【16-03】馬家の三代留学記―三世代にわたる日中交流史―
2016年 7月12日
馬燕:慶應義塾大学中国語講師
上海生まれ、耳鼻咽喉科医師。1987年日本に留学後、慶應大学病院で研究員として働くかたわら中国語教師として教壇に立つ。現在慶應義塾大学の中国語講師。来日28年。
魯迅と日本で机を並べた祖父
祖父の馬裕藻(1878-1945)は20歳のときに浙江省寧波から上海に来て清朝政府に反対する章太炎、秋瑾、蔡元培らの革命運動に共鳴し、1905年に祖父母は2歳の父を連れて日本に亡命しました。1906年に章太炎も東京に避難し、中国から来た留学生に音韻学と革命思想教育を行いました。祖父と魯迅とその弟がそこで学び、彼らの交流が始まります。
写真1 「北大の五馬」と呼ばれた馬家の一家。上段左から馬鑑・馬衝、下段左から馬廉・馬裕藻・馬准。
1911年の辛亥革命後、中国に帰った祖父は1913年に漢字の発音記号を決める「読音統一会議」に参加しました。議論の末、最終的に祖父や魯迅他の日本留学生が提案した「注音字母」が採用されました。その「注音字母」には日本語の平仮名やカタカナの影響が感じられます。のちに祖父は北京大学国文学部の教授になり、4番目の弟馬衡、5番目の馬鑑、7番目の馬准、9番目の馬廉も北京大学で教えていたので「北大の五馬」と呼ばれました。
その後、北京大学に来た日本人留学生の中に中国文学の権威吉川幸次郎先生(1928-1931)がいました。留学生達は祖父やその兄弟の授業を受けたので、帰国後も吉川先生との交流は続きました。
慶應大学と60年の交流を続けた父
父、馬巽は1905年に祖父母について日本にやって来て、1911年にまた一緒に中国に帰りました。高校卒業後、1919年に再び日本に来て慶應義塾大学経済学部に入りました。父は小泉信三先生の授業に参加しましたが、いつも外国人の角度と立場からの意見を聞かせるよう求められたそうです。父は1927年(昭和2年)に中国に帰りましたが、書簡で引き続き小泉先生に教えを請いながら杭州で経済学を教えていました。翌年先生が出張で上海に来たときは迎えに行って再会を喜び合い、次の日には先生を連れて租界の古書店を見て回りました。先生が買い求めた大量の書籍の中に租界の外で既に発禁となっていた共産党の宣伝書籍と資料もありました。中国ではもはや消失してしまったこれらの資料が、実は現在も慶應大学の図書館に貴重な宝物として保管されています。
50年代以後、日本と関係のある者は敵とみなされたため、70年代中期に文化大革命が収束するまで父は私達に日本や慶應大学の話を一切しませんでした。1972年の日中国交正常化から数年後、父はようやく慶應の三色旗を家の壁にかけました。60年の時を経て同級生と連絡を取ったときに送られた記念の三色旗です。1980年に日本から来た2人の友人と空港で再会した瞬間、税関のガラス越しでまだお互いの声も聞こえないうちに3人は涙が溢れて止まらなかったそうです。
写真2 慶應義塾創立125周年。小田博吉氏と馬巽(右)。
「裸足の医者」となった娘日本へ
私、馬燕は上海で生まれ5歳のときに北京に来ました。中学1年生のときに文化大革命が始まり、授業は一切ストップして毎日ひたすら毛沢東語録の勉強です。3年目、毛沢東は学生を農村に行かせて農民から学ばせる下放を開始し、私は16歳で内モンゴルの農村へ行きました。
農村には都市の生活に慣れた私たちには想像もできない光景が広がっていました。水も電気もなく、農民はお風呂に入ったこともなく、食べ物はあわやコーリャン、トウモロコシ、年越しのときにやっと少しの肉や麺を食べることができます。周囲5キロに病院はなく、医療水準も非常に低く、重い病気の人はただ死を待つしかありません。私はある患者を北京に連れて行ったことから医学に興味を持ち、独学で勉強を始めました。やがて村で治療をするようになり、村の委員会が私を北京で学ばせて村の「裸足の医者」(正規の医学教育を受けていない医者)にする事を決めました。
私はモンゴルの草原で5年間農民を看ながら勉強に励みました。当時日本とつながりのある知識分子の子供は大学へ入る資格を得ることができず、5回医科大学を受けやっと入学が許されました。大学卒業後、耳鼻咽喉科の医者として中医病院に配属されましたが、漢方は科学的ではないと思い少々落胆しました。1987年に慶應義塾大学医学部に留学し最先端の医療知識と技術を学ぶかたわら中国語を教え始めました。慶應病院では難病患者の治療に当たりましたが、異国日本で改めて中国伝統の漢方医学の素晴らしさを見直すことになります。それから28年、私達3代130年の歴史は中国が日本と密に交流した証でもあります。
※この記事は日中交流文化誌『和華』第八号で掲載された。『和華』HP:http://wa-ka.org/