【18-04】青木正児と「江南春」
2018年7月5日
朱新林(ZHU Xinlin):山東大学(威海)文化伝播学院 副教授
中國山東省聊城市生まれ。
2003.09--2006.06 山東大学文史哲研究院 修士
2007.09--2010.09 浙江大学古籍研究所 博士
2009.09--2010.09 早稻田大学大学院文学研究科 特別研究員
2010.11--2013.03 浙江大学哲学学部 補助研究員
2011.11--2013.03 浙江大学ポストドクター聯誼会 副理事長
2013.03--2014.08 山東大学(威海)文化伝播学院 講師
2014.09--現在 山東大学(威海)文化伝播学院 副教授
2016.09-2017.08 早稲田大学文学研究科 客員研究員
青木正児(1887~1964)は日本の著名な中国研究者で、子供の頃から中国の伝統文化に興味を持ち、大学時代から中国の元曲(元代に盛行した演劇)の研究にいそしみ、「中国曲学研究の第一人者」と 呼ばれるようになった。そして、中国の俗文学の研究に力を入れ、それを中心にして、中国人の日常生活や文化を考察し、エッセイ「中華名物考」を出版した。
青木は1922年と1924年に中国を2度訪問した。1922年3月から5月まで、中国を初めて訪問した後、中国旅行記「江南春」を出版した [1] 。「江南春」は6部からなり、第一部の「江南春」は、1922年3月から5月に初めて中国を旅行した時に見聞きしたことをまとめ、同年6-8月の雑誌『支那学』に掲載された。青木が上海や杭州、蘇州、南 京、揚州、鎮江などの地を旅行して見聞きし、感じたことのほか、自 身の中国に対するイメージや認識を記録している。第2-5部は「文苑腐談」、「拘肆野語」、「絵事瑣言」、「竹頭木屑」で、中国の文学・芸術、生 活・文化などについて評価している。第6部の「支那童謡集」は 中国のわらべ唄120曲あまりを口語訳して収めている。青木は中国に対して、強い憧れと幻想を抱いていたものの、中国の現実を目にして、そ の良いイメージは少しずつ崩れてしまった。
青木は中国俗文学の研究に力を入れていたため、庶民の生活に注目し、裏町に行って、庶民の生活を感じることを好んだ。青木は杭州に行った時のことについて、「 人通りの少ない裏町では三絃子の爪弾きが聴こえてくる」 [2] と書き、揚州では現地の民謡を耳にして、「聴耳を立てて聞いてゐればゐる程敦朴な情趣にそゝられる」 [3] とし、調子の低い旋律の緩やかな一曲で、「 それは蘇州、上海の寄席で演じられている鼓詞、弾詞とは比べ物にならない」 [4] と書いている。しかし、現地のレストランで宴席が設けられ、伝統的な弦楽器の音と共に、上 海から来た商人の怒鳴り声と拳を打つ音が聞こえた時のことを振り返り、「この世界に拝金主義者ほど、人 を嫌な思いにさせるものはない。彼らは低俗な楽しみをこの上もないものと考え、世界の名勝・西 湖を自分の物のように扱い、騒々しさでそこの静けさを台無しにしている」と書いている。 [5] また、杭州で、芝居小屋に入り芸妓の歌声を聴いた時のことについて、「 意味も節回しもチンプンカンプンであり美人かどうかも一向にわからず、新劇なる物を見ると馬鹿げており愚劣と思われた」 [6] と振り返り、南宋時代の戯曲、雑伎、武術などが演じられていた施設・瓦 市に対する良いイメージは崩れてしまう。
「江南春」の記録を見ると、青木にとって中国がどのような存在だったかを垣間見ることができる。まず、青木が杭州、南京、蘇州、揚州などの都市を選んで旅行していることから、青 木にとって中国の江南はあこがれの地であったことが分かる。青木は、それらの地へ行くと、南宋の寄席・瓦市を見ることができ、宋曲のなごりを感じることができると思っていた。また、青 木は貴族などの生活や文化に注目するのではなく、その目を裏町に向けた。文学は生活から生まれるもので、戯曲もそうである。青木は作品の価値を評価する際、▽芸術・革新▽舞台生命―――の二つを基準としている。 [7] そのため、杭州の湖畔で歌を聞いた時、それに酔いしれた。最後に、青木は中華文化に強い興味を持ち、重要な考証だけでなく、実地調査をも重視した。例えば、著書「中華名物考」の序文では、自 身の名物学の研究の経歴についてまとめており、京都大学で学んでいる時に中国の風俗習慣に注目し、2回目の中国訪問の際には、北京の風俗・風物の詳細な図録「北京風俗図譜」の作成を頼んでいる。
総じて言うと、青木の中国旅行記である「江南春」を通して、彼の中国文化の包容性と文化復興に対する認識、名利を追い求めながらも、静かで無欲な一面も備えている中国人の国民性への思い、中 国の昔の風俗習慣への追想、さらに、儒教を批判し、道教を称賛する異色の姿勢を見ることができる。 [8] 青木はまた、お酒やお茶、飲食などをめぐる文化、風俗習慣などの分野においても、広 く詳細にわたる研究を展開し、中国古典文化における日常生活の情景を描き出している。青 木がこれほどまでに熱心に名物学の研究を行ったのは、中国古典文化における日常生活の情景を描き出すためだ。そして、非 常に綿密な学術論証を通して、古典詩文の研究をサポートしているが、そこからは、「 中国の文化に対するノスタルジア」をも感じることができる。 [9]
[1] 王青訳「両個日本中国学者的中国紀行」所収、光明日報出版社、1999年9月。
[2] 王青訳「両個日本中国学者的中国紀行」第100頁、光明日報出版社、1999年9月。
[3] 王青訳「両個日本中国学者的中国紀行」第120頁、光明日報出版社、1999年9月。
[4] 王青訳「両個日本中国学者的中国紀行」第120頁、光明日報出版社、1999年9月。
[5] 王青訳「両個日本中国学者的中国紀行」第101頁、光明日報出版社、1999年9月。
[6] 王青訳「両個日本中国学者的中国紀行」第101頁、光明日報出版社、1999年9月。
[7] 汪超宏「一個日本人的中国戯曲史観----青木正児「中国近世戯曲史」とその影響」『上海戯劇学院学報』、2001年第3期。
[8] 胡天舒「青木正児的中国認知----以『江南春』為中心」『東北師大学報:哲学社会科学版」、2016年第1期。
[9] 李勇「名物学与青木正児的中国文学研究範式」『昌吉学院学報』、2010年第6期。
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