【21-002】中国法との向き合い方を考える
2021年01月27日
御手洗 大輔:早稲田大学比較法研究所 招聘研究員
略歴
2001年 早稲田大学法学部卒業
2003年 社団法人食品流通システム協会 調査員
2004年 早稲田大学大学院法学研究科修士課程修了 修士(法学)
2009年 東京大学大学院法学政治学研究科博士課程単位取得退学
2009年 東京大学社会科学研究所 特任研究員
2009年 早稲田大学比較法研究所 助手(中国法)
2012年 千葉商科大学 非常勤講師(中国語)
2013年 早稲田大学エクステンションセンター 非常勤講師(中国論)
2015年 千葉大学 非常勤講師(中国語)
2015年 横浜市立大学 非常勤講師(現代中国論)
2016年 横浜国立大学 非常勤講師(法学、日本国憲法)
2013年より現職
中国法との向き合い方
中国民法典が今年(2021年)1月1日より施行しました。それに先立ち、昨年末に最高人民法院が一部の指導性裁判例の「無効」を通知しました[1]。曰く、「国家法の統一正確な適用を保障するために、『中華人民共和国民法典』等の関連法令及び審判の実際に基づき...中略...9号及び20号の指導性裁判例を二度と参照しないことを決定した」とのことです。通知以前の結果については有効であるとも確認していますから、9号と20号の指導性裁判例を取り消しただけであって大した影響はないという認識からでしょうか。日本ではこの事実を平然と受け止めている感覚があります。しかし、この事実は、私たちの感覚と中国法の感覚のズレを認識する事実です。
確かにこのような現象は今に始まったことではありません。実際に司法解釈の取り消しは頻繁に行われています。斉玉苓事件はその典型例でした[2]。そして、このような突然の廃止や修改正は中国法において当然に予定されています。なぜ当然に予定されるのかと言えば、それは中国法の理論の特徴である「合法性の要求」すなわち、法令の規定に合致することが常に求められるからです。そのため日本法では法令の規定について(条文)解釈を通じて適応させる場合であっても、中国法は導きたい結論を保障するための関連法令の修改正や廃止、制定に躊躇しません。この反応が横暴かどうか(あるいはスピーディーかどうか)は判断が分かれるところでしょう。しかしながら、法令の規定と矛盾する現象を発見した際に、その矛盾した状態を放置することは法に対する求心力(≒法は守らなければならないと万人に要求する力)を失わせかねませんから、それゆえに、中国法は「合法性の要求」を維持すべく法令の修改正等に迷いがほとんどありません。
今回の通知で廃止された指導性裁判例とは、「上海存亮貿易有限公司訴蔣志東、王衛明等買売合同糾紛案」(同9号)と「深圳市斯瑞曼精細化工有限公司訴深圳市坑梓自来水有限公司、深圳市康泰藍水処理設備有限公司侵害発明専利権糾紛案」(同20号)です。前者は営業許可証の取り消しによって会社清算に際し会社経営に実際に携わっていなかったとしても連帯責任を負うことを確認した指導性裁判例でした(関連条文は会社法20条、184条)。後者は特許仮保護期間内に被疑侵害製品を製造、販売、輸入する行為は特許法により禁止されていない以上、後続行為となる使用、販売申出、販売行為は特許権者の許可を得なくとも許すべきと解されることを確認した指導性裁判例(関連条文は専利権13条)で、日本法(日本特許法)の場合は「許されない」と解される事件とされていたものでした[3]。なぜ9号と20号に限って「無効」としたのでしょうか。
今回の通知が実際の実務において、どれほどの影響があるのかについて私には皆目見当がつきませんが、中国法の性格が――それが脅威か否かは別にして――私たちの法の性格と同じでないことについては、日本で徐々に浸透している印象を感じられるようになってきました。そこで、今回のコラムにおいて、指導性裁判例の一部廃止という例を題材にして「どのように」同じでないと言えるのか、すなわちズレの一端を説明することによって、中国法との向き合い方を考えてみたいと思います。
指導性裁判例とは何か
まず指導性裁判例とは、人民法院(裁判所)の最上位に位置する最高人民法院と人民検察院(検察)の最上位に位置する最高人民検察院が、司法実務の判断基準を公開してその透明度を高め、統一的な公平性を波及させるために制度化し編集公表している裁判例のことです。「裁判例指導業務規定」に基づいて(1)キーワード、(2)裁判の要点、(3)関連条文、(4)事件の概要、(5)結果および(6)論旨からなる指導性裁判例を、両者が適宜公表しています。
この指導性裁判例について、少なくとも日本では、将来的に日本法における「判例」のように変容するものと、つまりズレは将来的に埋められていくと楽観視していました。判例(日本法)とは、過去の判決の実例すなわち、過去の事件である判決、決定および命令の総称です。この意味での判例は、図書館の資料やデータベース等の情報源に収録した裁判例であると理解される意味と一致します。しかしながら、判例にはもう1つの意味があります(法学・法律学の勉強をすると、こちらの意味での理解が一般となるはずです)。それは、同じ趣旨の裁判が繰り返されても同じ結論を導くことが期待される(法的)論理という意味の判例です。これを「先例拘束性」とも言います。日本法は、このように不変の規範としての価値を有すると考えられる理屈も「判例」と言ってきました[4]。そして、既述したように、「指導性」と冠してあるためか、日本(における中国法研究)では、指導性裁判例が将来的には後者の意味での「判例」に変容すると期待され、そうならない指導性裁判例の動向について上意下達の性格を改められないのは何故か?などと批判してきました。
確かに、同じ趣旨の裁判については同じ結論を導くように典型例となる裁判例を公表する制度であるわけですから、先例拘束性をもつと期待できないわけではありません。しかし、ここには先例拘束性の強弱という視点も必要であろうと私は考えます。もし先例拘束性を有するという意味での「判例」として評価させたいならば、先例拘束性を否定する場合の制度も同時に用意しておく必要があるためです。なぜならば、どんなに不変の規範としての価値を有すると考えていたとしても、何らかの拍子に否定される可能性を排除できず、それゆえに、排除される場合の手続きを事前に、そして厳格な基準で用意しておくことによって、その不変の規範としての価値を強く保障することになるからです。要するに、終わりにするやり方が厳格に用意されていて、そのやり方に沿って終わりにするのだから、それが発動しないということは、<おいそれと変更することのできない不変の規範であると言える>というわけです。
日本法では、ある判例を「終わりにする」すなわち変更する場合には、最高裁判所大法廷において裁判しなければならないとされています[5]。大法廷とは、最高裁判所の裁判官15人全員で評議する裁判ですから、その時点における裁判所の最上位に位置する裁判官全員が関与し、その過半数が判例変更を容認しない限りダメだというわけです。一方、中国法の指導性裁判例について「終わりにする」やり方は、最高人民法院内に設置する裁判例指導工作弁公室[案例指导办公室]と最高人民検察院内に設置する法律政策研究室[法律政策研究室]がそれぞれで検討し、最高人民法院の場合は指導性裁判例の候補を同審判委員会へ、最高人民検察院の場合は同検察委員会へ送り、その評議を経て決定することになっています[6]。
日本法との比較で言えば、そのポイントは、(公開の)裁判を経るのかどうかです。一部では審判委員会と検察委員会のメンバーがどのような構成になっているかが関心を集めているようですが、法曹の専門家であろうがなかろうが、それは関係ないと私は考えます。なぜなら、先例拘束性の強弱という視点で見れば<おいそれと変更することのできない不変の規範であると言える>かどうかが重要であるからです。そして不変の規範であると言えるかどうかという問題は、究極的に言えば論理整合性を確保しているか否かにかかっています。
この意味で言えば、上記の通知は論理整合性を確保したとは言えません。依るべき根拠を示したという意味では、辛うじて「合法性の要求」を満たしているとは言えますが、それだけです。したがって、この日本法の「終わりにする」やり方と比較すると、指導性裁判例は先例拘束性が弱いと言えます。そうすると、指導性裁判例は「判例」と言えるのでしょうか。過去の判決の実例という意味での判例(日本法)と評価するのが合理的でしょう。
法治国家とは何か
次に法治国家とは、生の実力(例えば暴力)による強制を法的強制力として承知しない国家・社会のこと、すなわち法に従って政治が行われる国家・社会であると理解されている概念です。法という根拠・原因を知っておくことで、私たちは<どうなるか>の予測可能性を確保でき、それが社会における私たちの行動の自由を保障することになると言え、そういった国家・社会を、今日の世界では各国各地域が希求していると言われています。しかしながら、この法治国家という概念も指導性裁判例と判例・「判例」の関係で確認したところと同じく一義ではありません。
法治国家をコントロールする「法」をどのように捉えるかによって、「法の支配」に基づく法治国家と、「法による支配」に基づく法治国家に区別できます。前者(法の支配)の場合、そこで捉える「法」は、法令条文のように文字化してあるものだけでなく、対立や紛争が生じた際に、ようやく<こういうルールがあるのではないか>と徐々に文字化してくるもの=自然法も含むそれとして捉えます。一方、後者(法による支配)の場合、法令条文のように文字化してあるものだけを法として捉えます。この両者の違いは非常に大きなものです。文字として現れているものだけを法として捉える場合、その文字から解釈できる範囲内の結論しか導ける可能性がない、つまり解釈の幅を限定できるのです。そして、日本は「法の支配」に基づく法治国家を希求し、中国は「法による支配」に基づく法治国家を希求しています。日本と中国の様々な対話について同床異夢と評価する言説も多いですが、それはこういう次第なのです。
さて、中国法が希求する「法による支配」に基づく法治国家のポイントは、既に述べたように解釈者による好き勝手な解釈を極力コントロールしたいところにあります。以前においては、退役軍人など<赤い血>を受け継ぐ人間に裁判官を任せなければならないといった方針で人事が進んでいたと言われてきましたし、最近では<西側かぶれ>を抑制する意義があるといったところでしょうか。但し、日本法が希求する「法の支配」に基づく法治国家であれ中国法が希求するそれであれ、共通する点はその「法」が人々の予測可能性を確保し、行動の自由を保障するものであるという要求に常時迫られているところです。そして、予測可能性を確保するためにキーとなるのは、ここでも「論理整合性」です。なぜなら、国家・社会の変化に適応すべく「法」を修改正することは当然起こり得ることですが、この場合に旧法と新法をつなぐ論理整合性が欠けてしまえば私たちが期待する予測可能性の確保ができなくなるからです。予測可能性を確保するためには新旧の法の<つながり>を周知しなければなりません。
ところが、今回の通知は誠に分かりにくい。紙幅の都合上、9号の指導性裁判例を題材に説明しておくことにします。9号に関連する条文は公司法20条です(同法184条は清算組織の権限規定)。「『中華人民共和国民法典』等の関連法令及び審判の実際に基づいて」云々と言われても、正直、知ったことか!の気持ちです。
ちなみに公司法20条3号は「株主が法人の地位ないし株主の有限責任であることを濫用して債務を逃れ、債権者の利益を著しく損なう場合は、会社の債務について連帯責任を負うものとする。」と言明します。そこで、民法典の条文から関連しそうなものを探してみると、例えば民法典682条1項が見つかります。当該条文は保証責任の範囲を明らかにしたもので、「保証の範囲は主債権並びにその利子、違約金、損害賠償金及び債権を実現する費用を含む。但し、当事者に別段の約定がある場合は、その約定に従う。」と言明します。つまり、契約に明記しない場合は当該条文に定める範囲だけに限られることになります。そしてこれは9号の指導性裁判例の法的論理と矛盾しています。前述したように、法令の規定と矛盾する現象を発見した際に、その矛盾した状態を放置することは法に対する求心力を失わせかねないのですから、当然9号の指導性裁判例を「二度と参照しない」と決定しなければならない運命だったわけですね。
確かに私も行間を読むことを学部時代に事あるごとに要求されてきた身ではありますけれども、新旧の法の<つながり>を説明し周知するために、言葉が不足していると思われます。もちろん、言葉の不足を否定できる程度に「合法性の要求」が基礎理論の域に達した証左かもしれません。
異質の法治国家ということ
以上、今回は2件の指導性裁判例の「無効」に関する通知を題材にして、中国という異質の法治国家が「どのように」私たちの法治国家と同じでないのかを見てまいりました。指導性裁判例は「判例」などではなく、裁判に臨むにあたっての訴訟戦略の目安にすぎない過去の判決の実例であること、そして新旧の法の<つながり>を紐解いたところで過去導かれた結論と同じ結論を導ける期待可能性は高まらないことをお伝えしたつもりです。
私自身は目下、既存の法学を再設計して21世紀の法学を探究する意識が高まっているところにあり、この視点から中国法と向き合っています。「合法性の要求」は中国法の理論の傍論的な存在であって欲しいのですが、このコラムで紹介したような基礎理論の域へ歩みを速めているように見て取れる変化の繰り返しを確認するに度に、辛いというのが正直なところです。これらの変化について知ったことか!というように、我意を張るような我慢だと思うならば、とっくの昔に見切りをつけていたかもしれません。辛いだけならばそれは抱え続けられますから、こうして辛抱しながら中国法(の動向)と向き合っているのだろうと思います。
このコラムが読者諸賢の、今後の中国(法)との向き合い方を考えるきっかけになれれば幸いです。また、文末にて恐縮ですが、このコロナ禍において一人一人が辛抱しながら明日という日を迎えられたらと願います。洋の東西を問わず暗いですけれども、朝の来ない夜はありません。辛抱した後に、みんなで明るくなりましょう。
(了)
1. 中華人民共和国最高人民法院「最高人民法院关于部分指导性案例不再参照的通知」法〔2020〕343号2020年12月29日通知参照。
2. 斉玉苓事件については、例えば松井直之「最高人民法院による司法解釈の廃止:斉玉苓事件における司法解釈をめぐって」『比較法学』45巻1号2011年94頁以下等がある。
3. 指導性裁判例20号の解説については、例えば林軍「日中における補償金請求権」『パテント』66巻9号2013年76頁以下等がある。
4. 本コラムでは両者をカッコ付きとカッコ無しで区別しておくことにします。
5. 日本・裁判所法10条3号参照。
6. 最高人民法院の場合は「《最高人民法院关于案例指导工作的规定》实施细则」4、8条参照、最高人民検察院の場合は「最高人民检察院关于案例指导工作的规定」7、9、13条等参照。