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【13-03】和解はどのような可能性を拓くか―中国人強制連行・強制労働事件に向き合った裁判官たち―(その3)

2013年11月26日

内田 雅敏

内田 雅敏:四谷総合法律事務所 弁護士

1945年生まれ、1975年東京弁護士会登録。
日弁連人権擁護委員会委員、同接見交通権確立実行委員会委員長、関東弁護士会連合会憲法問題協議会委員長を経て、現在、日弁連憲法委員会委員、花岡平和友好基金委員、西松安野友好基金運営委員会委員長、専修大学非常勤講師、弁護士としての通常業務の他に、中国人強制連行・強制労働問題など戦後補償問題、靖國問題などに取り組む。
著書:『弁護士―法の現場の仕事人たち』(講談社現代新書、1989年)、『「戦後補償」を考える』(同、1994年)、『「戦後」の思考―人権・憲法・戦後補償』(れんが書房新社、1994年)など。

その2よりつづき)

4.和解の契機となった「付言」を導きだした広島高裁裁判長の献花

 昨年の第5回の追悼式には、最高裁で破棄されたとはいえ、「被害の重大性を考えるとき、当事者間での自発的な解決が望まれる」と、和解による解決の契機となった「付言」を導き出した2004年7月9日の広島高裁判決(正義・公平・条理に基づき、西松建設が消滅時効を主張することは著しく正義に反するとして退け、中国人受難者らの請求を認め、西松建設に損害賠償を命じた)の裁判長鈴木敏之氏(定年退官、現弁護士)も参加し、受難者遺族らと親しく交流した。「安野 中国人受難之碑」に献花し、しばし、佇む元判事の姿を見て、前記広島高裁判決が裁判官としての良心に基づいて、書かれたものであることを改めて思った。丁寧に時間をかけて合議し、心血を注いで書いた8年前の判決、それが最高裁判決の「付言」を介して、和解解決につながり、しかも和解の成立によって終わるのでなく、和解事業の遂行として、和解の内容をさらに深めながら、草の根の日中友好運動が地道に続けられていることに、感無量であったのであろう。

 前記最高裁判決に見られた「付言」は初めてのものではなく、古くは台湾人元兵士が日本の軍人・軍属が戦傷病者戦没者遺族等援護法によって補償を受けているのと同じように、自分たちも補償を求めるとした国家賠償請求訴訟において東京高裁は台湾人元兵士らの請求を棄却しながらも「国は立法を急げ」と付言をなし、この付言が契機となって立法により、一定の解決が図られたことがあった。

 強制連行・強制労働事件で裁判所が中国人受難者らの請求を棄却しながらも、被害の回復のために国に措置を求める「付言」を付した判決は、他にもいくつかある。

 日本の侵略戦争によって大変な被害を蒙った人々の傷が、今なお、癒されていない中、法律、条約の制約をうけつつも、裁判所と為して何かできることがないかと呻吟している裁判官たちも少なくない。

 2006年3月10日、長野地裁中国人強制労働事事件判決で裁判長は、判決言渡に続き、「平成9(1997)年12月提訴から8年かかったことを、まずはお詫びします。次に、和解について成立できなかったことを残念に思い、お詫びします。自分は団塊の世代で全共闘世代に属するが、率直に言って私たちの上の世代の人たちは随分ひどいことをしたという感想を持ちます。裁判官をしていると、訴状を見ただけでこの事案は救済したいと思う事案があります。1人の人間としては、この事件は救済しなければならない事件だと思います。心情的には勝たせたいと思っています。しかし、どうしても結論として勝たせることができない場合があります。このことには個人的葛藤があり、釈然としない時があるのです。最高裁の判決がある場合には、従わざるを得ません。判決を覆すにはきちんとした理論が立てられないとやむを得ません。この事案だけに特別の理論を作ることは、法的安定性の見地からできません。この事件は事実認定をしなくても判決は書けますが、この事件で事実認定をしないことは忍びないので、事実認定をすることとしました。本件のような戦争被害は、裁判以外の方法で解決できたらと思います。」と口頭で述べたという。

 「呻吟」するだけでなく、一歩踏み出し、正義、公平、条理等の理念を駆使して、被害者からの賠償請求を認容した判決は、前記広島高裁判決(鈴木敏之裁判長)以外にも、山口地裁下関支部韓国人慰安婦・挺身隊謝罪広告事件判決(98・4・27近下秀明裁判長)、東京地裁中国人強制労働劉連仁事件判決(01・7・12 西岡清一郎裁判長[現広島高裁長官])、新潟地裁中国人強制連行事件判決(04・3・26 片野悟好裁判長)らがある。これらの判決は、いずれも控訴審、もしくは最高裁で破棄されたが、被害者らに思いを馳せ、悩みながら、裁判官として良心に基づいて書かれたものとして記憶されるべきである。前述したように、これらの積み重ねのうえで、広島高裁判決が、最高裁の「付言」を介して和解を導き出した。

 鈴木敏之元判事は、朝日新聞の石橋英昭記者のインタビューに以下のように応えている。

 裁判官生活を振り返って忘れられない判決です。当時強制連行を巡る訴訟が各地で、係争中でした。大きな争点だったのが時効の問題。考えれば考えるほど取り組む価値がある。そこを徹底的に検討しようじゃないかと、陪席裁判官との合議体でうち出しました。時効の主張が権利濫用に当たるかどうかは裁判官にとっては普遍的なテーマです。たまたま大きな社会問題にからんだだけ。気負いはありませんでした。三人が意見を出し合い、時間をかけて、できるだけのことをした。どこかで意見集約をしたり、議論を打ち切ったりもしていない。合議体として納得ゆく結論に至ったわけです。結果として、世間の注目を浴びることになりました。裁判官も人間ですから、歴史の重みを裁く意識があったことは否定しません。でもそれが、地に足がつかないものであってはいけないと。思っていましたね。

― 最高裁で破棄されましたね

 検討を尽くして書いた高裁判決です。最高裁で破られることはないよと、合議の際に陪席に話したものでした。それだけに意外だった。高裁では日中共同声明についても、請求権は放棄されていないと判断しました。最高裁は、国際的な影響を考えなかったとは言い切れないような、興味深い法律解釈をしている。苦労されたのでしょう。

 権利濫用の点は、最高裁も私たちの判断を認めている。だからこそ、高裁判決を何とか生かそうとして、付言の形になったのではないでしょうか。

― 広島での追悼式に参加されました

 裁判官としての仕事を全部やり終えた退官前後のころ、内田弁護士から誘いを受け、気持ちが動きました。実は尖閣列島問題のあおりで、交流が中止になるのではと心配しました。ところが懇親会で「和解の生みの親」と紹介され、挨拶をしたところ、中国人遺族に次々と記念撮影や握手を求められた。乾杯と、酒を酌み交わす、何度も何度もやりました。本当に喜ばれましたね。私の挨拶で涙ぐんでいる遺族もいましたね。こうした民間の日中親善がいつか実る日が来ると、何人もが話した。私も同じ心証でした。来てよかったなと思いました。

― 「受難之碑」に献花されましたね

 翌日、内田弁護士が記念碑に案内してくれました。碑文には「歴史を心に刻み、日中両国の子々孫々の友好を願ってこの碑を建立する」とあります。その後の献花のとき、碑を見上げると、胸がぐーっといっぱいになり、しばし、たたずんでいました。裁判所で営々と進めた判断が、様々な経緯を経てこの形になったのだなあと。私たちは間違っていなかったと思いました。碑文も良かった。西松建設と連名で作ったとのことですが、よくできている。短くもなく、長くもなく、いい文章です。

 碑を仰ぎ見て胸が一杯になり、すぐ直ることができない状況になり、自と長くなった。司会をやっていた女性から「仰ぎ見ていた時間が長かったようですが、いろいろ思いがおありだったのですね」と言われ、また言葉が出なくなった。そのとおりなのです。答えると涙が出てしまうので、黙ってしまった。

― 追悼式に参加された感想はどうでしたか

 感激して帰ってきました。(日中間が厳しい)この時期だからこそ行ってよかったと、行く前よりも良かったという気持ちになりましたね。

 和解と云えばお金を支払うくらいで終わるのかと思っていましたが、運営委員会が歴史的な記念碑を作って、毎年何十人もの遺族を招待して、現地を見せて説明して、自分の親たち、祖父たちの苦労をしのばせる、それを地に足をつけて、莫大なエネルギーをかけて、営々とやってきた運営委員会の熱意、これは小さくないと思いますね。

5.歴史問題の解決は、判決でなく、和解によることが望ましい。

 「運営委員会の皆様,中国の調査で、今日7日、生存者一人を探し出しました。名簿番号90番の于振科さん、87歳です。お元気なようです。生存者に和解を知らせることはうれしいことです」、和解事業遂行中での川原洋子西松安野友好基金運営委員からのメールである。

 和解は和解の成立によって終わるのでなく、受難者・遺族への補償金の届け、追悼、歴史教育などの和解事業を遂行する中で、「互いに譲歩して争いをやめる」という裁判上の「和解」から「相互の意思がやわらいでとけあう、なかなおり」(広辞苑)という真の和解へと更に深めて行く、終わることのない日中友好運動の一つである。

 本年第6回の追悼式に来日し、翌日、原爆資料館を見学した受難者・遺族の一人は、「感想は3つある」と述べ、沈痛な面持ちで、「凄まじい」、「凄まじい」、「凄まじい」、と三回繰り返した。68年前の8月6日、人類史上初めて広島に原子爆弾が落とされたとき、重慶で、シンガポールで、アジア各地で万歳の声が挙がった。日本軍の侵略に苦しめられたアジアの人々は、広島・長崎への原爆投下をアジア解放の閃光として歓迎した。その子孫が原爆資料館で、原爆の悲惨さ、凄まじさを目のあたりにし、前記のような感想をのべた。原爆資料館には、軍都広島に関する展示もあり、そこでは、南京陥落に歓喜し提灯行列する広島市民の姿など加害の歴史も一部語られてはいる(残念ながら、重慶無差別爆撃に関する展示はない)。

 秋田花岡での、広島安野でのこうした取り組みが日中双方の社会において、広く伝えられ、そのことが、現在のような厳しい日中関係を変える大きな力となることを心から願う。

 2013年7月30日韓国の釜山高裁は戦時中、三菱重工で強制連行させられた元韓国人元徴用工に対する賠償金の支払を同社に命じた。すでに同月10日、ソウル高裁も新日鉄住金に対して、同様な判決をなしている、これらの判決について、元徴用工代理人弁護士団の張完翼弁護士は、東京新聞のインタビューで以下のように語っている。「韓国では、6件の同様の訴訟が起きている。訴訟は時間がかかり、多くの関係者は亡くなっている。遺族たちも訴訟より適切な合意ができればいいと考えている。韓国内にある日本企業の財産の差し押さえが可能になるが、我々はそこまで望んでいない。例えば日韓両政府と日本の被告企業、日本から経済協力を受けた韓国企業が財団を設立して補償に当たるのも方法だ、外国にも似た例がある。韓国政府は既に財団の運営費を拠出する準備を表明している」(同紙7月31日)。関連企業と国家が各50億ドルマルクずつ支出して、「記憶・責任・未来」財団を作って、戦時中の強制労働問題に取組、解決したドイツのケースを参考にすべきである。

 フォルカー・シュタンツェル駐日ドイツ大使は、4年の任期を終えるに際し、朝日新聞(2013年10月3日付)のインタビューに応じ、

― 戦後史を振り返ると、ドイツはずっと「経済的には小国」と言われてきました。

 それは私たちの「自制」という考えからくるものです。私たちは侵略者でした。戦後になると、周りの国のすべてが私たちの犠牲者でした。もし、もうドイツのことを忘れてほしくない、協力してほしいと思うならば、自分の考えを他国に押し付けるのを控える以外にありません……

― その態度は、政治家たちが選び取った戦略だったのでしょうか。

 最初はそうでした。今はむしろ文化というべきでしょう。他に選択肢はない、そんな道なのです。私たちは、この文化を手にしたドイツがいかにうまく進むことができたかを知っています。今日の政治家たちが、このコースを変える理由は全く見当たりません。

と語っている。また氏は、以下のようにも語っている。

― 日本の憲法9条は「自制」の助けになっていると思いますか。

 日本はどうあっても自制を続けるでしょう。その文化の中で行動するでしょう。その意味で、憲法の条文は必要ありません。しかし、それは隣国が安心するための助けになります。東京で何が起きても、憲法9条があれば安全だと皆が知っています。私たちにとっては、かってNATOへの統合が非常に役に立ちました。ボン(旧西ドイツの首都)で何が起きても、隣国は私たちが軍隊を独自に動かせないことを知っていました。

 「ドイツは歴史上初めて隣国すべてが友人となった」(2001年ヴァイッツゼッカー元西ドイツ大統領を委員長とするドイツ国防軍改革意見書の冒頭部分)となるため、歴史に向き合ってきたかつての「同盟国」ドイツの戦後の歩みに学ぶべきである。

追記

 本稿で触れた裁判官達が、その担当した全ての裁判において「良い判決」を書いたわけではないと思う。裁判官として、その業務を遂行している中で、時に「魔がさす」ことがあるようである。

 裁判官が「魔がさす」状態になるように、弁護士として如何に活動するか。その意味で、花岡和解、西松広島高裁勝訴判決の二つの事件で,代理人弁護士団の団長として、裁判所との間に信頼関係を築きあげ、尽力し、2006年12月、60歳を前にして亡くなった故新美隆弁護士のことを忘れることはできない。その新美隆弁護士の葬儀 ―花岡事件受難者らにも縁のあった築地本願寺で行われた― 新聞で訃報を知った新村正人元裁判長が参列してくださり、花岡和解成立に際してのもう一人の「立役者」土井たか子元衆院議長の心の籠った弔辞ならぬ追悼演説に、静かに頷いておられた姿に感動を覚えたことも忘れることができない。

(おわり)