【20-014】民法典ができるまで
2020年08月26日 周群峰(『中国新聞週刊』記者)、江瑞(翻訳)
新中国成立以来、4度にわたり民法典の制定が試みられたが、いずれも歴史的原因により実現に至らなかった。しかし60年の時を経て、「中華人民共和国民法典」がまもなく施行される。民法典ができるまでの、60年あまりの紆余曲折の道のりをたどる。
2019年12月28日、第13期全人代常務委員会第15回会議が北京で閉幕した。会議では全人代常務委員会の民法典草案の審議要請に関する議案が可決され、民法典草案は2020年召集の第13期全国人民代表大会第3回会議で審議されることが決まった。 撮影/杜洋(中国新聞週刊』記者)
中国人自身の民法典を編纂することは、新中国成立以来、民法学者の悲願だった。
1950年代に起草が始まってから60年あまりの時を経て、「中華人民共和国民法典」がまもなく施行される。民法典は個々人の利益に深く関わるもので、市場経済の基本法であると同時に市場主体(自然人、法人、非法人組織)の生活における基本的行動規範であり、裁判官が民商法関連事案の判断をする際の基本的根拠でもある。国の法体系において、その地位は「憲法」に次ぐ。
民法典は新中国成立後初の「法典」と名のつく法律となり、新中国成立以降の民事法を集大成した法典となる。それゆえ民法典は「社会生活の百科全書」と呼ばれ、つまりは公民権の宣言書であり保障書なのである。憲法の重点が公権力の制限にあるとすれば、民法典の重点は私権の保護に置かれており、契約の締結、会社の設立、死亡・負傷、離婚という大きな出来事から、管理費の支払い、タクシー乗車時のトラブルやご近所トラブルといった比較的些細な事柄に至るまで、ほぼすべての民事活動について民法典にその根拠を求めることが可能になる。
新中国成立後に初めて民法典の起草作業が開始されてから、4度の紆余曲折を経て、ようやく施行の時を待つ民法典。60年あまりの間、どういう道のりをたどってきたのだろうか。
計画経済時代:政治運動による2度の頓挫
取材に応じてくれたベテラン民法専門家や立法に関わった有識者の多くが語ったところによると、新中国成立から2012年の中国共産党第18回全国代表大会の開催に至るまでの間、中国の立法機関は4度にわたり民法典の制定を試みたが、いずれも歴史的原因により実現に至らなかった。
1954年9月20日、第1期全国人民代表大会〔以下、「全人代」〕第1回会議で「憲法」が審議・採択された。これは新中国になって初めて制定された社会主義的性質の憲法で、条文の多くに公民権の保護に関する内容が含まれていた。例えば、第一章「総綱」では、所有制の形式、様々な所有制主体の生産財保護、相続権・労働権の保護などが、第三章「公民の基本的権利と義務」では、公民個人の平等権、人身権、労働権、休息権、婚姻自主権、著述・芸術創作権、科学技術創造権など私権の保護に関する内容が具体的に規定されていた。
中国の民事法立法作業が始まったのもこの年だ。
中国法学会民法学研究会副事務局長、北京理工大学法学院民法典研究センター主任の孟強によると、最初に民法典の起草が始まったのは、1954年下半期だという。全人代常務委員会が専門グループを結成して民法典の起草にあたり、1956年12月に民法典(草案)が完成した。
だが、この草案は内容面で時代的制約を免れなかった。1922年のソビエトロシア民法典を手本としており、親族法は除外し、婚姻・家庭も民法の範囲に属さないとみなされていたのだ。また、物権はなく、所有権に関する規定だけが設けられていた。
孟強は次のように説明する。「民法典草案の体裁はソ連の民事法にならい、総則、所有権編、債権編、相続編の計4編・525条から成っていた。しかし1957年の反右派闘争と1958年の大躍進で、民法の起草作業は中断に追い込まれた」
また、中国社会科学院学部委員兼法学研究所研究員で全人代憲法・法律委員会委員の孫憲忠は次のように説明する。「所有権は民法の核を成す権利だが、『憲法』で規定されている所有権制度が法律では認められていなかった。ここに政治運動も加わり、民法典の起草作業は停止に追い込まれた」
1960年代に入り、中国は自然の法則と法律を無視した結果もたらされた負の影響に気づき、国民経済の「調整、強化、充実、向上」を実施する方向に政策を調整していった。そうしたなか、民事立法にも新たな進展があった。
1962年、党中央は毛沢東の「刑法だけでなく、民法も必要だ。いまは無法状態だ。法律がなくては立ち行かない」との指示を受け、経済の「左傾化」の過ちを正す方向に舵を切った。
全人代ではこの指示に基づき、再び指導グループを設けて民法典の起草に着手した。1964年7月、民法典草案(試擬稿)が完成したが、これは総則、財産の所有、財産の移転の3編のみで、計24章・262条から成るものだった。
著名な民法専門家で、第7期全国人民代表大会法律委員会副主任委員を務めた江平はかつて発表した文章で、この草案にはいくつか興味深い現象が見られると指摘している。まず、法律用語がほとんど使われていない。条文の中で用いられているのは「単位」〔企業・事業所〕と「個人」で、法人も自然人もまったく出てこない。物権、債権、法律行為、契約などという用語も1つも見当たらない。売買契約は売買関係、基本建設契約は基本建設関係、輸送契約は輸送関係のように記載され、こうした多くの「関係」が当時つくり出された。それから、構成・体裁の面では、婚姻・家庭関係と相続関係が民法から切り捨てられた。
民法典の起草はこのときもうまくいかなかった。当時起こった「四清運動」は、ほどなくして文化大革命に発展し、起草作業はまたも頓挫した。
孫憲忠は言う。「この草案には『階級闘争』といった類の表現が氾濫し、人民として国や集団を愛さねばならないことが過度に強調されていた。民法典は権利法であるべきなのに、義務法になっていた」
起草作業が2度も続けて頓挫したという事実から、民法典の制定には政治の安定が必要だということを、民法学者の多くは実感した。
著名な民法学者で中国社会科学院学部委員の梁慧星は、民法典の起草が2度失敗したのは当時の歴史的条件が関係していると指摘した。表面的には、度重なる政治運動が民法典の起草を中断させたように見えるが、深層部の重要な原因は、当時の中国が計画経済体制を採っていたことにあった、という。計画経済は行政権力と行政手段によって生産、流通、交換、消費を回していく体制であるため、民法の存在意義の拠り所となる経済・社会的条件が欠落しているというのがその理由だ。「例えば経済活動において、指令を出したり、配給切符などを使用する際も、民法で規定する必要がない。ゆえに民法典はますます必要がない」
中国人民大学常務副学長、中国法学会副会長、民法学会会長の王利明は、かつて全人代財経委員会委員、全人代法律委員会委員を歴任し、経済契約法、契約法、専利法〔特許法〕、製品品質法、物権法など多数の重要法律の起草、改正に携わってきた人物だ。
王利明は、民法典の起草が2度も失敗に終わった原因は、やはり、市場経済体制が整っていなかったことが大きい、と語る。当時、庶民は大した財産を持っておらず、農村に行けば家の扉は開けっ放しが普通だった。それゆえ、相続法のようなものは存在意義があまりなく、民法典の制定も現実的意義がなかったというのが王利明の解釈だ。
改革開放後:「卸売り」から「小売り」へ
1978年12月、中国共産党中央委員会は第11期第3回全体会議〔三中全会〕を召集し、改革開放が正式に幕開けを告げた。社会主義商品経済は活発になり、民事法の立法に有利な外部条件が整った。こうした情勢を背景に、再び民法典の起草を望む声が頻繁に上がるようになった。
1979年11月、全人代常務委員会は3度目の民法典起草作業に着手した。
このときの起草作業では人海戦術方式が採用され、彭真(当時の全人代常務委員会法制委員会主任)と全人代法律委員会の指導の下、第1陣として法律専門家、研究者、実務担当者36人から成る起草グループが結成された。
多くの民法専門家が指摘するように、当時は経済の転換期で、「公」と「私」に関する論争が絶えず、公有制企業の制度改正や所有権問題といった、国家経済と国民生活に関わる多くの重要問題に関して、統一見解が形成されていなかった。意見の相違が大きすぎるため、草案はいくつかのバージョンが作成された。しかし、1982年5月1日に民法典草案第4稿が完成した後も激しい論争は止まなかったため、起草作業は一旦中断せざるを得なかった。
「当時は、改革開放がスタートしたばかりで、中国は他の社会主義国でも先例のない、計画経済から市場経済への転換期にあった。さらに、これまで『左翼思想』の影響があまりに大きかったこともあり、新しい取り組み1つ1つに困難が伴った。当時は商品経済を提案するのすら非常に勇気が要ることだった」と孟強は解説する。
こうしたなか、彭真は民法典の起草作業を、「卸売り」(民法典)から「小売り」(単行法)、つまり個別の法律である単行法を先行して制定し、後から民法典を制定するというやり方に方向転換することを提案した。中国は経済体制改革を手探りで進めている最中であることから、完璧な民法典で予めルールを決めておくということは不可能で、改革がある程度進展してからでなければ民法典の全体像が見えてこない、というのがその理由だった。
この考え方を基に、「技術契約法」「渉外経済契約法」など民事の単行法が続々と公布・施行され、同時に「中華人民共和国民法通則」の制定作業も動き出した。1986年4月12日、「准法典」と呼ばれたこの民法通則は、第6期全国人民代表大会第4回会議で改正を経て採択され、1987年1月1日に施行された。9章・156条から成る民法通則は、中国の民事活動に共通する問題を対象に制定された法律規定で、民法体系の中では一般法に分類されている。
民法通則制定の際は、江平、王家福、佟柔、魏振瀛の民法学の重鎮4人が、起草専門家諮問グループとして作業に加わった。それゆえ4人は中国の「民法四老」と呼ばれている。
また、当時、既に喜寿を超えていた著名言語学者にして「現代漢語詞典」主編の呂叔湘が、自ら民法通則の校閲を指揮したことも忘れてはならない。
民法通則は民法における基本法で、その意義は大きい、と孫憲忠は言う。1986年制定の民法通則は、民事活動における基本ルールをほぼ網羅しており、最大の特徴は、進歩した思想と改革開放精神によって経済体制改革を促したことだ。例えば、改革開放の最重要問題の1つは企業の活性化だったが、民法通則も市場経済の要求に従って改善が進められ、ここで規定された法人制度、法人自主権、知的財産権などはいずれも、企業の健全な発展を促す力となった。
1998年1月、当時の全人代常務委員会副委員長の王漢斌は江平、王家福、王保樹、梁慧星、王利明ら民法専門家9人を集めて「九人民法典研究グループ」を発足させ、民法典の起草に関する意見交換をおこなった。その結果、改革の方向性は既にある程度明確になっており、単行法もほぼ出揃ったことから、民法典起草の条件が整った、という見解がまとめられた。
「民法典の起草は、引き続きまず単行法を先に制定し、その後民法典にまとめる2段構え作戦でおこなうべきというのが皆の一致した意見だった。具体的スケジュールは、1999年に契約法を完成させ、1998年から2003年までの数年間で物権法の成立に努め、2010年までに民法典を完成させるという計画だった」と江平は言う。
2002年初頭、当時の全人代常務委員会委員長の李鵬は、第9期全人代の任期内に民法典を採択するという目標を掲げた。これは即ち、4度目の民法典起草作業が始まったということに他ならなかった。
同年12月23日、第9期全国人民代表大会常務委員会第31回会議で、約1200条・10万字から成る民法典(草案)の審議がおこなわれた。
しかし、この草案は法学界から激しい非難を浴びた。民法の専門家の多くの目に、同草案は「民法通則」「会社法」など既存のいくつかの法律を合体させたに過ぎず、実質的意義を持たないものと映っていた。
孫憲忠は次のように指摘する。「民法典の制定には少なくとも、関連する単行法の誤りを正し、漏れをなくし、補うべきところを補うという作業を経なければならないが、2002年の民法典草案ではこれらの作業がまったくおこなわれず、当時発効していた民法通則を含む法律を1つにまとめただけだった。条文には誤り、矛盾、漏れが非常に多く、時代遅れの規定がそのまま残されてすらいた。例えば、中国は1988年から土地制度改革が始まり、不動産市場が既に成立していたにもかかわらず、2001年8月に審議要請のあったこの草案には、1986年の民法通則の『土地は売買、又は市場に出してはならない』という規定がそのまま残されていた。
この民法典草案は、2002年に1度、全人代常務委員会の審議にかけられたきり、その後はうやむやになってしまった。
全人代常務委員会は、物権法、侵権〔権利侵害〕責任法、渉外民事関係法律適用法などの単行法をまず制定し、条件が十分に整ってから、完全な民法典の制定を検討することを決定した。こうして、民法典の起草はまたも頓挫した。
このように、新中国成立後、民法典の編纂は4度の挫折を経験してきたのだった。
(左上から)江平氏、彭真氏、王漢斌氏、佟柔氏、(左下から)梁慧星氏、魏振瀛氏、王家福氏、王利明氏
12年の停滞を経て、2段構え作戦再び
2002年以降、民法典の起草作業は長いこと鳴りを潜めていた。民法学者らのいらだちは募り、何度も連名で党中央指導部に上申書を提出した。
この間、民商事法制度に関する単行法も大量に整備された。
中国で相次ぎ制定された婚姻法、相続法、民法通則、養子縁組法、担保法、契約法、物権法、侵権責任法などの民事法は、中国の民事法体系を少しずつ完成へと近づけていき、民事の司法経験も蓄積され、理論研究のレベルも向上した。民法学者らは、民法典編纂に向けた制度、実践、理論面での基盤が整ったと判断した。
2014年10月、中国共産党第18期中央委員会第4回全体会議〔四中全会〕で、市場の法制度整備の強化が提案されると同時に、「民法典編纂」が決定された。これはつまり、12年の沈黙を破って、5度目の民法典編纂作業が開始されることを意味していた。
2016年3月4日、第12期全国人民代表大会第4回会議副事務局長兼報道官の傅瑩は記者会見の席上で、民法典の編纂作業は既に始動しており、民法総則の制定と民事法の全面的整理・統合の2段構えで進行する予定であることが発表された。
「民法典の編纂とは単に現行法を1つにまとめることではなく、現行法及び司法経験を総括した上で、改革開放後の状況や問題を踏まえ、必要な制度整備、制度設計、そしてイノベーションをおこなっていくことを意味する」と王利明は解説する。
2016年6月、第12期全国人民代表大会常務委員会第21回会議で初めて民法総則草案の審議がおこなわれた。これにより、民法典は編纂段階から立法手続きに入った。
「中華人民共和国民法総則」は2017年3月15日、第12期全国人民代表大会第5回会議で採択され、2017年10月1日から施行された。これで民法典編纂の第1段階が完了し、制定へ向け確固たる基盤が築かれた。
「中華人民共和国民法総則」は民法典の総則編に当たる部分であり、民事活動の基本原則と一般規定を定め、民法典の中で統率的役割を果たしている。条文は、基本規定、自然人、法人、非法人組織、公民権、民事法律行為、代理、民事責任、訴訟の時効、期間計算、附則の計11章・206条から成る。
2017年4月18日、江西省南昌市青雲譜区徐家坊街道は青雲譜区人民検察院と合同で、居住区での「中華人民共和国民法総則」宣伝学習活動を開催した。 写真/新華社
2015年4月、中国法学会は、民法典編纂プロジェクト指導グループを結成し、王利明が副グループ長に就任した。民法通則と民法総則の違いについて、王利明は次のように説明している。「民法通則は民事行為に関する一般規定であり、民法典の構成要素ではないが、その内容のほとんどは民法総則に通じる。民法典は民法総則だけでなく、物権、契約、侵権責任など、これまでは民法分則に属していた内容を網羅したもの。民法通則は施行から既に30年あまりが経過し、『聯営〔共同経営〕』など、時代に合わない制度も多くなっている。その一方、環境保護など、成熟した市場経済の下で発生・拡大した多くの事柄については、民法通則で規定がなされていなかった
2019年12月16日、民法典(草案)が外部に公布された。草案は順に総則編、物権編、契約編、人格権編、婚姻・家庭編、相続編、侵権責任編及び附則の計7編・1260条から成る。規定により、民法典が審議・承認された暁には、現行の物権法、契約法、婚姻法、相続法、養子縁組法、侵権責任法及び民法総則はすべて廃止される。
2019年12月24日午前、第13期全国人民代表大会常務委員会第15回会議でグループ別会議が開かれ、民法典草案が審議された。12月28日午前には、全人代常務委員会の民法典草案の審議要請に関する議案が可決され、民法典草案は2020年召集の第13期全国人民代表大会第3回会議で審議されることが決まった。
今年の両会で民法典草案の審議がおこなわれることは、社会各界の期待に沿い、長期的立法計画にも符合するものだ、と孫憲忠は言う。
民法典(草案)の公布後、民衆が広く関心を寄せていることの1つに、「中国独自の社会主義法体系が既に形成され、民事の単行法もほぼ出揃った中、民法典を制定する意義は何か」というものがある。
孫憲忠曰く、中国の現行の民事法「体系」は、単行法をつなぎ合わせてできた集合体に過ぎず、科学的な体系に不可欠な役割分担と協調という最も基本的な要素、さらにはジャンル間の論理が欠如しており、民法の立法の「断片化」を招いている。また、改革開放初期に制定されたものと近年制定されたものが混在しており、同一の事柄に対する両者の規定が異なっていることも多く、矛盾していることすらあるという。
王利明は民法典の欠如による混乱を次のような例を挙げて説明する。「例えば、ネットで湯沸かし器を購入したが、欠陥品で漏電が起き、怪我をしてしまったとする。この裁判に適用できる法律は『契約法』『侵権責任法』『消費者権益保護法』『製品品質管理法』があり、他に最高人民法院公布の司法解釈と国務院の行政法規規定まであり、裁判官はどれを基準にすべきか迷ってしまう」
それゆえ、裁判官によって適用する法律・条文が異なるという結果を招く。しかも、中には、自己流の感覚や理解で法律を選んで適用する裁判官もおり、一審では消費者権益保護法が、二審では契約法や侵権法が適用され、一審と二審の判定が全く異なるということすらある。
王利明は次のように指摘する。「法典化とは即ち体系化である。民法典制定の最も重要な意義は、民事法を体系化、系統化し、単行法間の相互矛盾を解消することだ。法典化することのもう1つの優位性は『情報の集中化』。今後、裁判官は民法典さえあれば、民事裁判における主たる根拠を容易に見つけられるようになる」
民法典は時代、社会、市場経済の需要に応じて起草されるべきもの。今このタイミングでの制定は、まさに時宜にかなっている、と王利明は言う。
※本稿は『月刊中国ニュース』2020年9月号(Vol.103)より転載したものである。