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【18-11】宋代中国茶器の故郷(福建省)―中国茶の舞台を訪ねる

2018年12月5日 棚橋篁峰(中国泡茶道篁峰会会長)/竹田武史(写真)

抹茶文化の歴史を紐解く「天目茶碗」の故郷へ

 お茶を美味しく飲むためには、よい茶葉と共によい茶器が必要です。古来茶器の美しさは、その場を文化的な空間に変える力があるとして重視されてきました。ですから、茶器の知識や鑑定眼は、基本的な教養として考えなければいけないのです。今回は宋代に流行った茶器の故郷について、その一つである福建省の建窯を訪ねてみましょう。

 茶器は、飲み方によって形も材質も絶えず変化してきました。初期の茶器は西晋代(265~316)の杜育が『荈賦』に「茶器を選ぶなら東甌(浙江省)の青瓷茶器がよい。」と言っています。

 唐代(618~907)も青瓷茶器が流行っていたことは、陸羽著『茶経』「四之器」に書かれています。その中で「越州瓷(浙江省)、岳瓷(湖南省)は皆青色で、青色は茶によい。」と言っています。更に唐代に北方の邢州窯(河北省)で作られていた白瓷器は青瓷器とは違うと指摘しています。その理由は、当時の煮茶を飲む時、茶器がお茶の色を引き立てる役割をするので、白瓷器は茶葉の色が失われるため青瓷器の方が茶色が美しく見えるということです。

 宋代(960~1279)は茶の飲み方が大きく変わり、都の開封(河南省)や臨安(浙江省杭州)などの地域では抹茶を飲むようになります。すると陶瓷器の茶器を作ることが飛躍的に発展し、特に官窯と言われる皇帝に献上する茶器や高級茶器を焼く、定窯(河北省)、越窯(浙江省)、汝窯(河南省)、龍泉窯(浙江省)、耀州窯(陝西省)、鈞窯(河南省)、景徳鎮窯(江西省)等は素晴らしい茶器を生み出すのです。

 このように皇帝や上流階級社会に抹茶が登場すると、民間や官僚の間では、福建省で始まった闘茶という賭け事が江南地区で流行しました。「闘茶は、福建人は茗戦とも言った」というように、当時闘茶が厳しい勝負をしたことが分かります。闘茶は、抹茶を茶筅で泡立てたときの、茶湯表面の色あいと泡のバランスや、泡の明るさと白さを判定基準とします。つまり泡立ちが良く、その泡が長く持続すると勝ちで、短い間に泡が散り、茶碗の内側に泡の立っていない水の痕が残ると負けとなりました。その為、闘茶に使用する茶碗は黒色が多く使用され、判定結果を分かりやすくしたのです。

 闘茶の勝負にこだわった当時の人々は、江南地区の民間窯の建窯(福建省南平市建陽区)や吉州窯(江西省吉安)で作られた黒釉茶碗を愛用しました。その後、闘茶の抹茶法は、南宋の径山万寿寺等の寺院茶礼にも登場します。その結果、南宋禅宗寺院に渡って研修した日本の禅僧によって帰国の時にもたらされた茶椀が、日本の禅宗茶礼や茶道に大きな影響を与えます。ちなみに建窯の黒釉茶碗が日本では天目茶碗と呼ばれるのは、浙江省天目連峰の禅寺で貰ったものを言うためで、窯の名前ではありません。

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① 遺棄された瓷器の山。盆地を挟んだ左手の山裾に建窯(けんよう)がある。

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② 匣鉢に納まった状態で発見された宋代の茶碗。

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③ 発掘され、復元された建窯。

栄枯盛衰の歴史を経て現代に蘇る黒釉茶碗

 中国の黒釉瓷器の生産の歴史は、非常に古いのですが、宋代に入ると、黒釉瓷器が大量に生産されます。出土した黒釉瓷器では、黒釉茶碗がやはり最も多く、黒釉茶碗だけの窯も数カ所あります。これは宋代以前には見られない現象で、当時の飲茶風習と深い関連があるのです。宋代以後、「闘茶」の流行よって、黒釉茶碗の需要が著しく高まりました。

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④ 遺棄されたものの多くは黒釉茶碗だ。

 建窯は福建省の北部、現在の南平市建陽区にあるので、建窯と称され、歴史上の行政所属によって、「水吉窯」、「瓯寧窯」とも呼ばれています。また、建窯で生産した焼きものの特徴は、鉄分が多く含まれて、漆のような厚い黒釉を掛けた黒釉瓷器です。このことから文献上では「烏泥窯」と記録しているものもあります。その焼きの状況によって釉薬が茶碗の底まで流れて、「釉涙」と呼ばれる様々な文様が出来ます。

 最近の発掘調査によって、建窯は最も古くは青瓷を、唐代の中期より青白瓷を、五代末期宋代初期より黒釉の茶碗を焼くようになったことが明らかになっています。初期の黒釉瓷器は灰釉や褐釉で、全体が黒茶色、赤みのある黒色で、文様のない素朴な器でした。宋代が最盛期で、特に南宋時代に最大の生産量に達していました。そして、抹茶法の流行と茶碗需要の増加で、建窯の茶碗を真似して作る窯場が江西省や浙江省へと拡大していきました。

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⑤ 茶碗に釉薬を絡める難易度の高い工程。

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⑥ 現代作家の手で復元された黒釉茶碗。

 しかし「闘茶」は元代(1271~1368)に入ると急速に衰え、さらに明代(1368~1644)には抹茶を飲む習慣そのものが無くなってしまいました。

 建窯は「闘茶」の衰退とともに需要を失い、元代中期にはその役目を終えました。その後、黒釉茶碗の製造はほとんど途絶えてしまいましたが、日本に伝わった黒釉茶碗が茶人や陶芸家の高い評価を得て、中でも「油滴天目・曜変天目茶碗」が日本の国宝になったことから、近年になって中国でも再び見直され、かつての製法が復元されるようになりました。現在、水吉村だけでも七十軒もの窯元があるのです。

 今日まで放置されて来た建窯の窯跡の遺跡を散策すると、いたるところに茶碗の破片が散乱して往時の繁栄を偲ぶことが出来ます。中国茶の歴史の中で宋代に精彩を放った茶器の一つとして、闘茶に熱狂した人々の夢の跡のようで一抹の寂しさを覚えると共に、日本の高い評価によって蘇生していく建窯のたくましさを感じることが出来ます。

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⑦ 茶碗の窯入れ作業。電気窯が使用されて


取材協力/謝道華(政協健陽区委員会)・李徳福(福建省非物質文化遺産協会)

※本稿は『中國紀行CKRM』Vol.13(2018年11月)より転載したものである。