中国の法律事情
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【16-002】私たちが誤解する理由

2016年 3月11日

略歴

御手洗 大輔

御手洗 大輔:早稲田大学比較法研究所 招聘研究員

2001年 早稲田大学法学部卒業
2003年 社団法人食品流通システム協会 調査員
2004年 早稲田大学大学院法学研究科修士課程修了 修士(法学)
2009年 東京大学大学院法学政治学研究科博士課程単位取得退学
2009年 東京大学社会科学研究所 特任研究員
2009年 早稲田大学比較法研究所 助手(中国法)
2012年 千葉商科大学 非常勤講師(中国語)
2013年 早稲田大学エクステンションセンター 非常勤講師(中国論)
2015年 千葉大学 非常勤講師(中国語)
2015年 横浜市立大学 非常勤講師(現代中国論)
2016年 横浜国立大学 非常勤講師(法学、日本国憲法)
2013年より現職

色褪せた問い

 ひとつ古典的な問いから始めたいと思います。皆さんは、中華人民共和国(以下現代中国)に、法は存在すると思いますか。答え、「存在しない」、「存在する」のいずれの回答も正解であり、不正解です。正解でも不正解でもあるという点に、古典の所以があります。

 本来、古典とは、現在の何かと融合しても色褪せないものを意味します。しかし、残念ながら、上記の問いは、色褪せているばかりか、現在の何かと融合し、現代中国法の価値を貶める誘導尋問化さえしています。論を始めるにあたり、上記の問いが誤魔化す重大な問題について、答えの背景を探りながら確かめてみましょう。

「存在しない」という背景

 この背景には、中国脅威論のような論理や法令を凌駕する人民法院の司法解釈の存在があります。つまり、巨大な権力を握る指導者が法を捻じ曲げる社会であるとか、司法解釈が既存の法を即座に修正する社会であるといったよく耳にする話、すなわち統治する人の気分次第で、決まり事が180度でもコロコロと変わる国家という印象は、これらの背景によるものです。そして、ここに共通することは、現代中国=人治の国という実質的評価です。法治の国家と対照できる人治の国家だから、法は存在しないというわけです。

 一見すると、正しく聞こえますが、どんな社会も人間の社会であれば、人間が社会を調整しているという事実を見落としています。私たちが住む日本も人間の社会ですから、人間が社会を調整しています。しかし、人治の国と区別したいために、(政治)腐敗や(労働)搾取という誰もが嫌悪を感じる報道に照らして日本は違うと反論します。とはいえ、日本にも腐敗や搾取はありますから、この区別は、程度の差にすぎません(正確に言うと、私たちはこの事実を前提にした法治国家を探求しています。次回以降で触れられればと思います)。

 司法解釈が法令を凌駕しているから、法は存在しないという主張も、程度の差です。法が社会の進む方向を確信し、それに先んじて立法できる方が稀です。法は、限界事例に直面した時に、条文を解釈して限界に直面することを回避し、事後立法で限界値を高めることが非常に多いです。例えば、「労働法」という法律を日本はもっていません。正確に言うと、戦後に旧労働組合法、労働関係調整法、労働基準法、職業安定法および失業保険法を制定して労働法制の枠組みを確立しました。その後は、直面する限界を、法律よりも下位の判決や行政法規(省令など)で回避してきました。日本でも、下位における決め事が、上位の法である労働法制を凌駕することがあります。なぜ、司法解釈による法令の凌駕だけを問題視できるのでしょうか。

 私たち人間社会は、人間以外に支配されない限り、永遠に人治の社会でしかないですし、私たちは、理想の法治社会を目指して努力する義務を生来的に負っています。「存在しない」という回答は、この事実を度外視し、私たちが直面している重大な問題を誤魔化しています。

「存在する」という背景

 この背景には「社会ある所に法あり(Ubi societas, ibi ius.)」という格言があります。現代中国も社会だから、法は存在するというわけです。形式的評価だと言っても良いでしょう。

 しかし、「存在するというなら、その法を説明せよ」という再質問を予知し、この回答の選択に対して二の足を踏むことでしょう。再回答の際に、非常に難しい状況に置かれるからです。そこでは、たとえ独自の法理論があっても、相手の法理論を前提に説明しなければなりません。二の足を踏む理由は、不利な状況に誘導されることが分かるからです。

 そして、再質問時の対話は、いわば両者がしっかりと四つ身で組み合っている状態です。先に手を出した方が、その態勢を崩して負ける確率が高くなりますから、最善の対応は、手を出さない=説明はしないが、長対陣をする=主張はし合うこと、すなわち我慢比べです。とはいえ、我慢比べの状態は、対話と言うには程遠い状態です。我慢し続けるほど、対立が一挙に先鋭化する危険を高めます。この状態で「説明できないならば、存在しないことと同じ」、「行きつく結論が同じならば、大した違いではない」という挑発は、火に油を注ぐだけです。蛇足ですが、日本における中国評論は、まさにこの論調そのものです。

 いずれの回答も正解であり、不正解であると言える背景は、以上の通りです。そして、其々を確認すると、この問いが誘導尋問化しているだけでなく、異文化を肯定しながら対話する最適解の探求意欲を喪失させていることに気づかれたのではないでしょうか。どちらの背景も、異文化を否定し(あるいは横に置き)つつ対話を求めています。これが誤魔化されている重大な問題です。

古典的な問いを取り戻すために

 異文化を否定しつつ対話を求める法的論理の例として、引き続き「法秩序」と「司法の独立」を挙げましょう。日本において、中国共産党の党規が国家の法令、すなわち国法を凌駕する体系を、党規国法体系と呼んできました。また、現代中国における司法の独立、すなわち人民法院の独立と審判官の独立のうち、現代中国法は、法院の独立しか保障していない。そして、この法院の独立も、人事権や財源が独立していないし、法院内部の審判委員会の審議(で外部からの態度の検討)を経なければ判決を出せないから、法院の独立も、実質的に保障していないと指摘してきました。では、これらの主張と同じように現代中国の法秩序は党規国法体系であると、また、現代中国に司法の独立は存在しないと述べることによって、最適解が求められるでしょうか。答えは明らかに否。そして、その理由は、彼らにあるのではなく、専ら私たちにあります。なぜなら、これらの指摘は、学問としての真理を探求すると見せかけた我慢比べにすぎないからです。

 まず、党規国法体系という論理は、法秩序の意味を矮小化し、かつ、その本来的な中立性を害しています。そもそも法秩序とは、一国の社会や部分社会の規律を指し、その統一的なまとまりのことです。そして、国家の法秩序は、その国家を構成する人員(例えば、国民)を名宛人とすることで中立性を確保し、各国の法的対話を促進します。しかし、党規国法体系は、中国共産党を構成する人員(党員、予備党員)だけを名宛人とする党規を法秩序に組み込んでいます(これが法秩序を矮小化していると指摘する理由です)。確かに法秩序の本来の意味に照らせば、党規と国法の併設も承認できます。しかし、併設できる法的論理の説明を、政治的論理で代用する点に問題があります。代用している論理は「(一党)独裁」です。これは、日本の法秩序の背景に「民主(主義)」という論理を置くことによって一応対応しますが、独裁や民主の論理は、法秩序の正当性の獲得問題でのみ法的論理と言えます。それ以外の問題では政治的論理であり、法的論理になじみません。独裁という政治的論理で代用することは、学問としての法に対する愛を喪失させる毒饅頭だと言って良いでしょう。

 次に、司法の独立が存在しないという論理は、法運用についての常識さえ誤魔化しています。司法の独立が保障されている日本で起こった平賀書簡事件[注]を、自戒の念を込めて現在でも語るべきですし、また、合議庭による裁判において、どのような判決を出すべきかについては、(法廷で裁判長からみて左に座る)左陪席裁判官が判決を起案し、右陪席裁判官、裁判長の順に意見を述べ、審議するとされていること。そして、経験の少ない裁判官、すなわち未特例判事補は、単独審を担当できないことを思い出すべきです。この背後には、積年の判例理論や法的枠組みを継承(習得)しなければ、司法に対する信頼を維持できないからであると言われています。なぜ、人事権や審判委員会の審議を経ることを問題視できるのでしょうか。それが司法に対する信頼の維持に資するのであれば、合理的な法運用だと評価し、その論理構造を解き明かすべきです。

 ちなみに、現代中国法は、審判委員会などの制度的保障と引き換えに、審判官の解釈裁量を制約してきました。司法解釈は、法院による立法の意味合いが強いのですが、司法解釈を通じて下位の審判官が判決を出せるように運用していました。この制約が近年緩和されるようになり、最近では指導性裁判例制度の導入を実現しました。下位の審判官に対する法運用の便宜は、いっそう図られるようになっています。しかし、異文化を否定しつつ対話を求める法的論理に照らすと、これらの法的運用も成熟した「司法の独立」とは程遠い=これから長い時間がかかるという評価に高確率で落ち着きます(そして、この結論となる文章が、日本において高い評価を得られます)。

 なぜ、このように断言できるかと言うと、これらの背景に、いずれも日本の法文化(の理想)を絶対の前提とするところがあるからです。この背景について私は、日本の読者に理解してもらえないために日本の法文化を絶対の前提としてあえて論じるのだという見解を頂いたことがあります。しかし、これは学問に対する冒とくであり、偽りの現代中国法を流布させ、現在の風潮を助長させた過ちです。しかしながら、現代中国法を発展途上の法秩序のように論述する、いわば絵踏みした書籍に対する評価が日本で非常に高いことも事実です。私たちは、今後も我慢比べを続けますか。そして、一触即発の危険を助長させたいですか。古典的な問いを取り戻すために「現代中国法とは何か」について、私たち一人一人が、一つ一つ検証し合える対話空間を提供し続けることが大切ではないでしょうか。

現代中国法とは何か

 以上のことを踏まえた上で、「現代中国法とは何か」に答えるとすれば、その回答は、人々の行動よりも前に、法が存在するところにあります。このことは、法よりも前に、人々の行動が存在するところを基本とする日本法とは真逆です。とはいえ、日本法にも類似する法分野があります。それは、行政法(学)です。第1回のコラムを終えるにあたり、現代中国法とは日本における行政法的な論理が強い法秩序である、という仮の回答を示しておくことにしましょう。

 そうすると、私たちが市役所などの窓口で受ける応答と、現代中国法から受ける応答との違いに違和感を覚えることでしょう。この違いは其々の正当性の獲得方法の違いに直結しています。次回は、この点について、お話ししましょう。


注:航空自衛隊「ナイキ地対空ミサイル基地」建設予定地の国有保安林について、農林大臣が森林法に基づき行なった国有保安林の指定解除の取り消しを求めて反対住民が札幌地方裁判所へ行政訴訟(長沼ナイキ基地訴訟)を起こした申立ての段階で、この裁判を担当していた福島重雄に対して札幌地方裁判所長であった平賀健太が原告の申立てを却下するよう示唆したメモを差し入れた事件のこと。日本国憲法76条3項(裁判官の独立)に違反するとして、最高裁事務総局が平賀を厳重注意処分とした。