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【22-002】社区矯正監督制度の功罪と法の役割

2022年03月17日

御手洗 大輔

御手洗 大輔:早稲田大学比較法研究所 招聘研究員

略歴

2001年 早稲田大学法学部卒業
2003年 社団法人食品流通システム協会 調査員
2004年 早稲田大学大学院法学研究科修士課程修了 修士(法学)
2009年 東京大学大学院法学政治学研究科博士課程単位取得退学
2009年 東京大学社会科学研究所 特任研究員
2009年 早稲田大学比較法研究所 助手(中国法)
2012年 千葉商科大学 非常勤講師(中国語)
2013年 早稲田大学エクステンションセンター 非常勤講師(中国論)
2015年 千葉大学 非常勤講師(中国語)
2015年 横浜市立大学 非常勤講師(現代中国論)
2016年 横浜国立大学 非常勤講師(法学、日本国憲法)
2013年より現職

現代版「五人組」について

 ご承知のとおり現代中国は、これまでのところゼロ・コロナの方針を維持しているわけですが、いかに最新の監視制度を構築しているとしても、衛星測位システム機器(例えばGPS発信器など)と小型カメラを一人ひとりの体内に内蔵しない限り感染経路を完全に断絶することは難しいでしょう。このように考えると、ゼロ・コロナの方針を徹底するための仕組みを用意しなければいけないはずで、その古典的な仕組みとしては江戸時代の「五人組」のような仕組みになるのではないでしょうか。

 そもそも五人組とは隣保制度の一種です。肯定的に言えば、となり近所同士で助け合う仕組みですから、自助が困難な場合の互助または共助の制度です。江戸時代の五人組が年貢の納入や治安の維持について構成員が連帯して責任を負う機能を担っていたことはよく知られていることです。組の中で年貢を納入しない者が出れば、組として弁済責任を負っていました。一方否定的に言えば、となり近所同士で監視し合う仕組みですから、社会内の監視制度です。江戸時代の五人組においても犯罪者がいるときは密告を求められ、知りながら報告を怠るときは処罰されたりしていたようです。要するに、互助の仕組みであると同時に日常生活の中で相互に監視し合う仕組みでもあるのが「五人組」です。

 私は、現代中国が用意する社区矯正監督(制度)こそ現代版の五人組に違いないと考えます。この制度自体を私は2012年1月に最高人民法院、最高人民検察院、公安部および司法部が共同で公布した「社区矯正実施弁法」を確認したときに認識はしていましたが、まさか今日の問題意識につながるとは思ってもみませんでした。そこで、遅ればせながら少々調べてみたところ、2003年の時点で社会実験的に導入され、その後2009年に業務の整理が進み、前述の法令の公布へとつながっていたことを知りました。コロナに合わせて急造したとか監視社会を徹底するために強化しているのだという懸念は、杞憂というか被害妄想の域を出ないと思います。

 さて、私の問題意識が徐々に強くなって今回取り上げてみようと思ったきっかけは、今年1月に最高人民検察院が公表した第33回指導性裁判例集です(以下、最高検指導性裁判例集とします)。今回の最高検指導性裁判例集は社区矯正監督制度をテーマに収録しています。概要は以下に紹介いたしますが、今回のタイトルに記しましたように当該制度の功罪を見て取れます。そこで、これらの裁判例の紹介を通じて、ゼロ・コロナ方針の下で今後現代中国がどんな動きをするかについて皆さんと考えてみたいと思った次第です。

第33回最高検指導性裁判例集の概要

 公表された事例は全部で5件です。もちろん対外的に胸を張って公表するわけですから、典型的(としたいもの)で、(少なくとも本人たちにとって)恥ずかしくないものが掲載されています。そのため当然のことですが、非典型的で、恥ずかしい事例も実際には存在しているはずです。とはいえ、そんな粗探し的な収集をやったところで相手(最高検)の意図を把握できるとは思えませんから、以下では相手の意図の把握に努めてみることにします。

(一) 法的強制力の教示

 最高検131事件は、社区矯正監督の対象となった男(重火器不法売買罪で懲役3年、執行猶予4年)が、この執行猶予期間中に、執行猶予を取り消す行動とされる勝手な外出や出国を繰り返したために、監督機関である社区矯正機構が人民法院に対して執行猶予の取り消しと収監を請求した事例です。管轄地の人民検察院の調べによれば、GPSの充電を故意におこなわないで外出したり、GPS装置を外して二十数回に及ぶ外出を繰り返し、そのうち2回は11日にわたる出国をしていたりしたことが判明しました。なお、これらの事情について男に問いただしたところ、すべて事実であると白状したとのことです。

 本人が事実として承認・是認しているわけですから、収監して刑に服させることは当然です。しかし、この事例を最高検131事件として公表したポイントは、その直後に続く監督結果の覚書だろうと私は感じます。なぜなら①人民検察院が捜査する段階において出入国管理部門や公安部門と協力した情報交換を前提にして、パスポートや通行証などの使用履歴を社区矯正機構が確認できること、②公安部門との連絡網を強化して、社区矯正監督の対象者の違法な振る舞いについて通報し合うようにすること、③人民検察院の監督部局を招聘してノウハウの共有を拡げてゆくこと、および④関係する責任者に対する党政処分をおこなうことという4点を通じて社区矯正監督の実行力を強めていくことが見て取れるからです。ちなみに、粗探し的な視点に立てば④に興味をもたれるようですが、私としては官僚機構の自然の性(さが)である縦割り(行政)化の欠点を改善し、横割り化・連帯強化を示唆する①~③に興味を持ちました。

 以上より、最高検131事件の意義は、ルールを破った人間に対して必ず処罰が下されることを示すことによって、いわば法の強制力を対外的に教示しているところにあると私は考えます。なお、最高検132事件は社区矯正監督の対象となった男が治療のために居住地を変更する場合の管轄移転についての事例で、居住地の移転にともなって社区矯正監督の管轄権も移転することを確認しています。言ってみれば、お天道様の下で隠れられるところはないというところでしょう。

(二) 法的求心力の教示

 次に、最高検133事件は社区矯正監督の対象となった男(詐欺罪で懲役3年、執行猶予4年)で、その執行猶予期間中に模範囚のように態度が良いだけでなく、ある火災事故に遭遇した際に率先して救出活動に従事して危険の除去に努めた功績から、人民法院が懲役6カ月、執行猶予1年の減刑に裁定したという事例です。管轄地の人民検察院の調べによれば、監督しているはずの社区矯正機構はこの男の功績について調査していなかったそうです(職務怠慢?)。判明した事実によれば、現場は車両の往来や人通りも活発な住宅地で、一度爆発すると重大な事故になっていたかもしれない状況だったとのこと。そんな現場に遭遇したこの男が、三度現場を往復して爆発するおそれのあった液化ガス缶7本を全部避難させたそうです。そこで、この功績が「重大立功」の場合に該当するかどうかを検証するために、公安機関、人民法院および社区矯正監督機構などの関係者と協議し、人民代表大会の代表、政治協商会議委員、社区矯正監督機構の代表者などを聴聞員として招聘し、この男とその代理弁護士も出席する形で公開聴聞会(検察聴聞会)を開催して減刑請求が適切であるとの合意を取り付け、人民法院に対して減刑を請求したとのことです。

 最高検133事件の意義は、ルールを順守する人間に対して早期の社会復帰を促せることを示すと同時に、それを集団全体の総意として承認する形を示すことによって、いわば法の求心力を対外的に教示しているところにあると私は考えます。とくに⑤仮に社区矯正監督機構の怠慢があったとしても「必要があれば」人民検察院が自ら調査をおこなえることを確認する点および⑥検察聴聞会をつうじて人民法院に対して減刑請求の検察建議をおこなうべきであることを確認する点からすれば、ルールを順守することによって安心して生活できるというメッセージを人民検察院として発信したいのではないでしょうか。なお、⑤については①を想起すれば、集団組織の自然の性から「働くアリ」の人民検察院と「働かないアリ」の社区矯正監督機構という図式を示したいのかもしれません(笑)。

 ちなみに、ルールを順守すれば安心して生活できるというメッセージについては、最高検134事件で社区矯正監督の対象となった男(領収書偽造罪で懲役3年執行猶予5年)の生計維持のための仕事でやむを得ない外出について、それと監督管理とをどのように両立すべきかをめぐる事例が公表されていますけれども、そこでも同じメッセージを確認できます。言ってみれば、ルールを守る努力をする人は報われるからルールを頼りにしなさいというところでしょう。

(三) 法的適応力の教示

 最後に、最高検135事件は、社区矯正監督の対象となった男(不法侵入罪で懲役10カ月、執行猶予1年)の、恒常的に市・県をまたがる活動の申請をめぐる事例です。この男は従事する職業柄日常的に市・県をまたがって活動しているそうで、市・県をまたがって移動することを許可されなければ仕事ができず、仕事ができないということは生活ができないので何とかして欲しいと人民検察院に訴えたようです。人民検察院が調べたところ、「中華人民共和社区矯正法実施弁法」29条には「恒常的に市・県とまたがって活動する場合」1回6カ月を有効期間として許可を出すことができると規定するのですが、「恒常的に市・県をまたがって活動する場合」が<省をまたがる場合>も含むのかについて確かに言明していません。ゆえに許可判断を担う司法局が許可していませんでした。

 とはいえ、この男の場合は生計を某運輸会社からの請負で成り立たせており、その内容が居住地から江蘇省と山東省までの運送で、毎月5~8回、その頻度は高く、かつ、定期的に受注が入るのではなく臨時のものばかりだということを男の家族や村民委員会委員への聞き取りで確認したそうです。一方、この男の社会危険性については有罪となった不法侵入罪についても親族の間で惹起されたもので、執行猶予期間中の態度も良好であるほか、長距離輸送中に交通法規に反する行為を行なってもいないことも検証したそうです。

 以上の事実をふまえ、「社区矯正監督の対象者が正常な業務及び生活の必要から市・県をまたがる活動を申請する」主な目的は、当該対象者が正常な業務や生活中に遭遇する実際の困難を解決し、社会復帰を支援するためであるとし、この目的に基づけば「恒常的に市・県とまたがって活動する場合」には<省をまたがる場合>も含むと理解できるとします。そして、この男の場合については確かにそれが必要であり、仮に許可しない場合の方が社会の不安定要素になりやすいとし、1回6カ月を有効期間として許可を出すことが必要であるとの結論を導きました。ちなみに、その後「河南省社区矯正対象外出審査承認管理弁法」では市・県をまたがって活動する範囲について「同省に限らない」と言明し、<省をまたがる場合>を含むことを立法により解決しています。

 最高検135事件の意義は⑦社会の変化に適応できるというメッセージを示すことによって、いわば法の適応力を対外的に教示したところ、かつ⑧この適応力の根本にある合法性の確認を、当事者本人の条文解釈に依存するのではなく人民検察院をはじめとする第三者による解釈に依存することを確認したところにあると私は考えます。

社区矯正監督制度と最高検の意図

 以上のように第33回最高検指導性裁判例集を読んでみると、それは日本法においても確認できる、次に挙げる法の3つの力を再確認できます。(1)法的強制力は法の存在そのものと言ってよいかもしれませんが、その法が頼れる存在でなければ誰も見向きしないわけですから、(2)法的求心力により頼れる存在であるとアピールし、(3)環境変化に適応する法的適応力とが効果的につながる「総体としての法」を維持することが重要であることは明らかです。

 これら3つの力を社区矯正監督(制度)に見てみると、当該制度の功としては社会内の互助制度を法的に支える仕組みが現代中国にあることが、一方当該制度の罪としては社会内の監視制度を法的に支える仕組みがあると整理できます。そして、今回の最高検指導性裁判例集からは、前者について現代中国では法的求心力や法的適応力が作用し、集団による決定や集団による解釈が基礎になることを確認できる一方で、後者について現代中国では法的強制力が作用し、個人による責任負担が基礎になると確認できます。そのためこのバランスを現時点の理想的な均衡点であると最高検は見立てている、と私は考えます。

ウィズ・コロナの日本社会と法の役割

 法の役割を研究する私からすれば、最高検が見立てているこの均衡点は、実は日本社会で通用させるべきバランスに近いものだと感じます。正確に言えば、このバランスが以前は通用したけれども、現在は通用しなくなったというところかもしれません。

 例えば先日遭遇した体験なのですが、大雪の中リムジンバスで空港へ向かう際、トイレ休憩などができないことを事前に何度も乗客に対して告知しているにもかかわらず、空港へ向かう一般道路を走行中に下車したいと急に訴え出た若い男性がいらっしゃいました。トイレに行きたいから下車したい、そのまま自分を置いて走行して構わないというのが最初の主張でした。ここまでならば私も納得できるものでした。しかし、バスが停車しようとしないのを見て取ったのか、その後に彼が主張したのは「『皆さんも同じだと思うが、言えないでしょうから』私が下車したいと言いました」という点はどうも腑に落ちませんでした。つまり、個人による責任負担を回避すると同時にその責任を集団に代替させるところです。

 このような思考は、どこかで自分に正義がある(=自分は正しいことをやっている)と正当化しなければ発言できなかったり行動できなかったりする平常心の弱い人に見られるものです。なぜならば、平常心を欠く人は、不安定を認められず、安定から飛び出したり不安定の中に居続けたりできないため、非=問題を自分以外の何かに求めないと落ち着かないからです。そのため「非があるなら言ってみろ」と啖呵を切る人ほど自分に非があることを感じて強がっているので、自分の思い通りになれば急に優しくなるし、思い通りにならなければ更に過激になって手が付けられなくなります。しかし、手が付けられなくなる前にこちらが譲歩しようと弱気になることで付け込まれ、「息苦しさ」が助長されてしまいます。この点は、コロナ禍で体験済みの方も少なくないでしょう。

 声が大きい方が勝つというのは法の役割を否定していることと同じです。そのため私が最高検の立場であれば、集団による決定・解釈を基にして個人による責任負担のバランスを継続し、一人ひとりの平常心を鍛える方針を固持します。なぜならば、現時点で少なくともこのバランスが個人に対して「息苦しさ」を感じさせず、反発行為は社会の不安定要素になっていないのですから、わざわざ個人による責任負担を回避すると同時にその責任を集団に代替させる総体としての法へと転換する必要はないからです。

(了)