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【17-19】正倉院の緑瑠璃十二曲長坏:北のシルクロードにおける物々交換と文化交流

2017年12月15日

朱新林

安琪(AN Qi):上海交通大学人文学院 講師

2001.9--2005.6 四川大学中文系 学士
2005.9--2007.6 ロンドン大学東洋アフリカ学院(SOAS)歴史系
東洋歴史専攻 修士課程修了
2008.9--2011.6 四川大学文学・メディア学院 中文系
文化人類学専攻 博士コース
2010.9--2011.8 ケンブリッジ大学モンゴル中央アジア研究所(MIASU, University of Cambridge) 中英博士共同育成プログラム 博士号取得
2011.8--2013.11 復旦大学中文系 ポスドク
現在 上海交通大学人文学院の講師として勤務

 2017年10月、毎年1回開かれる正倉院展が例年通り開催された。今回の展覧会(第69回)では青緑色の緑瑠璃十二曲長坏(みどりるりじゅうにきょくのながつき)が展示され、ホール中央のガラスケースの中で緑色の神秘的な輝きを放ち、各国から訪れた観覧者が絶えることなく足を止めていた。楕円形の坏は長径22.5cm、短径10.7cm、高さ5.0cm、重さ775gで、底部には脚がついておらず、底部は丸く、表面には花草が彫られ、両側にはウサギやイノシシなどの動物も彫刻されている(図1)。正倉院にはこの坏を含め、合計6点のガラス器が収蔵されているが、いずれも高級な「唐物」であり、5世紀から10世紀にかけて中日間で行われた古代科学技術交流と文化交流の象徴と言えよう。

図1

図1.正倉院の緑瑠璃十二曲長坏[1]

 中国のガラス焼成技術は遅くとも2200年前の戦国末期には成熟しており、東周晩年や漢代の墓からは美しいガラス製の文物が大量に出土している[2]。ガラス品の製作をめぐる日中間の技術交流にも長い歴史がある。日本で最も古いガラス製の文物は弥生時代中期、すなわち紀元前1世紀ごろのもので、当時の中国は前漢中晚期にあたる。九州の佐賀県吉野ヶ里遺跡から出土したガラス製の管玉75個の化学成分は中国の中原地方で出土したガラスと基本的に同じで、東アジア諸国特有の鉛バリウムガラスであるため、中国で溶融されたガラス塊が日本に運ばれた後に、管状の装飾品に再加工されたと推測する研究者もいる[3]

 前漢時代に張騫の手で中国とアジアの内陸諸国と間のルートが開かれて以来、ローマ帝国で吹きガラス技法により生産されたローマガラスが遠く東方へと運ばれてきた。5世紀ごろの中国ではガラスは「西域の宝」と言われ、ガラスは西方の「万年氷」の生まれ変わりであると広く信じられていた[4]。六朝時代の貴族は「富を競い合う」行為の一環として芸術を尊んでいたため、輸入ガラス器も富をひけらかし、比べ合うための格好の品であった。たとえば、『洛陽伽藍記』にも、後魏の楊弘(河間王)は親族を家に招いて日常的に宴会を開いており、その時に使った酒器は「水晶製の碗や瑪瑙(めのう)、ガラス碗、赤玉杯数十枚があり、技巧は奇妙で、中土(中国)のものは存在せず、いずれも西方から伝わったものである(水晶碗、瑪瑙、琉璃碗,赤玉卮数十枚,作工奇妙,中土所无,皆从西来)」と記されている。インド亜大陸の仏教信仰が中国に伝わると宝石の分類や等級に対する中国人の意識が変わり、ガラスも金、銀、サンゴ、瑪瑙、硨磲(しゃこ)等の宝石と同様に仏教における「七宝」のひとつと見なされるようになった。敦煌にある莫高窟の壁画にも、ガラス碗を手に持つ菩薩像が多く見られる(図2、3)。

図2

図2 敦煌莫高窟 328窟壁画:ガラス碗を手に蓮を養う菩薩[5]

図3 敦煌莫高窟 225窟壁画:ガラス製の甕を手に持つ菩薩[6]

 ガラス器は仏教の広がりに伴って東へと伝わり、平安時代には日本にも入ってきた。隋大業三年(607年)に日本は隋に遣隋使を送り、数十人の僧侶を派遣して仏教を学ばせた[7]。空海が大同元年(806年)十月二十二日に天皇に献上した『請来目録』(しょうらいもくろく)において記録される唐から持ち帰った品目の中には、青瑠璃供養碗が二口、白瑠璃供養碗が一口、紺瑠璃の箸一対があり、いずれも青龍寺の密教僧、恵果大師から贈られたものである。唐大中十一年(857年)十月に、遣唐使の入唐請益僧である円仁が『入唐求法目録』に記録した「瑠璃瓶一口」は、田園覚が広州から送ったものであり、もう一つの「瑠璃瓶」は「日本国商人」と称された李英覚や陳太信らから送られたもので、本国に持ち帰り供養された[8]。これらのことから、六朝から隋唐時期にかけての中日交流で、ガラス器は中国化された仏教が日本に伝わる中で象徴的な役割を果たす物品であったことは想像に難くない。

 海を渡って伝わった「唐物」は、平安貴族の目には唐文化の象徴として映った。『竹取物語』や『うつほ物語』などの当時の物語文学でも、「唐風文化」の象徴として「唐物」を用いる例が多く見られる。たとえば、『源氏物語』の「梅枝」の巻では、朝顔の姫君が念入りに調合した香を唐から伝わった瑠璃製のつぼに入れるくだりで、次のように書かれている「沈の筥に、瑠璃の坏二つ据ゑて、大きにまろがしつつ入れたまへり。心葉、紺瑠璃には五葉の枝、白きには梅を選りて、同じくひき結びたる糸のさまも、なよびやかになまめかしうぞしたまへる」(沈の木の箱に瑠璃の脚付きの鉢を二つ置いて、薫香はやや大きく粒に丸めて入れてあった。贈り物としての飾りは紺瑠璃のほうには五葉の枝、白い瑠璃のほうには梅の花を添えて、結んである糸も皆優美であった)。[9](図4)

 正倉院のこれら数件のガラス器は「唐物」ではあるが、その造形と製造技術は唐ではなく、はるか遠くのイラン高原から伝わっている。7世紀の東アジア大陸は征服と移民の時代にあり、異国から伝わる物品を尊ぶ時代でもあった。桑原隲蔵は『隋唐時代に支那に来往した西域人に就いて』という文章の中で、長安に流れ着いた九つの姓の胡人(西域人)(康、安、曹、石、米、何、史、火尋、戊地)について考証した。彼らは「昭武九姓」、「九姓商胡」と呼ばれ、商売が得意なことで有名で、中国北方の長安や洛陽、南方の広州は西域から来た商胡の集まる地となり、「香薬珍宝積載如山」(香薬・珍宝が山のごとく集まる)と称された。651年にアラブ軍がササン朝(Sassan)を滅亡させると、最後の皇帝のIsdigerdとその子孫Firuz、Narsesらは唐の領土内に亡命した。このころの民族、物質文化の大規模な接触により、極東地域でペルシア文化が流行した[10]。7世紀末から8世紀初にかけて、外国のぜいたく品や珍宝を求める気風が唐朝宮廷に始まり、社会のさまざまな階層や日常生活に広く浸透していった。胡器、胡服、胡楽、胡食、胡姫、胡舞、果ては胡の化粧術までが当時は流行の最先端とみなされた。

 正倉院所蔵のガラス器も、「九姓商胡」がユーラシア大陸内部から唐に持ち込んだ物であるはずだ。今年展示された緑瑠璃十二曲長坏の器形も、唐代以前の中国のガラス器にはない、降ってわいたような器形であるため、その起源については外来文明から手がかりを探るしかない。このような多曲の様式は実際に、ササン朝における金銀杯の典型的な造形だった[11]

 長坏の平面は楕円形で、坏体にはひだがあるために稜線は凹凸状になっており、脚部には背の低い糸底がある。このような器形は3世紀から8世紀にかけてササン朝(226-652)で流行した。当時はイラン高原のガラス製造の最もさかんだった時期で、精美なガラスの装飾や器が大量に外国に輸出され、多曲の花びら状の杯はササン朝の代表的な器の一つとなった。これら長坏は西洋の文献でLobed dish、または長坏や楕円形の皿という意味のOb long cup、shallow cup、oval dishと称された。日本の研究者はこれらの器物を長坏と呼び、縁にほどこされたひだの数に応じて四曲、八曲長坏、十二曲長坏と呼び分け、または多曲長坏と総称した。

 ササン朝様式の多曲長坏は4世紀以前には中国にわたっている。新疆ウイグル自治区クチャ県のキジル石窟第38窟主室の窟頂部には4世紀の壁画が残っており、多曲長坏の絵を見ることができる。中国国内で知られる最も古い多曲長坏は1970年に大同市南郊の北魏時代の建築遺跡から出土した「八曲銀洗」で、5世紀中晚期のものである。高さは4.5cm、口径は23.8cm×14.5cm厘米で、紋様は素朴であり、八曲のひだは一つ一つが器の腹部に向かって深くくぼんでおり、誇張された湾曲を形作っている(図5)。唐代に出土した金銀器の中でこのような多曲長坏はすでに数十件に及んでおり[12]、世界各国の博物館や美術館に分散して収蔵されているが、それぞれの器形差は大きい。

図4

図4. 大同市南郊の北魏時代の建築遺跡から出土した八曲銀杯[13]

 日本で収蔵されるササン朝の多曲長坏には、正倉院南倉の金銅八曲長坏(第64回正倉院展にて展示)と今回展示された正倉院中倉の緑瑠璃十二曲長坏がある。日本の考古学者の原田淑人は正倉院所蔵のこれら2件の多曲長坏とアメリカやイギリスで所蔵される唐代の銀製多曲長坏との比較研究を行い、器形の起源は中国漢代の耳杯(じはい)にあると考えた[14]。また、深井晋司は、日本で所蔵される多曲長坏はササン朝の器物であり、ペルシア人が古代ローマの貝殻模様の銀器に触発されて創出した新たな器形であると指摘している[15]

 しかし、これらの器形のほとんどは東洋人が飲み物を飲む習慣にはそぐわないものだったため、多曲長坏が唐朝に伝わった後は中国の職人によって改造が続けられ、糸底を高くしたり、ふちの花びら上の曲弁の深さや誇張が減らされたりして、最終的には曲り方の浅い花びら上の形態に定型化され、この形が後の金銀器や陶磁器で長い間流行を続けた。また、材質も多様化してガラス、水晶、玉、瑪瑙製の多曲長坏が登場した。陝西省西安市の何家村の窖蔵(穴倉)から出土した文物の中には、希少な水晶八曲長坏(図7)がある。この器は高さ2.9cm、口径9.5cm、幅5.5cm、壁厚0.1cmであり糸底は直径4.8cm、幅2.7cm、高さ0.27cm、厚さ0.3cmあり、無色透明の水晶で作られている。これは、唐代で唯一の考古学的に発見された水晶製の容器であり、その器形はササン朝の多曲銀長坏と非常に相似している[17]

図5

図5. 何家村水晶八曲長坏(陝西歴史博物館蔵)[17]

 ササン朝の金銀飲食器は中国に伝えられると中国文化の影響を受けて改造され、その変化は器形と材質に表れた。何家村から出土した白玉八曲長坏には、中国特有の宝石であるホータン玉が使用された。外壁にはとがった葉の忍冬(スイカズラ)の卷草紋がほどこされ、平面は八曲の楕円形を呈し、杯体はやや浅く、曲弁は対称をなし、曲線は器の内部にむかってくぼみ、高さ3.8cm、長径10.1cm、短径5.5cmである(図8)。斉東东は唐代の金銀器を研究する中で、楕円形の低い糸底は、7世紀後半の中国において銀製の長坏で非常に流行したことを発見した。このため、こ の白玉杯も中国の職人がササン朝の多曲金銀長坏を模倣した産物であると考えられ、装飾や紋様には南北朝時代には中国で非常によく使われていた忍冬紋(スイカズラ)が直接受け継がれていたことから、この白玉杯は中西文化の融合の産物と言える[18]

図6

図6. 何家村白玉忍冬紋八曲長坏(陝西歴史博物館蔵)[19]

 多曲長坏は唐代の貴族階級の日常生活に良く使われたものだった。この点については、何家村から出土した文物以外に、唐代の壁画にも当時の多曲長坏の痕跡が残されている。房陵大長公主(619-673)の墓の前墓室東壁南側には、高いまげを結い、開襟の男性用中国服を着た侍女が右手に長頸壺を提げ、左手には多曲坏を水平に持ち、横向きに立っている絵が描かれている(図9)。また、懿徳太子李重潤(682-501)墓の壁画にも侍女が多曲長坏を捧げ持つ絵が描かれている(図10)。

図7

図7. 唐代房陵大長公主墓 前室東壁南側壁画[20]

図8. 唐代乾陵懿德太子墓 前室東壁北側壁画[21]

 それでは、正倉院の多曲瑠璃坏はササン朝ペルシア王国の産物と確定できるのだろうか。原料の成分から見れば、正倉院所蔵の多曲瑠璃坏に含まれる酸化鉛の含有量は55%もあり、銅を混ぜることによって緑色を出している点は中央アジアや西アジアのソーダ石灰ガラスとは異なり、中国で作られた鉛バリウムガラスと成分が類似することから、中国で作られたものと見るべきである。これまでに中国で出土されたガラス器からは、正倉院の多曲ガラス杯の近似する器物はまだ見つかっていないが、唐代の金銀器の中でこのような形状の多曲長坏は非常に多く見られている。つまり、造型はササン朝に、原料は中国に由来し、中国で製造された後に日本にわたって千年以上保存されたのだろう。このため、この美しい緑琉璃色の酒器は、本当の意味で国際的な文物と言うことができる。


[1] 画像出典:宮内庁ホームページ http://shosoin.kunaicho.go.jp/ja-JP/Treasure?id=0000011994

[2] 沈従文『玻璃工芸的歴史探討』,『古人的文化』,北京:中華書局,第169-173頁。

[3] 安家瑶『玻璃器史話』,北京:社会科学文献出版社,2011年,第65頁。

[4] (唐)段成式『酉陽雑俎』巻11,第85頁。

[5] 画像出典:http://www.360doc.com/content/16/0611/18/11527286_566805424.shtml

[6] 画像出典:http://www.360doc.com/content/16/0611/18/11527286_566805424.shtml

[7] (唐)魏征『隋書』巻八一『倭国伝』,1827頁,北京,中華書局,1996年

[8] 高橋順次郎『大正新修大蔵経』五五冊『目録部』,1065頁、1101頁、1107頁,台北:新文豊出版公司,2001年。

[9]紫式部『源氏物語』,林文月訳,上海:訳林出版社,2011年,第二冊,第305頁。

[10] 白適銘『唐代出土西方系統文物中所呈現的"胡風文化"』,韓国中国史学会編『中国史研究』(第四十六輯),第31- 62頁,ソウル,中国史学会,2007年。

[11] Bo Gyllensvard, "T'ang Gold and Silver", in Bulletin of the Far Easter Antiquities, no. 29, 1957;斉東方『唐代金銀器研究』,北京:中国社会科学出版社,1999年,第256、384-396頁。

[12] 斉東方、張静『薩珊式金銀多曲長壊在中国的流伝與演変』,『考古』1998年第6期。

[13] 画像出典:http://roll.sohu.com/20110521/n308135569.shtml

[14] 原田淑人:「正蔵院御物を通して見たる東西文化の交渉」,『東亜古文化研究』,1940年,第82-83頁。

[15] 深井晋司:「鍍金銀製八曲長坏」,『ペルシア古美術研究 : ガラス器・金属器』,吉川弘文館,昭和四十二年(1967)。

[16] 斉東方、申秦雁『花舞大唐春----何家村遺宝精粹』,北京:文物出版社,2003年,第97頁。

[17] 画像出典:www.nipic.com

[18] 斉東方、申秦雁『花舞大唐春----何家村遺宝精粹』,北京:文物出版社,2003年,第98頁。

[19] 画像出典:https://freewechat.com/a/MjM5MjA0MjA4Mg==/2651409427/1

[20] 画像出典:『新城、房陵、永泰公主墓壁画』,図三四,北京:文物出版社,2002年,第49頁

[21] 画像出典:『懿徳太子墓壁画』,北京:文物出版社,2002年,第48頁。