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【17-14】日本に胎動する「中国」――テーマパークとしての「横浜中華街」とリアル中国としての「東京中華街」?

2017年 6月12日

宮城

宮城 佑輔:早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士課程

宮城県仙台市生まれ。
2009.4-2012.3 早稲田大学大学院文学研究科修士課程
2012.4-2013.5 内閣府政策統括官(経済財政分析)付参事官(海外担当)付アジア班
2014.4-    早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士課程

1、「どこにもない中国」としての横浜中華街

 第二次世界大戦以前から現代に至るまで、日本の歌謡曲やロックミュージックにおいてはしばしば「中国」が歌詞のテーマとして選択されてきている。その中でも中華街、とりわけ横浜中華街は人気の主題の1つとなっている。例えば細野晴臣による楽曲「北京ダック」の歌詞においては、異国情緒、混沌、エネルギー、郷愁といった、戦後の中華街に託されてきた典型的なイメージが見る事ができる。だが、現在の横浜中華街はもっと整然としたイメージだろう。

 横浜中華街は神奈川県横浜市中区にあり、牌楼で囲まれた約500メートル四方の区画を指している。この中には620の店舗が並び、うち226件が中華料理屋となっている(2010年調べ。横浜中華街公式サイトより。URL: http://www.chinatown.or.jp/guide/q_and_a/)。中華街は、横浜でも1、2を争う人気観光スポットして有名だ。図1は横浜中華街の東に位置する「朝陽門」である。風水思想に基づき整備された牌楼は、いかにもな「中華」を想起させるが、中国人旅行者がこの横浜中華街を訪れた際、そこに故郷・中国の濃密な空気や懐かしさを見出すことができるのであろうか?

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図1 横浜中華街の東部に位置する朝陽門

 この問いに対する回答として、華僑研究者・山下清海と中国人留学生のやり取りが1つの参考になるだろう。山下は中国人留学生Gを連れて横浜中華街を連れ、その学生に横浜中華街に来た感想を尋ねた。するとその学生はこのように答えたという。

「ここはとてもおもしろい。だって、こんなところは中国のどこにもないです」(『池袋チャイナタウン――都内最大の新華僑街に迫る』、15ページ)。

 確かに、いかに個々の建物が中国的意匠を有していようとも、横浜中華街の妙にこぎれいな路地や、日本式の接客スタイルを持つ飲食店や商店に、中国本土の人々は、隠れざる「日本のにおい」を見出すのである。

2、戦後の日本の歴史と共にあった横浜の華僑達

 横浜と中国人の歴史は、日中が国交を正常化する100年以上前に遡る。1859年に横浜が開港し、1862年には横浜新田の外国人居留地が誕生。これ以来この地域には多くの中国人が住むようになった。19世紀後半から20世紀初頭にかけて、華僑による互助会、料理屋、関帝廟など、社会的組織や文化的建築物に関して、今の横浜中華街の原型となるものが次第にできあがった。そして、こうした中華街と華僑の歴史は、日本の近代史と共にあった。

 例えば1923年の関東大震災では、横浜市に5,721人いた華僑の人口は、その3割にあたる1,700人前後が亡くなったという(『横浜中華街150年――落地生根の歳月』、42ページ)。 1945年の5月29日には横浜大空襲が起こり、中華街もこれにより大きなダメージを受けた。同年8月15日には終戦を迎え、さらに4年後の1949年の中華人民共和国建国に際しても、横浜で地盤を築き上げた華僑たちは地元に残り続け、日本人とともに戦後の生活を歩んでいった。華僑二世であり、中華街からほど近い本牧・麦田町で中華料理屋「奇珍」を営んでいた黄礼祥(1912〜99年)は、戦後間もない頃の日本人相手の商売について以下のように述べている。

戦後はね、親子丼だとか卵丼だとか、かつ丼なんかみんなやって、カレーライスとかみんなやってたんだ。(黄)

中華料理だけじゃなくて。(インタビュアー)

戦後われわれがね、飲食店やんなきゃね、日本はずいぶん困ったもんだ。そう言っちゃ生意気だけど、食べるもの無いんだもん。(黄)

(『横浜華僑の記憶――横浜華僑口述歴史記録集』31ページ)

 以上のように、戦後の困難な食糧状況下にあって、旧華僑たちは時に日本文化との混交を受け入れ、日本人とともに苦難を乗り越え、日本人を助け、「日本の戦後」の一角を形作ってきたのである。

3、「新華僑」の誕生と中華街の変化

 図2は、横浜市における中国人登録人口の推移である。1980年代以前は、戦前から戦中にかけて横浜に住み着いた華僑とその子息で構成されるオールドカマーの華僑達が常に4,000人〜5,000人ほど居住していたと考えられる。1972年には日中の国交が正常化し、横浜中華街発展会協同組合が立ち上がる。続いて1980年代以降は「新華僑」と言われるニューカマーの人々の増加が目立つようになり、1984年には中国人登録人口は5,000人を突破、7年後の1991年には10,000人を突破した。

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図2 横浜市における外国人登録人口の推移

 1980年代はバブル景気とそれに伴うグルメブームがあり、1986年には第1回「春節祭」が開催され、1989年には中華街の象徴的な牌楼の建て替えも行われた。こうして次第に「中国テーマパーク」化、観光地化が推進され、横浜中華街は独自の成長を成し遂げた。

 1990年代以降も、こうした街の発展に合わせる形で、行政と中華街の組合の連携はより進んでいる。例えば1995年には「中華街憲章」が制定され、2006年には「横浜中華街 街づくり協定」が締結され、これにより、行政と中華街の連携が文章により明確化された。後者の「街づくり協定」においては、「歴史と文化の薫り漂う街としてのイメージを代表する風景があり、商業と生活が共存共栄し、自らが景観を守り育てる愛着と誇りをもちながら魅力と活力ある街を目指します。 安全で快適な商業居住地域として更なる発展をさせていくには居住者と事業者が協働して活力ある街づくりが継続できる新たな街のルールを定め、地域住民の一員としての誇りを持ち、横浜中華街の個性的な景観とコミュニティを次世代に引き継いでいきます」(『横浜中華街 街づくり協定』URL: http://www.chinatown.or.jp/wp-content/themes/china2/pdf/chinatownagreement2010.pdf)という、街づくりの基本理念が述べられている。これにより、「日本の行政システム化で維持される中華街」という、横浜中華街の基本的枠組みがさらに明確化されることとなった。しばしば「世界一治安のいいチャイナタウン」と呼ばれる横浜中華街の成立の裏には、華僑、日本人住民、行政の協同があったのである。

 華僑の出身地別構成に関しては「1980年代半ばに福建系の新華僑が急増する以前は、横浜中華街の大半は広東省にルーツを持つ人びとであった」(『横浜中華街150年――落地生根の歳月』、40ページ)とされるが、1990年代、2000年代の新華僑の増加はすさまじいために、多くが広東省に由来する旧華僑の文化、さらには初期の新華僑にあたる福建系の中国文化さえも次第にその存在感を弱くしていくと考えられる。本土の経済成長や、ビザの緩和の影響を受けながら、横浜中華街は今後もその姿を変え続けていくことだろう。

 個人的にはいかがわしさや猥雑さも包含する街のダイナミズムのほうが好みなので、こうした点は残しておいて欲しいが、それらは観光地としての統制やクリーンさとトレードオフの関係にあるので、異国情緒の安易なロマン化には注意が必要であろう。ではこうした「統制」がない中華街とはどういったものなのか? 

 ところで上で横浜中華街について「こんなところは中国のどこにもないです」と言った中国人留学生Gのセリフには続きがある。「ところで先生、いまから池袋へ行きませんか。池袋のほうが本物の中華料理が食べられますよ」…。

4、池袋の「東京中華街」構想

 バブル崩壊後の不動産価格の下落を背景とし、90年代以降は新華僑が池袋に集まった。特に池袋の西口周辺には自然発生的に中国人経営の小店舗が増加した。こうした店舗は主に中国人顧客相手の商売を展開しているため、接客ではしばしば中国語が用いられる。料理の味付けも日本人向けに「手加減」などはしない。これが上記の中国人留学生Gにとって池袋の中華料理が「本物の中華料理」と感じられたゆえんである。山下清海は、こうした新華僑による中華街を「新・中華街」と呼ぶ(『新・中華街 世界各地で〈華人社会〉は変貌する』)。池袋のような新・中華街は、横浜中華街のような行政お墨付きのクリーンな観光スポットというよりも、中国人のための居住区という意味合いが強い。さて、こうした新・中華街と豊島区行政の関係はどうなっているのか。

 1994年、豊島区では基本計画審議会の委員に、東洋大学修士課程に在籍する中国人、張少卿を迎えるなど、1990年代から徐々に外国人参画を行ってきた(日本経済新聞1994年5月24日)。だが「中華街」という枠組みでの、行政・外国人連携はまだ本格的に始動しているとは言えず、「池袋チャイナタウン」や「東京中華街」といった名称も、未だ通称に過ぎないというのが現状である。

 そもそも、池袋においてまとまった「中華街構想」が立ち上がってきたのは、それほど古い話ではない。2008年、池袋に「東京中華街促進会」という商店組合が産声を上げ、ここで初めて中華街構想が立ち上がった。だが一方で、元々付近には商店組合が存在しており、このような旧来の商店組合を無視しての突然の中華街構想の立ち上げに対し、地元の人は少々面食らっているという。こうした中、「東京中華街促進会」は、商店街の清掃を開始するなどの草の根活動を行い、地元での信頼の醸成に取り組んでいる(朝日新聞2008年8月28日夕刊)。「nippon.com」の記事によれば、豊島区主催の委員会などにおいては、「中華街」に関する評価は、強み(観光面)と弱み(治安面)の2つ観点から、割れているという(2015年8月20日『拡散する新チャイナタウンの実態 新宿・池袋から北へ東へ』、URL: http://www.nippon.com/ja/features/c02403/?pnum=1)。

 現在(2017年6月1日)では「東京中華街」のポータルサイトも見られるようになり、「中華街」としてのまとまりは、徐々に構築されつつある。「東京中華街」は、横浜中華街のように地元住民や行政の信頼を構築し、「地元のお墨付き観光スポット」となっていくのだろうか。それとも、海外のチャイナタウンのように、「中国人居住区」化していくのだろうか。今後の池袋西口の動向に注視されたい。