中国の法律事情
トップ  > コラム&リポート 中国の法律事情 >  【17-015】民法典は異彩を放てるか?

【17-015】民法典は異彩を放てるか?

2017年10月18日

略歴

御手洗 大輔

御手洗 大輔:早稲田大学比較法研究所 招聘研究員

2001年 早稲田大学法学部卒業
2003年 社団法人食品流通システム協会 調査員
2004年 早稲田大学大学院法学研究科修士課程修了 修士(法学)
2009年 東京大学大学院法学政治学研究科博士課程単位取得退学
2009年 東京大学社会科学研究所 特任研究員
2009年 早稲田大学比較法研究所 助手(中国法)
2012年 千葉商科大学 非常勤講師(中国語)
2013年 早稲田大学エクステンションセンター 非常勤講師(中国論)
2015年 千葉大学 非常勤講師(中国語)
2015年 横浜市立大学 非常勤講師(現代中国論)
2016年 横浜国立大学 非常勤講師(法学、日本国憲法)
2013年より現職

異彩を放つか、それとも抑えるか?

 前回のコラム で民法総則が定める民事上の権利[民事権利]の取得方法について紹介しました。少しだけおさらいをしておくと、民法総則は「民事法律行為」「事実行為」「事件」を主な取得方法とする財産権理論を言明したのでした。分かりやすい図だったようですので、もう一度示しておきましょう。

 なお、補足しておくならば「その他の方法」についてでしょうか。通常、民法総則をはじめとして現代中国の民法理論も上記で述べた取得方法を思考します。が、その異質な権利論のゆえに法的根拠のない挙動(非法行為)を確定し、(それにより被害を受けた側を)保護するか、法的根拠のある挙動(合法行為)または法的根拠に反する挙動(違法行為)を確定して保護するかの補充的論理を有しています。

 この法的論理は私たちの権利論で正面から論じないものですから、中国的権利論を維持する限り民法典は異彩を放てるはずなのです。なぜ抑えるかという逆のベクトルを想定できるのでしょうか。それが今回のコラムのポイントになるところです。

image

 

民事法律行為を理解する

 さて、今回のコラムでは、これらの取得方法の中で、民法総則が典型的な取得方法であると位置づけた民事法律行為と、(実際の運用の中では何らかのトラブルから想定通りにいかないことから責任問題につながる)民事上の責任[民事責任]という2つの面について検討しておきたいと思います。

 まず民事法律行為について。民法総則が第5章の民事上の権利に続く第6章として民事法律行為の章を設けていることから、民法総則が民事法律行為を典型的な取得方法としたことは自明です。また、旧法である民法通則は「民事法律行為及び代理」として1つの章の中に民事法律行為と代理行為とを統合していたのですが、民法総則は代理に関する章を第7章として分離させました。この点からも民事法律行為を典型的な取得方法にしたと言えます。さらに、この分離を民法総則が民事法律行為をすべての(民事上の)社会現象の基礎において再編するという理論的精錬化の成果として見ることもできるでしょう。

 すなわち、民事主体(例えば国民)自らが民事法律行為を行なうにせよ、誰かに代理させて行なうにせよ、共通する要素は民事法律行為なのです。民事法律行為をあらゆる民事行為の基礎に置けば、そのすべてにおいて法的解釈が論理的に可能となります(そうすると、旧法である民法通則は一挙に民事法律行為を基礎とすることに躊躇していたようにも見えますね)。なお、民事法律行為と代理における違いは、旧法が代理人を通じて民事法律行為を行なえる権利主体を国民[公民]と法人に限定したのに対して、この限定を取り除き、民事主体として抽象化した点です(権利主体については第11回 参照)。これも理論的精錬化の表れと言えるでしょう。

 そこで、現代中国のあらゆる民事行為の基礎となる民事法律行為についておさらいです。そもそも民事法律行為とは、立法により合法化(法令の規定に合致させることの意味)を完璧に果たした法律行為を意味します。ここにいう合法化の特殊な意味は、合法化した行為や関係(これを法律関係と言います)を前提にして法を思考する「法律関係理論」に基づくものです。そして、民法総則133条は「民事法律行為は、民事主体が意思表示を通じて民事法律関係を設定[設立]し、変更し、又は終了する行為である。」と言明しました。

 一部の見解において、旧法54条との比較を通じて違法や不法(取消可能や無効)の効果を含む形で定義し直したものであると説明されることがあります。これは旧法54条が「合法行為」であることに限定したのに比べて新法133条が「行為」と一般化したことを受けての解釈のようです。が、法律関係理論をより正確に反映し直したものと私には見受けられます。要するに、この再定義は建国初期の現代中国の民法理論への先祖返り、あるいはその更新版であり、社会変化による小手先のものではありません。民事法律行為を基礎として民法理論を不可逆的に確立するという立法判断がなされたというのは言いすぎでしょうか。

意思主義か、形式主義か

 そうすると、もう少しだけ法律関係理論を掘り下げて理解しておく必要がありそうです。法律関係理論にも意思主義に基づくそれと形式主義に基づくそれが存在しているのですが、ネーミングが悪いせいか、法律関係理論は形式主義一辺倒(事実となる根拠さえあればよいという考え方)のように誤読されやすいです。

 ところが、民法を学んだことのある人であれば当然のことなのですが、意思主義とは当事者の意思を重視する考え方であり、形式主義は当事者の意思も必要としつつ、同時に何らかの形式で確たる事実となる証拠を重視する考え方を言いますから、形式主義一辺倒の考え方はもはや想定外の考え方なのです。

 そうであるにもかかわらず現代中国の民法について形式主義一辺倒のように日本で語られてきた理由は、旧法があまりにも個人の意思を尊重していなかったと考えたからです。ところが、民事法律行為の成立について、民法総則134条は「双方又は複数の意思表示の一致」する場合、「一方の意思表示」に基づく場合のほか、「議事方法及び決定手続きに照らして決議する場合」にその成立を認めました。また、旧法56条は確たる事実となる何らかの形式について法令所定の形式を要求していたところ、新法135条は「特定の形式」であれば当事者間の合意した形式でも構わないことを言明しました。個人の意思を尊重する方向へシフトしていると言えます(実は旧法でも形式主義を採用していたのですけれども)。

 さて、この法令文言の論理に照らして民法総則136条を評価するならば、当該条文の旧条文である民法通則57条が民事法律行為の成立をもって効果の発生を承認していたことと比べて、相手方の同意がない限り変更や解除等の効果を認めないと言明しているわけですから、より意思主義に近づいたと言えます。そして意思主義寄りに全体の構成が傾いたけれども意思主義一辺倒になると、その急変により社会が混乱するでしょうから、意思主義寄りになったとはいえ、形式主義の範疇に属することを確認するために、中国契約法16条を参照して言明した対話方式(民法総則137条)、相手方の無応答に対する効果規定(同138条)、公告による効果規定(同139条)のほか、意思表示の方法に関する諸規定(同140条、141条、142条)が続くと考えるのが合理的でしょう。

 当事者の一方が合意を反故したい場合まで意思主義を徹底させるのでは融通が利きませんし、その場合に当事者間の協議に委ねることは、各人の政治力がものを言ったり、第三者に想定外の被害を与えることになるやもしれません。したがって、合意により成立した民事法律行為を取り消したり、無効とする必要がある時は、旧法と同じく人民法院や各種の仲裁機構にその判断を委ねています(同147条、148条、149条、150条、151条)。もっとも、法令の強行規定や公序良俗に反する民事法律行為は当然に無効ですし(同153条)、いわゆる通謀虚偽表示により合法な権利利益を侵害する民事法律行為も無効です(同154条)。

 但し、法的効果を否定する場合の理論については、民法典各論の編纂を待つのだろう理論的課題を残しているように思われます。それが民法総則155条です。同条は、無効の民事法律行為であれ、取り消された民事法律行為であれ、その法的効果[法的拘束力]は「初めからなかったことにする」と言明しています。確かに無効と取消は、いずれも法的効果を否定します。無効は民事法律行為の効力を当初から否定します。一方の取消は民事法律行為の効力を一応認め、取り消されることによって当初に遡ってその効力を否定します(そのため取消権者には法定の取消請求の期限を順守することが一般に求められます)。何を無効とし、何を取消とするかは立法政策であると考えられていますが、唯物史観に基づく古典的な中国的権利論に照らせば、そもそも取消という概念が論理的に承認できない概念です。

 無効と取消についての日本法における一般の理解(下図)を示しておきますので、なぜ取消という概念を承認できないかについて考えてみてください(蛇足ですが、このような哲学めいた矛盾が学問としての法学や法律学の面白さであると私は感じています)。

  無効 取消
効力 最初から当然に効力はない。 取り消すまでは有効だが、特定人の主張で取消が認められると行為時に遡って効力を失う。
主張権者 誰でも主張できる。 特定人のみ主張できる。
主張期間 いつでも主張できる。 期間の定めがある。
追認の可否 原則追認できない。 取消権者の追認で有効にできる。

民事上の責任を理解する

 次に民事上の責任について。第8章において言明しています。端的に言えば、約束(合意)したことは当然守るべきであり、守るように責任があるし、もし守れない場合はその責任をとれということです。

 中国的権利論における責任の面白い点は、責任の大小に応じて相応の責任をとらせることを原則にするところです。(教科書的な説明では大体)公平責任の徹底であると一蹴されるところです。が、連帯責任のように考えて資力の大きい民事主体に肩代わりさせる(その後の分担は内部求償として処理する)ことによる「被害者救済という観点からの公平でない公平観」に基づくことが、中国的権利論における責任論の面白さであると私は考えています。事実、民法総則177条がこの公平観を言明した後に、同178条で連帯責任制度について規定しています。連帯責任的な考え方は二の次なのです。

 ついでに申し上げておくと、民法総則179条が言明する「法律が懲罰的賠償を規定する場合は、その規定に基づく」ことを受けて、懲罰的損害賠償責任に関する議論が再び流行するでしょう(一瞬でしょうが)。ひょっとすると現代中国は「立法により解決した」のに日本は云々という論調を見かけるかもしれません。が、要注意です(笑)。なぜなら、旧法である民法通則134条3項の法文に照らせば、現代中国法は懲罰的損害賠償責任を負わせる法的根拠を既に有していたと解釈できるからです。また、民法総則も法律(広義には法令として解釈可能)が言明する場合に限ると言明しているわけですから、当該条文をもって立法により解決したとは必ずしも言えません。

 それよりも同条が民事責任の履行方法の1つとして「継続履行」を命じることができるとした点の方が、その学問的価値を有するし、注目に値する新たな立法的解決?ではないかと私は感じます。前述したように、民事上の責任とは約束(合意)を守る責任を負わせ、もし守れない場合にはその責任をとらせることを言います。守れないからこそ紛争となり、裁判や仲裁になることを鑑みれば、そのような中で「引き続き履行せよ」と命じることが可能な場合とは、いったいどんな場合なのでしょうか。まさか「こんな不倫事件で離婚は認めない、婚姻関係を引き続き履行せよ」的な場合を想定しているわけではないでしょうけれども。

仁義立ては法の賜物か?

 民事上の責任と言えば、私が現代中国法に興味を惹かれてしまった根本原因を思い出させてくれます。ひねくれていると言えばそれまでですが、真水で魚が生息できないのと同様に、白黒ハッキリする社会は法治社会でないのではないかという根本の問いにたどり着いてしまうのです。法文が言明していても人の道として仁義立てする方が上手くいくのであれば、それでいいじゃないか(という法学者に有るまじき心情?が生まれてきます)。それゆえに「仁義立てというのはどういうものか」まで法文が言明すると住みにくくなりはしないかと。要するに「白河の 清きに魚も 住みかねて もとのにごりの 田沼恋しき」の中の白河が中国的権利論で、田沼が私たちの側の権利論だという認めたくない結論が導かれてしまいます。

 民法総則184条が言明する「人助け奨励」規定は既に皆さんもご承知のことと思いますので、本コラムでは同183条を紹介することにいたします(同187条も面白い条文です)。まずは同条の全文をご覧ください。

民法総則183条

 他者[他人]の民事上の権利利益を保護するために自らが損害を受ける場合、権利侵害者が民事上の責任を負担し、受益者は適当な補償を与えることができる。権利侵害者がいなくなるか、逃亡するか、又は民事上の責任を負担する能力を有しない場合で被害を被った者[受害人]が補償を請求する時は、受益者が適当な補償を与えなければならない。

 この法文も人助けを奨励していると言えなくもありません。しかし、それ以上に中国的権利論らしい公平観が現れています。民事上の権利を侵害する民事主体に対して何らかの事情で請求できない場合(例えば、身寄りの全くない自爆テロ犯が某レストランで自爆テロを遂行して死亡し、そこに偶々居合わせたことにより食事客が死亡した場合)に、通常は、「受益者」(この場合はレストランのオーナー)が被害を被った者(居合わせた食事客)に対して適当な補償を与えることになります。しかし、ここでの本当の問題は「誰が受益者になるか」です。場合によってはレストランのオーナーよりも保険金の関係で莫大な利益を受け取る死亡した食事客がいたとしたら、中国的権利論ではどのように判断することになるのでしょうか。その遺族がレストランのオーナーに賠償を求めたところ、逆に受益者はあなたの方だとして賠償を求められるということが論理的には考えられます。

 そして、参考になりそうな裁判例が現代中国には数多く存在しています。例えば、ホテルの宿泊客が客室で殺害された上海のある裁判例では、被害者の遺族がホテルに損害賠償を請求し、人民法院はホテル側の管理責任を認めて遺族側の要求に応えました。要するに、殺人犯をみすみすホテル内に侵入させたホテル側に善管注意義務違反があるとし、ホテル側に賠償を命じたのです。このような裁判例について、その概要を紹介したうえで人民法院の解釈に問題があるとか、ホテル業が成り立たなくなるといった私たちの側の法的論理に照らした言動を、私はうんざりするほど見聞してきました。その中には事情を知っているにもかかわらず、(日本社会で)世間受けするために、あえて中国的権利論に触れない不誠実な論考もありました。

 要するに、現代中国法の公平観は、特定の時点で関係者の資力を比較し、受益者を確定したうえで、全体としては損失が出ようが、関係者全体の中では公平にしようと修正する公平観です。これは被害者救済を徹底することを公平とする公平観と根本的に異なります。法律関係理論が及びやすい保険原理を普及させようと躍起になることも、逆に把握が難しい仮想通貨などの法律関係理論が及びにくい社会事象に対して消極的になりやすいことも、この点から説明できます。

補足

 以上、5回にわたり今年(2017年)10月1日に施行した民法総則について紹介してまいりました。残すは時効制度に関する法文です。そこでは、訴訟時効を2年から3年に引き延ばしたり、時効の援用を人民法院側が主導してはならないといった技術的な問題を紹介できます。とはいえ、技術的な問題であるがゆえにマニアックでもありますから、今回のコラムをもって民法総則の紹介については一応の区切りにしたいと思います。またいつか、民法総則を適用した裁判例であったり、その細則や司法解釈の公表で面白そうなものがあれば、ご紹介することにいたします。

 次回からは、この間に公布された最新の法令や事件などについて引き続き紹介して参りたいと思います。