【16-08】日本各地の中華街~その歴史と特色~
2016年 6月17日
王 維(わん うぇい):長崎大学多文化社会学部 教授
中国瀋陽市出身。名古屋大学大学院博士後期課程修了。学術博士。現在、長崎大学多文化社会学部教授。主な著書に『日本華僑社会における伝統の再編とエスニシティ』『素顔の中華街』『 華僑的社会空間与文化符号 日本中華街研究』などがある。
日本社会に定着し、地域と一体化した各地の中華街
日本の伝統的な中華街は欧米や東南アジアと比べて独特な側面を持っている。現在の中華街は中国系の人だけのコミュニティではなく、生活の場所というよりも、むしろ商業の街としての機能が強い。しかも、構 成員の一部は日本人であり、中華街を訪れる人達の多くは日本人である。中華街は、色々な意味で「日本的」であり、日本人を対象にイメージが作られている。例えば、各地の中華街の料理からみると、長 崎新地中華街はチャンポン、神戸南京町は屋台を特徴としてあげられるが、横浜中華街の場合、四川、北京、広東など、バリエーションに富んだ料理が揃い、日本最大の中華街というブランドとして、日 本社会に定着している。こうした特徴は、それぞれの歴史を反映しながら、地域に訪れる日本人を想定したうえで作られたものである。つまり、日本人と一体化、地域と一体化した中華街は、日本の中華街の特徴である。
写真1 長崎名勝眼鏡橋の黄色ランタン(写真:著者提供 他も同様)
長崎・神戸・横浜の開港に始まり、外国人居留地とともに発展
日本の中華街の出現は江戸時代に始まる。当時日本で唯一の開港地だった長崎に、浙江、江蘇、江西の三江地域や福建などから貿易に従事する中国人が渡来し、後に神戸、横浜、函館が開港されると、広 東からも多くの人がやってきた。
開港後の長崎、神戸、横浜では、条約国の外国人を集中的に居住させる外国人居留地が設置された。当時、日本と条約を締結していなかった国の民である中国人は、居留地の中での居住、そ して居留地以外の地域での日本人との雑居も許されていなかった。しかし、来日する中国人の多くは、欧米人を対象にした商売に従事していたため、外国人居留地の一角に雑居することができた。そ の一角が後の中華街として発展したのである。つまり、日本の中華街の歴史は日本の開港を伴い、中国人を含めた外国人の来日と同時に始まり、中華街は外国人居留地とともに形成されたものである。しかし、中 華街は日清戦争や日中戦争により、大きなダメージを受けた。戦前の賑わいと中国的な景観は、第二次世界大戦後から1970年代頃まで戻ることはなかった。
戦争のダメージを乗り越え70年代以降に再興
横浜中華街では、大阪世界万国博覧会をきっかけに、さらに中華街を整備・発展させるために、1971年に中華街で商売する中国系の人と日本人が協力して、横浜中華街発展会協同組合が設立され、イ メージ改善のシンボルとなる中華門が再建された。1972 年の日中国交回復による友好ムード、そして1980年代初期のエスニックブームによって中華街への関心は次第に高まり、全 国から観光客が訪れるようになった。
横浜中華街の建設を皮切りに、神戸南京町と長崎新地中華街にも、新たな中華街を建設し発展させるために中華街商店街振興組合が設立され、1980年代の前半までに、中華門をはじめ、中 華街の建設と整備が完成した。したがって、現在の中華街のイメージは、たかだか二十数年間で形づくられてきたものにすぎない。それは中国人のルーツを意識しながら、地域の特徴を活かし差異化を図ると同時に、日 本の中で受け入れられ溶け込むように工夫が凝らされたものであった。
中華街に現在のような繁栄をもたらしたのは、1980年代後半に中華街で始められた「春節祭」であった。これを皮切りに、横浜の「関帝祭・媽祖祭・中秋祭」、神戸南京町と長崎の「中秋祭」な ど中国伝統文化をベースにした、「中華街の伝統行事」が次々と生み出された。これらの行事は地域の観光に大きく寄与している。
写真2 長崎新地中華街の春節祭から再構築された長崎ランタンフェスティバル
なお、1990年代以降、中国系新移民の増加に伴い、日本の中華街に大きな変貌がもたらされた。伝統的中華街は、新移民の進出とともに、店 舗や料理などの変化によって従来の景観やイメージが大きく変えられている。そして、従来の中華街以外に、東京の池袋に中国系新移民によりこれまでとは違った中華街が形成され、新 たな中国文化の発信地としての役割を果たし、日本社会にも影響している。これから日本社会の多元化とともに、中華街もより多様化していくのだろうと注目される。
※本記事は日中交流文化誌『和華』第八号(アジア太平洋観光社、2015年10月)に掲載されている。
『和華』HP
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