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【17-01】中国から日本への茶の伝来経路

2017年 1月 5日

松下智

松下 智:愛知大学国際コミュニケーション学部 教授

略歴

1930年 長野県生まれ
1953年 愛知学芸大学(現教育大学)卒業後、
愛知県立西尾実業高等学校、安城農林高等学校教諭を経て、愛知大学国際コミュニケーション学部教授

主な著書

『日本の茶』(風媒社)
『茶の博物館』(東京書房社)
『日本茶の伝来 : ティー・ロードを探る』(淡交社)
『日本茶の自然誌―ヤマチャのルーツを探る』(愛知大学綜合郷土研究所ブックレット 11)等

 中国大陸から日本への茶の伝来経路については、漢文化発祥地ともいえる華北から山東半島を経て、朝鮮半島沿いに南下し、玄界灘を経て日本にたどり着くコース、次が長江沿いの江南文化として、長江河口あたりから東シナ海を越え、日本にたどり着くコース。さらに、中国南部の福建省、広東省方面の諸文化として華南文化伝来コースの3ルートが考えられる。

華北・山東ルート

 華北、山東ルートは、日本国が国家としての基礎を築くために、先進国の漢土から諸文化の導入を図ったルートであり、日本は航海術が未発達であったから、荒波の玄界灘を渡るには大変な危険を伴うことになるが、漢土に渡るのにはこのルートが最短距離なので、朝鮮半島を眺め、航海の安全を確認しながら往来したものと思われる。

 このルートで歴史上明らかになっているのは、中国では三国時代の「魏志倭人伝」に登場する「女王卑弥呼」である。ついて現れているのは、聖徳太子による遣隋使であり、小野妹子、犬上君御田鍬、矢田部造御嬬らの交流であって、隋を訪問し、その文化、文物、仏教などの導入があり、現在継承されている「法隆寺」「四天王寺」などが建立された。

 この時代の茶とのかかわりを見ると、女王卑弥呼をはじめ小野妹子ら、3~7世紀初頭までの記録には、茶に関する記述は現れていないが、中国茶史上には漢代からの記録もある。茶という飲み物が、人間社会に利用され始めたのはその頃からではないか、と考えられるからである。

 中国で茶が歴史上に現れるのは、三国時代(221~239)からではないだろうか。晋代(265~317)の作とされている『廣雅』と呼ばれる辞書の記述を、陸羽が『茶経』(760)に引用したものである。

 三国時代から続く隋代にかけて、茶に関する資料は多くは見出せないが、唐代には一気に茶の情報が四方八方に広がり、江南から華北、華北から西方の砂漠地代にまで伝わっており、新疆ウイグル自治区の首府であるウルムチ市内でも、唐代頃から継承されていると思われる磚茶を砕き煮出して飲むお茶を見ることができる。

 かつてのシルクロードは現在、「ティーロード」として活き続けており、古都の長安を起点として、アジア大陸の内陸部にも磚茶が運ばれ、蒙古やシベリア方面にまで、磚茶がその地方の民族特有の喫茶法によって飲まれている。

 唐代には、「遣唐使」として日本から多くの人々が出向き、仏教をはじめとしてあらゆる文物が導入され、官制、学制、田制、漢文字、史学、税制など、日本国の基本諸制度、文化に及んでおり、中国の仏教とともに茶の文化も招来している。ことに、円仁(838)による「入唐求法地礼記」は、中国大陸各地や仏教とともに茶の情報も記しており、唐代の茶業、茶文化の一大発展の様子をうかがい知ることができる。日本をはじめ各地に普及した「煎じ茶」の習俗が伝わり、現在の日本で今もって継承されているほどである。

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伝来初期の製茶法/日本

華中・江南ルート

 遣唐使のルートは華北・山東にも及ぶが、その多くは華中・江南ルートであり、茶に関しても唐代に急激に発展普及し、唐代につぐ宋代にさらに充実することになり、宋代からの抹茶の導入が基本となり、日本茶として現在に至っているといってよい。

 三国時代に始まったと思われた製茶法、喫茶法は陸羽によって『茶経』に記されている。それを見ると、武陵山地方では生の茶の葉を蒸して搗き、固形化し乾燥しておき、飲むときに火で焙って粉末にして煮沸して飲む。略述するとこのようになり、蒸すのが基本で、現在の日本茶の主流製茶法と大差はない。

 日本茶の伝来を見ると、華中・江南ルートの栄西禅師(1191年)によるものというのがほぼ定説となっており、天台山に学んだ栄西禅師の将来した茶の実が、九州の背振山、又は平戸の千光寺に播種されたのが、日本茶の始まりとされている。

 栄西禅師の将来した茶が、日本の茶業へと発展するのには、京都高山寺の明恵上人に茶の実が渡っており、茶の木が発芽後ほぼ10年後にならないと結実不可能であることから、明恵上人に渡った茶の実は、その年月から見て納得できる。

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江南の喫茶

華南・閩南ルート

 日本と華南・閩南の間の交流というと、「隠元禅師」なしでは語れない。

 隠元禅師は63歳の高齢をもって承応3年(1654)に来日しており、日本の宗教界、ことに禅宗に新風を吹き込み、隠元豆に象徴されるように、江戸期の日本人の生活に、明末清初の漢文化から生活文化に及ぶ多大な影響をもたらした。

 茶について見ると、隠元禅師の出身地である福建省南部の喫茶習俗とともに製茶法も伝えている。隠元禅師が飲んでいた茶の葉は原料の茶葉をもむことによって、茶の本来の香りを味わうことができるようになったのである。

 以来、日本茶業の主流は「煎茶」ということになったが、煎茶とは煎じ茶のことであり、茶の葉を煮沸して飲むことである。しかし、現在の煎茶は煮沸せず、お湯を注ぐだけである。これは華南・閩南地方の喫茶習俗であり、「工夫茶」の呼称で親しまれている喫茶法である。

 華中・江南からの抹茶は、栄西禅師、そして千利休へと伝わり抹茶の茶道文化へと成長したが、華南・閩南からの煎茶も、隠元禅師に引継がれて、煎茶の茶道文化へと発展した。この両者は仏教、とりわけ禅宗の影響が大きく、禅宗の根底にある「空」の思想、中国の漢文化として老荘思想の「無」が一体となった「無為自然」の思想が、主流となって現在に受け継がれている。

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華南・閩南の喫茶


※出典:「中国から日本への茶の伝来経路」『和華』第10号(2016年4月),pp.22-24,アジア太平洋観光社。