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【18-02】教育の"歪み"のスケープゴート?「オリンピック数学」

2018年6月14日 孫文曄/宮島 泉(翻訳)

 子どもたちが放課後に通う塾の定番にもなっている「オリンピック数学」。だが、今年に入り、続々と大会の中止が発表された。受験時の加点対象でもあるだけに保護者の関心も高い今回の事象の裏には、「学校選択」という中国特有の問題がある――。

 華羅庚(ホワ・ルオゴン)金杯(1986年から続く少年少女を対象とした数学競技大会)」の開催が見合わせとなり、「学而思杯(学習塾「学而思教育」が主宰する学力試験)」も中止、わが子を数学塾や特訓クラスに通わせる保護者たちは微信のグループチャットのグループ名から「数学」の2文字を削除している......。多くの人にとってはその内実もよくわからないニュースだが、子どもの中学受験を案じる親にとって、それは大きな衝撃だった。これらの大会での成績はいずれも受験時の加点対象であり、開催中止となれば、名門校受験の"武器"を失うことになるからだ。

 一方、世間では「悪名高いオリンピック数学にようやく中止命令が出た」と賞賛の声があがっている。「これらの大会の取りやめは、世のオリンピック数学熱の抑制に対し、根本的解決をはかる措置でもある」。『新京報』は紙面でこのように論じた。

 だが、長いこと中学受験という戦場に身を置いている親たちからすれば、先の論はいささか幼稚に映る。「オリンピック数学をやり玉に上げれば"学校選択(戸籍地とは別の地域の学校に入学させること)"で抜けがけをする者がいなくなるのか。大会の成績と"学校選択"が結びついているが、そうさせたのは誰なのか。しかも、結びついているのはオリンピック数学だけじゃない。英語も芸術もスポーツもみなそうだ。禁止するなら全部禁止にすべきだろう」、これが保護者の意見だ。

 確かに、教育部が今年2月に打ち出した「十項禁止(学校による各種大会の成績をもとにした生徒募集の禁止や、学業成績によるクラス分けの禁止など、10項目の禁止事項の通知)」では、2020年までに特長生(文芸、スポーツ、科学などの分野で秀でた学生)制度を廃止することがうたわれている。しかし、保護者の間には「それでも不透明な『政策保障生(海外帰国組や優秀な人材など、政府の政策に合致する人材の子女)』や高所得者の『学区房(名門学区内の高額な住宅)』、名門校の選抜制度はなくならないのではないか」「教育の不均衡がある以上、"学校選択"をなくすことなどできない」といった「信じる者が馬鹿を見る」的な声が聞かれる。

 子どもたちの負担軽減策が、なぜ「信じる者が馬鹿を見る」になってしまうのか。中国におけるオリンピック数学の歴史がそれをもっともよく証明している。

 中国の著名な数学者・華羅庚の名を冠し、1986年に創設された「華羅庚金杯」には、これまで3000万人を超える優秀な児童が参加している。だが、その評判は、1990年代にはすでにかなり悪いものとなっており、北京市は2003年には大会への出場禁止に関する通知を出している。また、2005年当時、北京市副市長を務めていた範伯元(ファン・ボーユエン)氏は「オリンピック数学は子どもをだめにする最もくだらない競技」と述べ、「迎春杯」にも停止命令を出した。2009年には成都市が競技の全面的中止に踏みきり、2012年には当時の教育部長・袁貴仁(ユエン・グイレン)氏が公の場で批判したことで、国レベルのオリンピック数学攻撃にまで発展している。

今年は開催見合わせとなった「華羅庚金杯」決勝の会場(写真は2010 年の第15 回大会)。撮影/中国新聞社 雨花石

 だが、奇妙なのは、20年にわたって攻撃されながら、オリンピック数学が以前にも増して活発になっていることだ。人々はオリンピック数学を批判する一方で、わが子を特訓クラスへ送り込む。反対が叫ばれるなかでも、大会の成績は一貫して「重点校」や「名門校」が生徒をとる上でのベンチマークだ。「迎春杯」も、2013年からは「数学花園探秘」と名を変え、存続している。"学校選択"をなくさないかぎり、オリンピック数学熱は止められない―― だれもがそれをわかっていながら、知らぬふりをしている。大会が中止された地域に住む保護者たちにいたっては、オリンピック数学の成績が"学校選択"に生かされる地域を羨む声を公然と上げている。「コネや財力でなく、自分の努力で切り開ける道が残されているのだから」と。

 進学とは、子どもたちを同等の教育が受けられる場に送り込む、いわば魔法の杖だ。もし、教育の格差がなく、これほど多くの「重点校」や「名門校」がなければ、そして、それらの学校が大会の成績を新入生採用のベンチマークにしていなければ、オリンピック数学が今日のような害を及ぼす存在になることはなかったはずだ。あるいは、こう言い換えてもいいだろう。オリンピック数学が「教育」をだめにしたのか、それとも、「教育」がオリンピック数学をだめにしたのか。

 国際オリンピック数学において、中国はすでに3年連続で優勝を逃している。これは偶然の出来事だろうか。確かに、子どもの多くはオリンピック数学の訓練にまったく適応できないし、その結果が彼らを苦しめ、健全な知力を損ないもする。だが、5~10%の優秀な子どもたちがいるではないか。彼らはいったいどうしてしまったのか。あまりに幼い時期に、膨大な練習問題を与える数学能力の開発方式のせいで、科学への純粋で熱い心をなくしてしまったのだろうか。

 いまや、自然に芽生える数学への関心は、「教育」によってほとんど破壊されてしまったのかもしれない。だが、仮にオリンピック数学が子どもたちに楽しみを与えず、若者たちに創造力をもたらさないとして、それをなくしてしまえば、「教育」にとって好ましい時代がやってくるのか。ただ封殺したとしても、何も変わらないのではないか。「学習者の能力に応じた適切な教育をおこなう」――この常識的な考え方からすれば、オリンピック数学の教育も、体育や音楽、美術、囲碁などの「特別クラス」同様、才能のある子どもたちに門戸を開いているのであれば、問題はないだろう。

 だが、そうした道理に反し、オリンピック数学はいま「有用な教育ツール」か「害を及ぼす存在」かで揺れている。結論はいずれか、それ以外の選択肢はないのだ。


※本稿は『月刊中国ニュース』2018年7月号(Vol.77)より転載したものである。