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【07-01】日中に架かる「朝陽門外の虹」~北京陳経綸中学校訪問記~

2007年1月19日

趙 晋平(中国総合研究センター アソシエイト・フェロー)

 北京陳経綸中学校(日本の中高一貫校に相当)を訪問したのは、2006年秋の月曜日だった。大渋滞に巻き込まれ、車が一向に前へ進まなかった。現在、北京市の車保有台数はすでに300万台を超え、渋 滞は日常茶飯事となっている。中でも、月曜日の渋滞は特にひどいようだ。

 だいぶ時間をかけて、ようやく陳経綸中学校についた。学校は朝陽区一番の繁華街にあり、周りはオフィスビルが林立している。玄関で車から降りると、宋広東副校長、黄臣先生、北 京科学技術協会国際部の孟潔氏が出迎えてくれた。早速、宋先生たちに案内され、学校に入った。

学校の創始者は清水安三先生だった

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 「学校の創始者は日本人清水安三先生です。」

 学校の紹介はこの一言から始まった。まずびっくりした。

 宋先生の話によると、現在の学校名は1991年からだった。香港の実業家の陳経綸氏が2700万元(約4億円)を寄付し、この基金で学校は大規模に改修した。陳経綸氏の功績を記念するため、そ れまでの「 朝陽中学校」を「陳経綸中学校」に改名した。

 陳経綸中学校は85年の歴史を持ち、その前身は1921年桜美林学園の創始者である清水安三先生が創立した「崇貞女子工読学校」に遡ることができる。

 1891年、清水安三先生は滋賀県に生まれた。1917年、26歳のとき伝道師として中国瀋陽に赴き、2年後に活動拠点を北京に移した。貧しい少女たちを救済し、教育を受けさせるため、1 921年5月、" " 清水先生は貧民が多く居住していた北京朝陽門外に「崇貞女子工読学校」を創立した。校舎は民間から借りた2つの部屋だけで、とてつもない困難なスタートだった。それにしても、生 徒は全員授業料が免除され、書 籍と文具も学校から提供された。その後、多くのところから資金援助を受け、学校は徐々に拡大され、1936年、「崇貞女子工読学校」が改築移転し、「崇貞学園」に生まれ変わった。1 946年帰国直前まで、清 水安三先生は「崇貞学園」の発展に大きく貢献した。

 清水安三先生は帰国後、桜美林学園を創設した。一方、「崇貞学園」も「北京第4女子中学校」、「朝陽中学校」、「陳経綸中学校」と改名した。しかし、清水安三先生と「崇貞学園」との深い絆は、陳 経綸中学校と桜美林学園に継がれ、現在両校の交流も盛んに行われている。

 2005年3月、清水安三先生を表彰するため、陳経綸中学校では彼の胸像の除幕式が盛大に開かれた。

個性化の学校、個性化の教師、個性化の生徒

 2002年、陳経綸中学校は北京市最初のモデル中学校に指定された。モデル中学校になるのは、簡単なことではなかった。高い進学率が求められる以外、「素質教育」(これまでの受験教育から脱皮し、生 徒の持つ固有の能力と個別の学習速度に応じた多様な形態の教育)を行っているかどうかが判断基準となっている。ちなみに、最初にモデル中学校に指定されたのは全部で14校だった。北京第4中学校、北 京師範大学附属実験学校、清華大学附属中学校など、いずれも北京の超有名校である。

 いままでの有名校と言えば、生徒は受験勉強に集中し、教師は生徒の成績しか関心を持たず、教師と生徒との間の人間関係は希薄という色彩が強かった。しかし、陳経綸中学校は違う。

 陳経綸中学校を訪問したのは、中国の「教師の日」(9月10日)の翌日だった。教学棟に入ると、壁一面に「我愛老師、老師愛me」(私は先生を愛し、先生も私を愛する)と いう大きな看板が掲げられている。生徒から先生への感謝のメッセージがびっしりと書き綴られていた。

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 また、構内で生徒たちとすれ違ったとき、みんなから「老師好(ラ ァ オ. シ ィ. ハァオ)」(先生、こんにちは)と大きな声で挨拶してくれた。

 このさりげない日常光景から、とてもアットホームな雰囲気を感じさせられる。いったい学校はどのような教育を行っているのだろう、私は大いに興味を引かれた。私の疑問を解くように、宋 先生は学校の教育方針、目標と人材育成理念を紹介してくれた。

 「学校の教育方針は、生徒の全面発達と社会発展ニーズへの充足を出発点とし、党の教育方針を貫徹し、素質教育を推進する。さらに、個性化の学校の建設、個性化の教師と生徒の育成を目指している。

 教育目標は、よい環境、強い教師チーム、科学的マネジメント、一流の教育レベルを目指し、顕著な国際交流実績を積み上げ、北京におけるモデル効果のある有名校にまで建設することである。

 また、人材育成理念は十分な環境を整え、すべての生徒を健康、活発、積極的に発展させることである」

 学校は生徒の全面発達を目指すとともに、教師そして学校全体の発展にも努めている。

科学技術素養と国際性の育成

 学校では、生徒の学業成績のみでなく、今後社会で生きていくのに欠かせない科学技術素養、国際性の養成が重要視されている。

 科学技術素養の養成にあたって、創造性の養成が極めて重要で、学校の根本的な目標としても位置づけられている。

 2006年の第23回北京市学生科学技術祭典では、学校は最高賞としての「金鵬科学技術賞」を4つ獲得し、北京首位の座についた。

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 一方、学校では外国語教育が非常に盛んであり、生徒も熱心である。一般の中学校では、英語しか教えないが、陳経綸中学校は第2外国語として、日本語、ロシア語、韓国語、ドイツ語、フランス語、ス ペイン語科目をも設置している。生きた外国語を教えるため、学校では多様な形態で国際交流活動が展開されている。2004年の「国際オープンキャンバス」では、11ヵ国の大使夫人が招かれて多彩な交流ができた。ま た、現在学校も、日本、アメリカ、フランス、ドイツなどの多くの学校と姉妹校協定を締結している。

 このような教育を通じ、生徒をして、自分に限らず、他人、社会、世界にも関心を持たせることが陳経綸中学校では極めて重要視されている。

文武両道と「一校一国運動」

 ほぼ100%の大学進学率、そして60%以上の重点大学進学率を誇る陳経綸中学校は、スポーツにも伝統的に強い学校である。1980年代初頭、中国女子バレーチームを黄金時代、そ して世界チャンピオンに導いたキャップテン郎平氏(現在、アメリカ女子バレー代表監督)が陳経綸中学校の卒業生だった。そのほかにも、周忠革氏(第11回アジアオリンピック)や鄂傑氏( 第11回アジアオリンピック剣術)などの金メダルリストが数多く輩出した。

 学校ではスポーツ教育は極めて盛んである。広大な運動場、室内体育館、室内プール、バスケットボールコートなどの施設の充実ぶりに驚くばかりである。

 進学校では、受験科目の時間を確保するため、体育の授業をなくすケースがよく見られる。しかし、陳経綸中学校では、「体育と健康」というカリキュラムを設置し、1 日1時間のスポーツ時間が設けられている。その授業では、単に体の鍛錬という意味を超えて、生徒の徳育・知育・体育を一体化する総合課程として、陳経綸中学校の課程設置上の一大特色となっている。学校では、世 界レベルで競争力を持つ「文武両道」の一流人材の育成が目標とされている。

 一方、これまでの国際交流の実績も評価され、陳経綸中学校は2008年北京オリンピックの「一校一国運動」の担当校に指定された。

 「一校一国運動」は長野オリンピックに始まって、シドニーオリンピック、ソルトレイクシティオリンピックへと続いてきた。「一校一国運動」の目的は学校単位で一国を選び、主としてその国の文化・生 活習慣を学び、体験を通じて理解を深め、オリンピック開催中に自国にとらわれない国際的な応援をしていくことである。

 「北京オリンピックでは、我が校の交流対象国は日本です」

 宋先生がうれしそうに話してくれた。

 2年後に向け、学校はすでに「オリンピック教育行動方案」を制定し、本格的に動き出した。

朝陽門外の虹

 1980年代、映画「望郷」は中国で大ヒットをし、作者の山崎朋子氏も中国で一躍有名人となった。しかし、彼女の作品『朝陽門外の虹』は中国でまだほとんど知られていない。

 陳経綸中学校の前身「崇貞学園」は『朝陽門外の虹』の舞台となって、主人公は清水安三先生夫妻だった。「かつて北京城市の東の出入口だった朝陽門の郊外に、貧 しい人々がかろうじて命をつなぐ大スラム街が広がっていた。戦火近づく昭和の時代,その地で底辺層の少女たちの教育に献身した清水安三という1人の日本人と、彼に協力した日本・朝鮮・中国の女性たちがいた...」。歳 月のたつにつれ、「人老物非」(人老いて、風景も変わる)となった。しかし、中・日両国で協力しあう国際友情がこの地で残った。

 『朝陽門外の虹』の名前の由来について、山崎朋子氏は中国『南方週末』記者の質問に対し、「そこは昔北京のスラム街であり、そこへ日中友好の架け橋を作りたいという意味で、この名前を付けた」と 答えたそうだ。

 中・日友好の虹として、陳経綸中学校は今後も大空にかかって美しい光彩を放ち続けるだろう。

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