚辞研究』と崔富章『楚辞書録解題』参照。同書は、国内に伝わっていた正徳本や夫容館本などの王逸注の校正に大いに益するものとなった。葉志衡『荘本、夫容館本「離騒章句」異文辨析二』(浙江師範大学学報2002年第4期)参照。
[22] 竹治貞夫『楚辞研究』,風間書房,1978年,347頁。
[23] 同上。
[24] 稲畑耕一郎「日本楚辞研究前史述評」,『江漢論壇』1986年第7期,58頁。
[25] 厳錫康、周発祥主編『楚辞資料海外編』,湖北人民出版社,1986年,448頁。