中国の法律事情
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【17-017】立法過程の透明化

2017年12月25日

略歴

御手洗 大輔

御手洗 大輔:早稲田大学比較法研究所 招聘研究員

2001年 早稲田大学法学部卒業
2003年 社団法人食品流通システム協会 調査員
2004年 早稲田大学大学院法学研究科修士課程修了 修士(法学)
2009年 東京大学大学院法学政治学研究科博士課程単位取得退学
2009年 東京大学社会科学研究所 特任研究員
2009年 早稲田大学比較法研究所 助手(中国法)
2012年 千葉商科大学 非常勤講師(中国語)
2013年 早稲田大学エクステンションセンター 非常勤講師(中国論)
2015年 千葉大学 非常勤講師(中国語)
2015年 横浜市立大学 非常勤講師(現代中国論)
2016年 横浜国立大学 非常勤講師(法学、日本国憲法)
2013年より現職

中国に法はあるのか?

 今年も気づくと12月を迎えていました。早いものです。年初に掲げていた目標のいくつを実現できただろうと振り返ると、苦笑せざるを得ない私です。が、このコラムに関して言えば、今年は、月1回のペースで書こうと目標を立てておりました。どうやらこの目標は達成できそうです。

 さて、今年のコラムを締めくくるにあたって、2つの案が手元にありました。1つは、今年の夏ごろに、一時話題となった中国のバイク便の諸事件。これらに関係する法令として、価格法に関する最近の法律事情を取り上げるという案でした。もう1つは、現代中国法に対する古典的な問い、すなわち、「中国に法はあるのか」という問いを、改めて取り上げるという案でした。前者については、現時点で披露するにはやや早すぎる事案が起こりつつあるようですので、その事案が顕在化し、皆さんの関心が高まった頃にお話しした方が、より理解してもらえるのではないかと判断し、後者について取り上げておくことにします。

古典的な問いとなる理由

 現代中国法について、常に「中国に法はあるのか?」という問いが投げかけられるのは、それが私たちの理解する法のあり方と、非常に異なるからにほかなりません。私見を挟ませていただくならば、現代中国のそれは、非常に馬鹿真面目な法のあり方を訴求するもので、いわば裏表のない姿を見せているために、非常に異なっているのだと思います。

 巷では、習近平体制が強化され、皇帝のような存在を確立するのではないか(仮に皇帝が誕生したとしても、人々にとって良い皇帝であれば、問題でないのでは?と思いますが)。あるいは、党の指導が、ビジネスの空間にさらに進出してきて、市場経済が歪められるのではないか(そもそも現時点で、現代中国において完全な市場経済が存在しているとは思えない私にとって、歪むも歪まないもないのでは?と思いますが)などと言われています。

 しかし、現代中国は、80年代に改めて確認した四つの基本原則の中で、すでに党の指導を組み込んでおり、これを国体としていますから、後者の懸念は前提事実をワザと隠しているように思われます。また、「三つの代表」論をきっかけにして、大衆党と化した中国共産党の中で、多様な価値観が調整されたうえでの結論として「習近平新時代の中国の特色ある社会主義思想」を党規約に盛り込むのであれば、それが中国共産党としての方針なのだと私たちは認識するだけであり、これに反発したり、否定したりする資格はないようにも思われます(私たちの社会であっても、他人の家のしきたりや振る舞いが、自分に影響しない限りは口を挟まないことと同じことではないでしょうか)。

 むしろ、私たちは、この古典的な問いを発展させ、現代中国法のあり方の傾向性と言いますか、その基本原理を明らかにして、私たちの法との共生を模索することが、大切なのではないでしょうか。

現代中国法も進化している?

 このような視点に立つと、大局的に見て、現代中国法が進化しているように私には見て取れます。そして、この進化は、立法過程の成熟化とも、透明化とも言える流れの中にあることを論証できると私は考えています。本コラムでは、この立法過程の透明化の中で、(1)行政法規と業務連絡の分離、(2)立法手続きの普遍化、および、(3)大衆化の普及という3つの側面について、紹介してみたいと思います。

 例えば、今月1日付けで、国家海洋局が、10年ぶりに立法手続きの法令を改正しました(「国家海洋局海洋立法工作程序規定」のことで、以下「新法」とします)。改正前の法令は「国家海洋局海洋法制制定程序規定」(以下「旧法」とします)であり、2007年11月12日付けで公布されていました。2007年と言えば、胡錦涛総書記(当時)が、中国共産党17回全国代表大会において「科学的発展観」を党規約へ明記した年でした(このほか、今年のコラム で少し触れた物権法もこの年に制定されたものでした)。日本のマスコミを騒がせたニュースとしては、冷凍ギョーザ事件や段ボール肉まん事件などがありましたね。

 ちなみに、国家海洋局は、国土資源部の下部組織(外局)でありながら、中国の海洋政策を担当する部局です。私たちが尖閣問題で見聞する中国海警局を主管する行政機関であると言った方が、身近に感じられるでしょうか。この2つの組織の関係を簡単に説明するとしたら、国家海洋局が政策を担う頭脳であり、海警局・海監組織がそれを実行する手足であるといったところでしょうか。

 さて、この新法と旧法を比較すると、まず、旧法が、行政法規としての内容と業務連絡としての内容を混在させた未熟な法令だったことが分かります。例えば、旧法の第二章(計画管理)では、何を立法すべきかの見解を、各部局は毎年9月15日までに、同局法制部門へ報告すること。それを受けて、法制部門が、毎年10月31日までに、年度の立法計画を策定し、報告・許可を得ること。さらに、各部局は、立法計画に基づいて、毎年12月15日までに、その進捗状況を法制部門へ報告することが言明されていました。(締切期日を徒過した場合はどうなるのかも気になりますが、)わざわざ進捗状況の報告を法令で言明する必要はなかったでしょう。このように、旧法は、業務連絡にすぎない内容さえも法令で言明するという徹底ぶり?を示していたと言えます。

 この点について、新法は、何を立法すべきかを毎年10月30日までに、法制部門へ報告することについては引き続き言明しています(が、それ以外については期日規定などを削除しました)。私たちにとってみれば、毎年11月以降における彼らの動向が、少なくとも向こう1年間の彼らの確かな方針なのだと言うことを意識できるわけです(言い換えれば、何を考えているのかを擦り合わせるには、この時期以降に意見交換した内容が、より正確な情報であると考えることができますね)。

「スリーステップ」の法則について

 第2に、立法手続きにおける不文律が言明化され、普遍化していることを見て取れます。日本では、過去、物権法の制定をめぐって知られるところになったものとして、三段階の制定過程(三歩走原則)があります。これは、法案を採択するまでに、原則3回審議することを指します。もちろん、各段階で「党の指導」なるフィルターを通過する必要があります。

 制定過程の全体を俯瞰して言えば、次に述べる草案の起草段階における公聴会・意見募集などの大衆化過程を通過した後の過程として用意されているものです。商品出荷前の品質検査を、納品期日をそれほど重視せずに、原則3回しっかりと行なう組みであると言えば、分かりやすいでしょうか。

 新法は、次のように規定しています。立法すべき法律や行政法規を、立法計画の中へ組み込んだら、まず、事務局として、国家海洋局内に、立法工作組を組織します(15条)。そして、勉強会や意見交換会などを通じて様々に検討する中で、行政許可を設定することになれば、公聴会などを通じて関係者からの聞き取りの機会を設け(大衆化の項で後述)、その紀要を作成することになっています(16条)。こうして練りあがった草案が、国家海洋局の法制部門の初審理を受けるわけです(17条)。これが、第1ステップとなります。

 この第1ステップの中でも公聴会などを通じた意見集約が行われることを既に紹介しましたが、重要なポイントは、そこにはありません。このポイントは、国家海洋局の党組(党グループ)の会議で審議するよう求めているところにあります(20条)。この審議を経て、ようやく国務院などの関係部門や関係する地方政府へ草案が送付されます(21条)。

 この送付後に、国家海洋局党グループが、2回目の会議を行います(24条)。これが実質的に第2ステップです。この審議によって承認が得られたら、立法機関に、立法手続きへ入るよう要請することになります。そして、立法機関が審議を始める前に、国家海洋局党グループにおいて、3回目となる会議が行われます(26条)。この第3ステップでは主に立法趣意書などの体裁を整えることになっています。

 以上、3ステップを概括してみましたが、この三段階の制定過程は、すでに不文律として、これまでに知られていたところです。そして、この三段階の制定過程が、其々の部門・部局で組み込まれているわけですから、現代中国における立法で、「党の指導」が関与しないことはまずないと言ってよいでしょう。

 ちなみに、法案が可決し、施行した後に、法適用の場面において、条文の解釈などをめぐって疑義が生じるときは、国家海洋局が解釈することを言明しています(28条)。いわゆる行政解釈による行政裁量が、従来どおり通用することを確認しています。要するに、国家海洋局の法制部門が「立法関係者」として、その行動をコントロール・統率する既得権を放棄しないことを宣言しているのです。

「大衆化」の本当の意味は?

 第3に、大衆化の流れが広がっていることを見て取れます。現代中国における大衆化とは「大衆路線」という言葉で言い表されることが、従来から通例でした。平たく言えば、大衆の動向を常に注視し、物事を進める上での不文律のことです。これは2つの面があり、1つは大衆の中で生まれる問題を吸い上げてその解決を図るという面で、もう1つは新しい試みを企画したものを先ずは大衆の中へ放り込んでその反応を見るという面です。ちなみに、全国人民代表大会に代表される人民代表大会制度は、「人民の代表」が集合する議会という位置づけですから、大衆路線の典型例とされてきました(それゆえに、現代中国の憲法は、常に人民代表大会を権力機関と位置付け、かつ、その頂点に位置する全国人民代表大会を最高権力機関と位置付けるわけです)。

 主権者である人民の代表が集合する議会において大衆路線が貫徹するならば、わざわざその他の方法を通じて大衆の中で生まれる問題を吸い上げる必要も、新しい試みを大衆の中へ放り込む必要もなさそうに思えます。とはいえ、人民でない国民も立派な中国人ですし、現代中国に住む外国人や無国籍者も現代中国を構成する人々ですから、彼らの不平不満に耳を傾け、問題を解決することが、調和の取れた人間社会を目指すうえで重要なことでしょう(日本においても「請願権」として、日本社会に住むすべての人々に、その手段を認めています)。現代中国において設定している制度の1つが、信訪(陳情)です。ただ、陳情のお話は、日本では五十肩のように見方がガチガチにされていますから、来年回しにしたいと思います。

 本コラムでご紹介したいことは、この大衆化が別の役割を担うようになっているのではないかということです。例えば、同法16条は、基層レベルの海洋部門や人民代表大会の代表、政治協商会議の委員や専門家に意見を求めてもよいとしたうえで、サンプルアンケート調査やwebアンケート調査を実施してもよいと言明しています。また、同21条は、第1ステップを経た草案について、国務院などの関係機関や沿海部の人民政府に意見を求めることにしています。さらに、同27条は、採択した後に、必ずホームページ上で公表するとしています。周知徹底はもちろんのことですが、それ以上に別の意味での「大衆化」が進行しているのではないでしょうか。

 行政許可を設定する草案については公聴会などを通じて関係者からの意見交換の機会を設けるようにしたり、webアンケート調査などを通じて意見を求めたりすることは、いずれもパブリックコメントの収集作業であると言えます。日本では、主権者である国民の声を収集するために、重要な法案を立法しなければならない時に、地方都市の公会堂などで集会が開かれたりしますね。形としては同じものを想像すれば十分ですが、前提が違いますね(論理的に主権者でない人々の声を聴く必要は、必ずしもないからです)。

 それでも、最近の現代中国の立法活動を俯瞰すると、様々なところでパブリックコメントを求める動きを確認できます。これを、権力機関の実質的存在意義の低下と見ることもできるかもしれません。が、個人的には「とりあえず人々の声も収集した」という新たな正当性の獲得手段と化しているのではないかと考えます。大衆路線も、その当初は執政党である中国共産党が独断で統治していると後ろ指を指されないための、言い換えれば自分たちが気づかないことを警告してもらうための自戒の行動準則でした。異なる主張に誠実に向き合うことによって、自らの正当性を獲得することを狙っていました。大衆化の普及は、必ずしも私たちが想像する民主化・民主主義と同じではないのです。

立法過程の透明化から分かること

 本コラムでは、国家海洋局のある法令を題材にして立法過程の透明化から分かることを紹介してまいりました。そこでは、現代中国の法体系が成熟してきていること=法令らしくなってきていること、立法手続きの流れが私たちにも予想できるようになってきたこと、そして、大衆化が、人民代表大会制度に追加して正当化を獲得する手段になりつつあることを見てきました。

 終わりにあたり、第3の特徴について、私たちの社会における民主化・民主主義との比較をしてみたいと思います。私個人は、民主化・民主主義とは、多数派の横暴ではなく、少数派の横暴であるとの立場に立っています。議会の審議を始めとして、様々な会議は、多数派が強引に議事を進行するのではなく、少数派の反対意見をふまえつつ妥協点を探り、採決に至るものだと考えるわけです(強引に多数派が議事を進行させて、その結果の行動で失敗したら、すべてを多数派の責任にされることを恐れるからだと茶化してしまうのが、私の悪い癖かもしれません)。そうすると、少数派は、多数派が支持する案とは異なる代替案を速やかに示し、妥協点を探れるように自らの考えを明らかにする必要があります。

 とはいえ、代替案として示せるほどのものは持ち合わせていないけれども、気に食わないから反対であるとか、直観的に何かおかしいと感じるから反対であるといったことも、人間ならばあり得そうです。これも仕方がないことかもしれませんが、政治家のように専業化している人々においては、仕方がないことと片づけない努力をお願いしたいです。ちなみに、現代中国の人大代表は、専業化した政治家ではないと言われています(そのうち真の政治家が出現してくるかもしれませんが)。それゆえに、大衆化は必然なのではないでしょうか。