【16-10】カフェテラスで漢詩を 香港の夢―過ぎ去りし日の旅
2016年 8月 9日
松岡 榮志:東京学芸大学 名誉教授
1951年、浜松市生まれ。東京学芸大学名誉教授、北京師範大学、華東師範大学などの客座教授。日中翻訳文化教育協会会長。もと、北京日本学研究センター主任教授。著書に、『北京の街角で』『漢字・七つの物語』『歴史書の文体』など多数。『超級クラウン中日辞典』『漢字海』などの主編者。近訳に『詩経』(大中華文庫)がある。
舟中不似在家忙 舟中は似ず 家に在るの忙しきに
眠足窓前認曙光 眠り足り 窓前に 曙光を認む
鳴鐸数声催我起 鳴鐸 数声 我の起くるを催(うなが)し
薦来骨喜一杯香 薦め来る 骨喜(コーヒー)一杯の香り
森 鴎外「雑詩二首」其の一
現代語訳
船の中での生活は、まったくゆったりとしたもので、東京の家にいた時の忙しさは少しも感じられない。ぐっすり眠って、ふと目が覚めれば、船室の窓のガラス越しに、朝の光がさんさんと差し込んでくる。ボーイがドアをノックする音に、あわてて身支度をすると、「お早うございます。お召し上がり下さい」と、その運んできた一杯のコーヒーの香りの馥郁たること。
写真1 スターフェリー(撮影:王銘偉)
鑑賞
明治十七年八月、若き医官の森林太郎(一八六二―一九二二、鴎外は雅号)は、官費留学生として、ドイツの首都ベルリンに向かって旅立ちます。
横浜港を出たフランスの汽船メンザレ号は、七日をかけて八月三十一日に香港に到着。そのようすを、鴎外は次のように記しています。(原文は、漢文)
三十一日、午後十時香港に抵(いた)る。灯火参差(しんし)として、漸く近く、漸く多し。略(ほ)ぼ神戸と似たり。夜、驟雨(しゅうう)にて舟に宿る。横浜より此に抵(いた)る、約千六百海里。舟中にて雑詩二を得、左に録す。
船が香港の港に近づくにつれて、街の明かりが「参差たり」、つまり岸辺から山の上まで、キラキラと瞬(またた)いています。後に、「百万ドルの夜景」とうたわれた宝石箱をひっくり返したような美しい景色です。まさに、我が国の神戸港の夜景のよう。折しも亜熱帯の夏の夜らしく、突然のスコール。そこで、上陸をあきらめ、船のなかで一夜を明かすことになったのです。思えば、横浜からここまで約一千六百海里、およそ三千キロの長旅。とはいえ、これは未だ旅の序章、ここからまた船を乗り換えて、フランスのマルセイユ港をめざして、長い船旅が続くのです。ただ、希望に燃えた若き鴎外たちの心には、高まる鼓動と満ちあふれんばかりの期待がみなぎっていたことでしょう。
写真2 香港赤柱海岸(撮影:李潔琴)
写真3 三十年前のセントラルの街並み(撮影:王苗)
この詩で最も目を引くのは、「骨喜」一杯の香り、です。今日では、「珈琲」と書いたりしますが、入れ立てのコーヒーの爽やかな香りが、詩の中から立ち上り、エキゾチックな気分を漂わせています。あまり力みの感じられない、いい作品ですね。
香港の夢―過ぎ去りし日の旅
二月の末、久しぶりに香港に出かけました。久しぶりと言っても、前回は昨年六月ですから、まだ一年も立っていませんが。
――じィじ、見てみて。こんなにきれいな貝。
――ボクのだって、こんなかわいい石だよ。
ふと、気がつくと、ウトウトしていたようです。孫たち二人に、揺り起こされました。
ここは、香港島スタンリーの一角、ひっそりとした砂浜の波打ち際。中国語で書けば「赤柱」、かつては島の南東の端にある小さな漁村でしたが、やがてその突端の岬に監獄ができ、次第に発展して、何と今では高級住宅地や人気観光地になっています。その商店街の喧噪から少し離れた、まったく人気のない小さな砂浜で、波とたわむれている孫たちをぼんやり眺めているうちに、いつしか初めて香港にやって来た、若き日の旅のあれこれを思い出していました。
*
それは、今を去ること三十八年前、一九七八年三月のこと。私たち一行三十三人を乗せたルフトハンザ機は、どしゃ降りの雨の中、羽田空港を離陸して飛ぶこと四時間三十分、台湾上空を横切り、やがてスモッグに煙る香港の啓徳(カイタック)空港に着陸しました。かつて世界で最も危険な空港の一つと言われたこの空港、そこに着陸するためには、獅子山をかすめて、林立する雑居ビルの中に急角度で突入しなければなりません。期待にたがわず、夕闇とスモッグの中、スリル満点の着陸で私たちを迎えてくれました。ほとんどが飛行機初体験の私たちは、滑走路で大きくバウンドし、逆噴射と急ブレーキで大揺れするDC10 の機体に、危うく「降りた」のではなく、「落ちた」のだと勘違いし、あちこちで悲鳴が上がりました。
この旅行、じつはのんびりとした香港の観光旅行などではなく、そこを経由して中国大陸に入り、広州、上海、南昌、長沙を経由し、最終的には長沙からバスに揺られて故毛沢東主席の生家を参観するという、いわば「中国革命の聖地」をめぐる研修旅行でした。
さて、香港ではミラマーホテルに宿泊。事前の勉強会では、旅行社のベテラン添乗員に「少し油断するとスリに遭います。新婚の花嫁などは、ちょくちょく人さらいにあって、いなくなりますよ。」と脅かされていましたから、ホテルの前のネイザン大通りなど、こわくて歩けません。ロビーと部屋を行ったり来たり、窓からそっと通りを行き過ぎる人々を眺めていました。
翌々日の朝。電車で中国国境にある、羅湖(ルオフー)の駅に向かいます。小さな木造の橋を徒歩で渡ると、そこは深圳(シェンジェン)の田舎町。まわりを見ても、田んぼと水牛の姿しか見えません。その二年後の改革開放政策によって、この町の運命は劇的な変化を遂げ、今では高層ビルが林立する大商業地域に発展しましたが、当時は広州市の町外れの一寒村に過ぎませんでした。ただ、さすがに国境線の警備のため肩から銃をさげた兵士たちは、見知らぬ外国人団体客に厳しい視線を投げかけていましたが。
どうにか入境手続きを終え、国境を越えて中国大陸に入った私たちは、ホッと一息つき、
――やっと、泥棒だらけの香港から、泥棒が一人もいない中国に入ったね。
と口々に、小声でささやきあいました。文化大革命中に中国語を学んだ私たちは、そのように教えられ、本当にそう信じていたのです。
――だから、ホテルの部屋もカギをかけなくていいんだね。
――もちろん大丈夫。泥棒なんて一人もいないから。
実は、外国人の泊まっているホテルに、中国の人々が自由に入る事ができないと知ったのは、それから八年後のこと。当時、私たち家族が住んでいた北京の友誼賓館(ホテル)に入るために、私のゼミの中国人学生たちは、いつも正門の脇で「登記」し、身分証明書を預けなければならなかったのです。
さて、広州では、幼稚園や革命史跡を見学し、空路で上海へ。そして、旅の終わりには、また広州から香港に出て、日本にもどったのです。
私の手元には、故毛主席の生家の前で撮られた一枚の写真が残っています。そこには、後に日本を代表する中国研究者に育った何人かの青年たちが、緊張の面持ちで写っています。中には、赤い星のついた人民帽をかぶり、人民服を着た女子学生もいます。まさに、革命聖地への巡礼といった風情です。
――先生、その時どうして香港から入境したのですか?
最近、若い学生たちからこう質問されました。
――どうしてって?それしか方法が無かったからだよ。
――へーえ。不思議ですね。飛行機で行けばいいのに。
いえ、不思議でも何でもありません。一九七八年は、文化大革命が終わったばかりで、直接中国に入ることは、非常に困難でした。もちろん、観光を目的とした旅行など、まったく無理な相談だったのです。私は、その時二十七歳、初めての中国訪問でした。この旅をきっかっけに、私と中国との距離は、急速に接近していきました。
*
ところで、そのおよそ一〇〇年前の明治十七年(一八八四)年八月、やはり香港を通り過ぎた青年たちがいました。それは、のちに日本近代を代表する、明治の文豪森鴎外と同行の九人の留学生たちです。鴎外は、船で横浜から香港を経て、サイゴンやシンガポールに寄港し、マルセイユに到着、さらに陸路でパリへ向かい、ベルリンに到着するまでのようすを、日記風のスタイルで克明に書き記しました。漢詩と漢文を巧みに駆使して書かれたこの渡航日記は、後に鴎外の主宰する医学雑誌に連載され、『航西日記』としてまとめられています。この時、鴎外は二十二歳。その眼に映じた香港の夜景は、どれほど美しかったことでしょう。
鴎外に同行した九人は、帰国後、法学や医学の権威となり、近代日本をリードする研究者、教育者となりました。若き日の夢、そして旅が、この香港を起点に始まったのです。
*
――ねえねえ、おなかすかない?
――そうだね、今度は小型バスに乗って行こうか。
先ほどまで、スタンリーで午後を楽しんだ私たちは、岩山の脇を疾走するマイクロバスに揺られて、銅鑼湾(コーズウェイベイ)に向かいました。現地で人気のデパートの近くにある、なじみの中国料理屋さんで、早い目の夕食をとるのです。この日のメインは、何と言っても自慢のスープと「石斑魚(キジハタ)」のお任せ料理。デザートは、もちろん桃まんじゅうと杏仁豆腐です。
またまた、「口福」のひとときでした。
※本記事は松岡榮志「カフェテラスで漢詩を」『CKRM中国紀行』2016,vol.03, pp110-111.を転載したものである。