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【07-02】詮方尽くれども、望みを失わず~桜美林学園訪問記~

2007年2月20日

北京の聖者と呼ばれた創立者のスピリットを受継ぐ、
北京陳経綸中学の姉妹校である桜美林学園訪問

福留 朋美(中国総合研究センター・スタッフ)、馬場 錬成(中国総合研究センター長)

 前号で紹介した北京陳経綸中学(旧校名:崇貞学園)は、戦前の中国で国際教育・国際ボランティアのパイオニアとして活躍した清水安三先生(しみずやすぞう)が創設した学校として有名である。また、日本の東京町田市にある桜美林学園も、清水安三先生が妻の清水郁子先生(旧姓:小泉郁子)とともに創設し教育活動を展開してきた学校として知られている。

 今回は、その桜美林学園と中国との交流や清水安三先生と前妻で病死した美穂夫人、再婚した郁子夫人のエピソードを交えながら紹介したい。

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「北京の聖者」と呼ばれた崇貞学園時代

 清水安三先生は、1891年6月1日滋賀県で生まれ、中学時代にウィリアム・メレル・ヴォーリズの感化を受けたことから、同志社大学神学部に進学した。その後、渡米しオベリン大学に学んだ。

 1917年に中国・大連へ渡った安三先生は、キリスト教の宣教師として布教活動を開始するなか翌年には奉天に移り児童園を設置した。そして1920年に北京へ移り、妻の清水(横田)美穂先生とともに、当時北京のスラム街で飢餓に苦しみ身を売ることでしか生きることができなかった少女たちのために、1921年講読の授業や手工芸を教える実務教育機関・崇貞平民工読学校を朝陽門外に開校した。(翌年崇貞女子学園に1938年に崇貞学園と改名)。その後、この学校に小学校や中学校を併設し、中国人のみならず在華日本人にも門戸を広げた。

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 子どもたちは学校で習った刺繍の手織物などを売って家計を助け、また子どもたちの父母もそれを真似て商売をするようになった。その結果、家族全体の家計が潤うようになった。

 安三先生はまた、当時の日本軍の戦火から北京市を救うなど、中国隣人の良き友人としても活躍したことから、「北京の聖者」と呼ばれるようになった。清水夫婦も当時は貧しかったが、中国の少女たちに何かをしてあげたいとの希望で苦労を重ねたのだという。安三先生の北京時代の前妻である、清水(横田)美穂先生の果たした役割も大きかった。

 美穂先生は、1896年近江(彦根)の武士の家系に生まれた。1918年同志社女専家政科を卒業後、安三先生と結婚した。そして中国で餓死寸前の災害児799名を北京に集め、栄養失調、内臓疾患、皮膚病、天然痘が発生する収容所で、医療、食料、衣料品を与えるなど手厚い保護を行った。

 しかしいつしか肺結核を患い、療養のために帰国したが回復することなく、3人の子供を残し38歳でこの世を去った。

 臨終のさい、安三先生が、「ずいぶん、僕はお前に苦労をかけたね、すまなかった。」というと、「自分が求めてした苦労ですもの、何の不服もありません。あの刺しゅうを作って校舎を建てた時は嬉しかった。私の白骨は中国へ持って行って埋めてください。それが私の中国に献げる最後のものですから」と遺言した。

 安三先生は、美穂夫人の遺骨を北京に持ち帰り、学園の一角に手厚く埋葬し大理石の碑が建てられた。その碑には、大略、次のように刻まれている。

 「崇貞学園をこよなく愛し支えてきた美穂先生は、その生涯の三分の一を崇貞学園のために、三分の一を安三先生のために、残る三分の一を子女のために献げ、一生人々から古着をもらって着て、美服をまとうことはなかった」

 美穂先生のその気高さ、優しさ、強さは後々まで「北京の聖女」として称えられた。

「国際的教養人の育成」を目指した桜美林創設時代

 敗戦後、中国からの引き揚げを余儀なくされた安三先生は、再婚した清水(小泉)郁子先生とともに、「詮方(せんかた)尽くれども、望みを失わず(どんな困難にもめげず、希望をもって生きる)」という聖書の言葉を胸に、1946年、無一物から「桜美林学園」を起こした。

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 まず、その目指すところは何よりも、「自分を愛するように隣人を愛す」というキリスト教の精神を大切にし、他者の心の痛みに共感できる人間、そして、国際社会に目を向け、国際社会に貢献・奉仕する人材の育成に重点をおいた。

 桜美林学園の前身である崇貞学園が、当時のアジアの子どもたちが共に学ぶ学校として出発したのに対し、戦後設立された桜美林学園は、世界に目を向け、社会に貢献する人間を育てることを目的として掲げている。

 今現在でもなお、その精神は桜美林学園に受け継がれ、「キリスト教主義に基づいた国際的教養人の育成」を建学の精神とし、国際社会に目を向け、自分が学んだことを世界の人々と分かち合うことの出来る人間の育成を桜美林学園はめざしている。

 「桜美林」の名は、清水夫妻の母校の一つである米国オハイオ州のオベリン大学のオベリンをヒントに生まれたという。オベリン大学は、全米で最初に黒人と女性に門戸を開いたリベラルな大学としても有名である。

清水安三・郁子夫妻の思想と教育実践

 清水安三先生が再婚した清水郁子先生(小泉郁子)は、1892年に東京で生まれ、1915年に東京女子高等師範学校を首席で卒業した。その後、1924年にオベリン大学神学部に進学し、1927年にミシガン大学大学院で博士課程まで進んだ後、1930年論文の資料収集のため日本へ帰国。男女共学論を唱える教育専門家としてそのまま日本で活動を展開していた。

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 しかし、1935年に中国へ渡り、1936年清水安三先生とめぐり合って結婚した。そのときから過去のキャリアをすべて棄て、崇貞学園と桜美林学園の建設に力を注いだ。

 当時、学校とは名ばかりのまるで小さな寺子屋だった崇貞学園では、60数名の生徒が2棟の中国家屋で勉強しているのみだった。

 また、当時の日中両国の間には戦争の暗雲が漂っており、こんな時こそ学校を大きくし、日本人の誠意と力を示し「一人でも多くの中国人に校門をくぐらせて日本を理解した中国人をつくる必要がある」と郁子先生は考えた。

 そして、1938年郁子先生が安三先生より崇貞学園の経営事務・教務すべてを引き継ぐことになったことがきっかけとなり、崇貞学園は全く新しい体制を持って経営されていくことになった。

 崇貞学園は、郁子先生の教育実践により、次々と学園拡張案の実施に踏み込み、学園は内容外観とともに驚異的な進展をとげた。

 桜美林大学の佐藤東洋士学長によると、「郁子先生が崇貞学園の運営にかかわるようになってから、安三先生のそれまでの方針とは違う方向に転換したと私はみています。安三先生は、救済事業としての学校をつくるというお考えで実践していたわけですが、郁子先生は、考えてみれば1920年代、オベリン大学を経てミシガン大学で教育学を学ばれた女性でしたので、崇貞を教育施設として整えたいと考えられたのでしょう。そこで、崇貞学園は軌道修正したなという気がしたのですが、これは学校教育としてのレベル向上につながっていったのではないかと、私は感じております」と語っている。

 桜美林を建設していくなかでも、安三先生は救済事業という観点が気持ちの中で強かったという。安三先生は、桜美林学園を開設した後も、やはり、さまざまな事情で教育を受けることが難しい子どもたちを、どんどん桜美林に受け入れようとした。 そして、その都度「いいんじゃな、受け入れてもいいんじゃろな」と郁子先生に確認し、郁子先生がどんな反応をするか郁子先生の顔色を見ながら、受け入れていたという。

 参考文献:「石ころの生涯」(清水安三著、桜美林学園発行)

清水先生夫妻の精神を受け継いだ桜美林学園

生徒たちの柔らかい頭と心に期待する

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 桜美林中学・高等学校 本田栄一 校長 桜美林学園を訪問し、関係者に話を聞いてみた。

 桜美林中学・高等学校の本田栄一校長は「北京陳経綸中学は、本校のルーツであり、また、ライバルでもあります。教育実践からは学ぶことが多くあり、陳経綸中学の校長先生はビジョンを掲げて、その実現のためにリーダーシップを発揮しておられます。優秀な教員を揃えており、個々の教員のレベルがとても高いと見受けます。教員の質を確保するために努力されている。日中の生徒たちに違いがあるとすると、学習する目的意識ではないでしょうか。社会状況の違いはあるにしても、陳経綸中学の子どもたちは、学習する意欲が、満ち満ちている。将来に対する目標がはっきりと意識されているのではないでしょうか。」と語ってくれた。

 清水夫妻の実のお孫さんだという国際教育部長の清水賢一先生にも、話を聞くことができた。

 「私にとって、安三先生や郁子先生は、ごく普通のおじいさんとおばあさんでした。安三先生についていえば、"北京の聖者"と言われることをとても恥ずかしがっていました。帰国後の大変な時期に、感傷に浸っている余裕がなかったんだと思います。

 祖父は庭の草花を育てるのが好きな、ごく自然な人でした。偉業と言われる行ないも、本人にしてみれば、それが使命だと思ったからやり抜いたんでしょうが、当時、北京に住んでいた日本人や、日本軍の関係者からは非国民と言われて、ひどい扱いを受けたこともあったそうです」と顔をほころばせながら語ってくれた。

 また、「安三先生はすきやきが大好きで、これはインターナショナルフードだと言っては、外国の子供たちを招いて一緒に楽しんでいました。とくに中国や韓国の子供たちを可愛がって、名前の呼び方などはそれぞれの母国語の発音で親しげに呼んでいました。中には、中国に住んでいた朝鮮人の子供で、母国語を知らない女子生徒もいたそうですが、安三先生はその子たちに、朝鮮語を習いなさいと勧めたり、朝鮮語の発音で名前を呼んだり、母国の文化を詳しく教えたりしたそうです」と語ってくれた。

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 また、本田校長先生に清水夫妻について聞いてみると、「私はこれまで清水夫妻に関するたくさんの本読みましたが、アジアの人々に尊敬の念をもって接したこと、それぞれの固有の文化、民族意識を尊重したこと、当時のアジアの人々に対する偏見から解放されていたこと、学んだことを社会に還元することを常に念頭においていたこと、キリスト信仰を実践したこと等あらゆる方面において、尊敬という言葉以外は見つかりません」と語ってくれた。

 「日中の子どもたちに期待することはなんですか?」と筆者(福留)が本田校長先生に訪ねたところ、「学校で身に付けた知識や学力を、人のため社会のために役立てていく、そのような願いを抱いて生徒たちが学ぶことを期待しています。 若い子どもたちには柔軟性があると思いますので、その柔らかい頭と心で、新しいことに挑戦していってほしい。誰かがするのを待つのではなく、自ら行動を起こしてほしい」と、情だけに流されず、冷静にしっかりと温かく強い意志をもって、桜美林の発展を支えていく凄い先生だと感じた。

アウトプットの方法として学ぶ言語文化

 「私たちが生きていく21世紀は、自分の国のことだけを考えている時代ではありません。世界の人々と手をつないで助けあい、支えあっていくには、お互いの違いを尊重し、理解を深める学習が必要と考えます。そのために、桜美林では語学力を身につけ、文化や意見の異なる人々とも心を通わせる力を身につけるための訓練を大切にしています。また、そのために必要とされる母国語については特に力をいれて教育していきたいです」と、本田校長先生は、生徒たちに外国語を身につけさせることもさることながら、何よりも先ず、徹底して日本語という言語の教育に力を入れたいと主張する。

 何事も、ことばで表現し、伝える力を養い、相手と向き合うことによって得られる経験を大切にするためにも、『音声言語』を学ぶことは非常に意義のあることと考えているようだ。

 「知識を蓄えるインプットはどの学校も行っていますが、アウトプットの方法はあまり指導されていません。しかし、生きていくうえで話すことはどうしても必要になります。相手の状況を意識して目的に即して話すことは欠かせない能力と言えるでしょう」

 本校の国語科は、現代国語と言語文化の2科目で構成されており、言語文化では『古典』と『音声言語』を学習し、『音声言語』は人前で発表したり、人の話を聞いたりするという。

 中1では桜美林中学校を自分の視点で分析することを目標に広報新聞を作り、中2では同校の受験を考えている保護者と小学生に伝える内容を考えて、学校説明会の企画書を作成する。そして中3では、2年間積み上げてきた情報をどのようなパフォーマンスで伝えるか研究し実践する。

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 また、同校は、創立以来「英語の桜美林」として広く認知されており、近年より、独自の英語「EYEプログラム」を導入している。

 これはコミュニケーション手段としての英語力が一層求められる21世紀の国際化社会に対応するもので、桜美林教育の核となるものだという。

 EYEとは"Express Yourself in English!"(英語で自分を表現しよう)の略で、また、同時に、「自分を見つめる"目"、世界を見つめる"目"を養う」という意味も込められており、英語を手段にして、自ら考え、自分の考えを積極的に発信し、社会問題等も英語でディスカッションやディベートが出来るようになることを目的としている。

 また、選択で中国語の授業も設けている。講師の李紅衛先生はもともと、同校の創設者である清水安三先生の研究のために中国から来日した方で、優しい人柄で初心者にもわかりやすく楽しい授業を展開しているという。

 「日本における国際交流は長い間、欧米諸国との交流を意味するものでしたが、桜美林では、創立者の業績にちなんでアジアとの交流を大切なものとし、過去の歴史をふまえながら、未来に向けてアジアの人々と真の友好関係を結ぶ架け橋を目指してきました」という桜美林学園紹介の言葉通り、桜美林高校では、現在、中国語・コリア語(韓国・朝鮮語)を開設し、また、タイやインドネシア等からの留学生が同校で学んでいる。

 中国については、清水安三先生が中国の文豪魯迅と大変仲の良い親友だったことから、上海にある魯迅旧居近隣の上海外国語大学付属中学とも姉妹校協定を結び、定期的な交換留学制度が設けられているという。

 「英語の桜美林」ならぬ「言語文化の桜美林」だと、筆者は桜美林の言語文化教育への取り組みについて、強く感銘を受けた。

桜美林大学孔子学院の設立

 桜美林学園は1966年に大学を開設し、以来中国語・中国文学等の教育・研究を進めてきた。そして創立60周年を迎える2006年(清水安三先生が中国で崇貞学園を創立した1921年から85年目を迎えた年)に、中国政府との合作で桜美林大学孔子学院を設立した。

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 孔子学院とは、2004年に中国政府が中国語と中国文化の国際推進のために立ち上げた国家プロジェクトであり、中国政府教育部および中国国家中国語国際推進指導グループ弁公室からの直接支援のもと、世界的に有名な孔子の名を借りて、世界各国に設立・運営・普及されている本格的な中国語教育機関である。

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 同学院の中国語特別課程(修学期間:1年)では、中国語コミュニケーションの科目は全て中国人講師による直接法を採用したもので、授業中は全て中国語を用いて行われている。

 「文明理解の第一歩は言葉の学習です。言葉の学習は目的意識を持ち、集中的になさねばなりません。言葉の学習は文化理解の土台です。しかし基礎的な段階の学習に留まれば、何のための学習かわからなくなります。文明の理解を深めることこそ目的であります(桜美林大学孔子学院長光田明正)」

 同じ漢字圏の国同士であっても、「汽車」という言葉に、日本人は「電車」を想像し、中国の人は「自動車」と考える。同じ漢字を使用しているだけに、相手が同じ理解にたっているとの思いこみから、すれ違いが生じてしまう。

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 桜美林大学孔子学院は、孔子学院設立の主旨のもと、法人としての桜美林学園と中国国家中国語国際推進指導グループ弁公室と協定し開設した。そして中国屈指の名門である同済大学と協力して中国語・中国文化を広めることを基本コンセプトに、これからの重要なパートナーである中国を知り、今後の日中友好に役立つ人材育成に貢献することを目指している。

 現在、世界にはおおよそ120校の孔子学院が設立されており、桜美林大学孔子学院は東日本で唯一の孔子学院である。また、現在日本には桜美林大学、立命館大学、愛知大学、北陸大学、立命館アジア太平洋大学、札幌大学の6校で孔子学院が開校されている。

詮方つくれども、望みを失わず、創立者のスピリットを受け継ぐ

 「創立者清水安三先生は開学当初より、"学而事人"、"詮方尽くれども希望を失わず"の精神を大切に説いてきました。これからもキリスト教の精神を礎として、艱難の多い世にあっても望みを失わず、希望を掲げ続けることのできる人材、そして、他者の痛みを理解し、人に仕えることのできる人材を育てる学園として更なる歩みを続けていきたいと願っています」

 桜美林大学の佐藤東洋士学長の言葉どおり、桜美林学園の子どもたちは、明るく、どこかピュアで、生徒一人一人を大切にする精神が生きている。他者に対して思いやりの気持ちをもっている、それが桜美林の良さだと先生方が教えてくれた。

 清水安三先生が好んだ"学而事人"ということばは、「学んだことを人のために役立てる」という意味である。「何のために学ぶか」しっかりとした目標を立てることが必要だと本田校長先生は強調する。

 「これからは"学んだことを役立てる"、そのために、"共に生きるための学び"を身に付ける努力を子どもたちに積み重ねてほしい。それが創立者の願いであったことを覚えていてほしい」

 本田校長先生の熱心な想いが伝わってきた。「子どもたちと一緒に切磋琢磨していきたい」と願っているという。

 清水安三先生と2人の夫人のように、心ひとつでおこなったことが大きな力となって波紋をよび後々まで広がっていく。自分の意思をしっかりと持ちながらも、穏やかで温かい心を持った子どもたちがこれからも多く増えてくれたらいいと思った。

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