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【13-01】和解はどのような可能性を拓くか―中国人強制連行・強制労働事件に向き合った裁判官たち―(その1)

2013年11月18日

内田 雅敏

内田 雅敏:四谷総合法律事務所 弁護士

1945年生まれ、1975年東京弁護士会登録。
日弁連人権擁護委員会委員、同接見交通権確立実行委員会委員長、関東弁護士会連合会憲法問題協議会委員長を経て、現在、日弁連憲法委員会委員、花岡平和友好基金委員、西松安野友好基金運営委員会委員長、専修大学非常勤講師、弁護士としての通常業務の他に、中国人強制連行・強制労働問題など戦後補償問題、靖國問題などに取り組む。
著書:『弁護士―法の現場の仕事人たち』(講談社現代新書、1989年)、『「戦後補償」を考える』(同、1994年)、『「戦後」の思考―人権・憲法・戦後補償』(れんが書房新社、1994年)など。

1.花岡和解と元裁判長の献花

 アジア・太平洋戦争末期、約4万人の中国人が日本に強制連行され、鉱山、ダム建設現場など全国35社の135事業所に配置され、強制労働させられた。1945年8月15日の日本の敗戦に至るまでの約1年間、苛酷な労働の中で6830人が亡くなっている。連行された中国人中、986人が秋田県大館市の花岡鉱山にあった鹿島組(現在の鹿島建設株式会社の前身)花岡出張所に配置され、花岡川の改修工事などに従事させられたが、ろくな食事も与えられないまま、苛酷な労働を強いられ、次々と倒れていった。

 このような奴隷労働に耐え切れなくなった彼らは、遂に1945年6月30日、「暴動」を起こすにいたった。この絶望的な蜂起は、たちまちのうちに憲兵隊、警察によって鎮圧され、彼ら中国人はさらに厳しい拷問を受けた。この鎮圧、その後の拷問の中で100人以上の者が殺された。結局、鹿島組花岡出張所では強制連行されてから、日本の敗戦に至るまでの約1年の間に、強制連行された者の約半数に相当する418人が死亡している。

 暴動の原因について調査を命じられた当時の仙台俘虜収容所長から情報局宛に1945年7月20日付でなされた「鹿島組華人労務者暴動状況ノ件」と題する報告書は、「花岡暴動」の原因、動機として労務加重、食糧不足、労賃の未払いと並んで「華人ヲ取扱フコト牛馬ヲ取扱フ如クニシテ作業中停止セバ撲タレ部隊行進中他ニ遅レレバ撲タレ彼等ノ生活ハ極少量ノ食糧ヲ与エラレ最大ノ要求ト撲ラレルコトノミト言フモ過言ニアラズ」と記している。これらの資料は、鹿島組花岡出張所での強制労働がいかに苛酷なものであったかを如実に物語っている。

 中国人生存者・遺族らは1989年、加害企業の鹿島建設に対して損害賠償の請求、訴訟をなしてきたが、2000年11月29日、東京高裁(新村正人裁判長)で和解が成立した。この花岡和解は、和解条項の第1項で、1990年7月5日、鹿島建設と中国人受難者聯誼会が連名でなした下記共同発表を再確認することから始まっている。

 「中国人が花岡鉱山出張所の現場で受難したのは、……強制連行・強制労働に起因する歴史的事実であり、鹿島建設はこれを事実として認め、企業としてもその責任があると認識し、当該中国人及びその遺族に深甚な謝罪の意を表明する」。

 和解成立の際、裁判所は、法廷で、以下のような所感を述べた。

……控訴審である当裁判所は、このような主張の対立の下で事実関係及び被控訴人(鹿島建設、筆者注)の法的責任の有無を解明するため審理を重ねて来たが、控訴人(中国人受難者・遺族、筆者注)らの蒙った労苦が計り知れないものであることに思いを致し、被控訴人もこの点をあえて否定するものではないであろうと考えられることからして、一方で和解による解決の途を探ってきた。そして、裁判所は当事者間の自主的折衝の貴重な成果である「共同発表」に着目し、これを手がかりとして全体的解決を目指した和解を勧告するのが相当であると考え、平成11(1999)年9月10日、職権をもって和解の勧告をした。

 広く戦争がもたらした被害の回復の問題を含む事案の解決には種々の困難があり、立場の異なる当事者双方の認識や意向がたやすく一致し得るものでないことは、事柄の性質上やむを得ないところがあると考えられ、裁判所が公平な第三者としての立場で調整の労をとり一気に解決を目指す必要があると考えたゆえんである。

 裁判所は、和解を勧告する過程で折に触れて裁判所の考え方を率直に披瀝し、本件事件に特有の諸事情、問題点に止まることなく、戦争がもたらした被害の回復に向けた諸外国の努力の軌跡とその成果にも心を配り、従来の和解の手法にとらわれない大胆な発想により、利害関係人の中国紅十字会の参加を得ていわゆる花岡事件について全ての懸案の解決を図るべく努力を重ねてきた。過日裁判所が当事者双方に示した基本的合意事項の骨子は、まさにこのような裁判所の決意と信念のあらわれである。

 本日ここに、「共同発表」からちょうど10年、20世紀がその終焉を迎えるに当たり、花岡事件がこれと軌を一にして和解により解決することは、まことに意義のあることであり、控訴人らと被控訴人との間の紛争を解決するというに止まらず、日中両国及び両国国民の相互の信頼と発展に寄与するものであると考える。裁判所は、当事者双方及び利害関係人中国紅十字会の聡明にしてかつ未来を見据えた決断に対し、改めて深甚なる敬意を表明する。

 聴く者の心を打つ所感である。

 地元の大館では、1989年から毎年6月30日に、大館市の主催で、中国から生存者・遺族、駐日中国大使館等関係者の参加(1990年、現中華人民共和国外交部長王毅氏が在日本中国大使館の参事官時代に来たのが最初)などを得て、花岡十瀬野墓苑にある「中国殉難烈士慰霊之碑」の前で、追悼式が行なわれている(1989年以前にも地元有志が節目節目に行なっていた)。2010年にはNPO花岡記念会によって花岡平和記念館が建設された。市民の手によって建設された加害と受難の歴史を記憶するための記念館だ。

 本年6月30日の追悼式には、和解成立時の裁判長(現在弁護士))新村正人氏も参加され、中国人受難の碑に献花した。氏は前日夜の中国人歓迎の会合でも、中国人遺族らと親しく交流した。交流会の最後は、日中共同で腕を組み「インターナショナル」を歌うことが恒例となっているが、新村氏が、「インターナショナルですか。懐かしいですねえ。60年安保で…」と呟かれ、一緒に腕を組まれたのには驚いた。判決でなく和解による解決だからこそ、このような交流が可能になったのだと思う。

写真

写真1 2013年6月30日 秋田・花岡 新村正人元東京高裁裁判長(張国通氏撮影)

 新村元裁判長が中国殉難烈士慰霊之碑に献花をしたのは、この時が初めてではなかった。2008年夏、氏から以下のような心あたたまるお手紙を頂いた。

 8月に入り終戦の日も近く、何かとお忙しくお過ごしのことと存じます。……ところで、さきの週末7月26日から27日にかけて東北に行く機会があり、花岡に行ってまいりました。花岡事件の解決に微力ながらお役に立ったことは、私の長い裁判官生活の中で特に強い印象を残し、一度花岡を訪ねたいという気持を強くしておりました。ただ、現役中は、当事者の一方に肩入れするように見える行動は慎まなければならないと考えておりました。しかし、今は在野の一介の弁護士に過ぎないので、そのような配慮は無用となり、実はこの8月の手の空く時期に花岡訪問を実現しようと、かなり前から考えておりました。大館から先の花岡は多分不便なところであろうと考え、車で行くことにし、花岡の十瀬野公園墓地に着いたのは午後2時30分でした。途中、奥の細道で有名な象潟で古人の事跡に思いを寄せたり、昼食の時間を休憩のため長めに取ったりしたこともあって、予想を超える時間を要しました。

 中国殉難烈士慰霊之碑に詣で、途中で求めてきた花束を供え、持参の三脚を用い、セルフタイマーで写真を撮りました。ふと思いついてスケッチブックの画紙1枚を剥ぎ取り、感懐を記し、花束に添えて置きました。碑の背後に1本の白百合の大輪が満開なのが印象的でした。あっという間に小一時間が過ぎ、3時半ころ辞しました。信正寺の日中不戦の碑も訪ねたかったのですが、先を急ぐため割愛しました。書き遺した紙片の文面は、次のようなものです。

 縁あって花岡事件に関わり、爾来一度この地を訪れようと心に決めていました。本日慰霊の碑の前に立ち、宿願を果しました。粛然たる思いで花束を捧げます。

平成二十年七月二十七日 新村正人

 その場で思いつき書き記したものですが、この一文が私の心境のすべてを言い尽くしています。……今ごろは、雨に打たれ、風に飛ばされてしまっているでしょうが、それでいいように思います。先生には御報告しておきたいと思って記しました。

その2へつづく)