林幸秀の中国科学技術群像
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【20-02】【現代編1】袁隆平~ハイブリッド米の開発

2020年12月21日

林 幸秀

林 幸秀(はやし ゆきひで)
公益財団法人ライフサイエンス振興財団 理事長兼上席研究フェロー 国際科学技術アナリスト

<学歴>

昭和48年03月 東京大学大学院工学系研究科原子力工学専攻修士課程卒業
昭和52年12月 米国イリノイ大学大学院工業工学専攻修士課程卒業

<略歴>

昭和48年04月 科学技術庁入庁
平成15年01月 文部科学省 科学技術・学術政策局長
平成16年01月 内閣府 政策統括官(科学技術政策担当)
平成18年01月 文部科学省 文部科学審議官
平成20年07月 文部科学省退官 文部科学省顧問
平成20年10月 独立行政法人 宇宙航空研究開発機構 副理事長
平成22年09月 独立行政法人 科学技術振興機構 
            研究開発戦略センター上席フェロー(海外ユニット担当)
平成29年06月 公益財団法人 ライフサイエンス振興財団理事長(現職)
平成31年04月 同財団 上席研究フェロー(兼務)
令和 2年09月 国立研究開発法人 科学技術振興機構
            中国総合研究・さくらサイエンスセンター特任フェロー(兼務)

はじめに

 桁外れの人口を擁している中国では、国民の食糧を如何にして確保するかは古代より国家の最大の政策目標の一つであった。新中国においても、全国民の食糧確保のための農業振興は、中国共産党にとって統治の正当性を示す重要な事項であった。この農業技術で世界的な業績と言われるのが、袁隆平研究者によるハイブリッド米の開発である。今回は、袁隆平氏を現役で活躍中の人物(現代編)の第一回として取り上げる。

生い立ち

 袁隆平は、1930年北京で生まれた。祖父は南部の海南島文昌県の行政長官を務めた人であり、父の袁興烈は国立中央大学(現在の南京大学)中国語学科の卒業生であった。また母の華静は小さいときから英国教会附属学校に通った女性であり、インテリ家庭に育った。

 母の華静は袁隆平の出産に際し、妹の華秀林が当時看護婦として働いていた北京の協和医院に入院した。担当の医師は著名な女医である林巧稚であり、彼女は協和医学院を卒業し医院に勤めたばかりであった。林巧稚医師は、別途このコーナーで取り上げたい。

教育

 袁隆平が生まれた1930年の中国の状況であるが、辛亥革命を主導した孫文が1925年に亡くなり、南京国民政府の指導者となった蒋介石が地方軍閥を次々と打倒して実質的な国内平定を果たした時期である。ただし、1931年には日本の関東軍による柳条湖事件発生、1937年には日中戦争の引き金となる盧溝橋事件勃発と、日本の軍事的な侵攻圧力が高まっていった時期であった。このため、一家は湖北省、江西省、湖南省、重慶など中国の各地を転々とし、袁隆平も何度か小学校や中学校の転校を余儀なくされている。

農学校の教師に

 抗日戦争勝利後の1949年8月、袁隆平は重慶相輝学院(現西南大学)の農学部に入学し、遺伝育種学を専攻した。23歳となった4年後の1953年に、同学院(卒業時は西南農学院)を卒業し、政府の卒業生就職割り当て政策により湖南省懐化地区の安江農学校(現在の懐化技術学院安江校区)の教師となった。

 奉職した農学校のある湖南省は、洞庭湖の南に広がるため湖南と呼ばれる省であり、長江中下流に位置している。北部は洞庭湖平野、中部は丘陵地帯、南部は山岳地帯となっている。水稲生産が盛んで、中国の主要な米産地の一つである。

大躍進政策の失敗と大飢饉の発生

 1956年のフルシチョフによるスターリン批判を契機に中ソは徐々に対立を深め、翌1957年にフルシチョフが「ソ連が15年以内に工業及び農業生産で米国を追い越せる」と宣言したことに触発され、毛沢東主席は翌1958年に決定された第2次五か年計画で「当時世界第2位の経済大国の英国を3年で追い越す」とした。これがいわゆる大躍進政策である。

 しかし、市場原理を無視し、ずさんな管理の元で一部の農工業製品のみに無理な増産を指示したため、かえって大幅な生産力の低下となり、大飢饉を招くことになった。大躍進政策が行われた1958年から1961年の4年間に、数千万人の餓死者を出したと言われている。

ハイブリッド米の開発

 湖南省という中国でもコメどころで農業学校の教師をしていた袁隆平は、打ち続く飢饉に心を痛め、何とか食糧不足の問題を解決できないか模索を始める。1960年、農学校の試験田で栽培していたイネの一株が特殊な性状を有することを発見した。その後、この株を元に試験を積み重ね、天然交配で子孫には伝播しないことを発見した。これがいわゆるハイブリッド米開発の原点であり、ハイブリッド米とは、稲の品種改良において、雑種第一代に現れる雑種強勢を利用して育種した収穫量の多い米を指す。袁隆平は、これらの試験結果を基に1964年から農学校の試験田で大々的に研究開発を進めたが、1966年には文化大革命が勃発し袁隆平も地主などの黒五類と指弾され、試験田も破壊されてしまった。しかし、袁隆平はこれに挫けることなく研究を続行し、中国南部の海南島の三亜にハイブリッド米試験場を設けた。1972年には、全国30余りの研究機関が参加する重点プロジェクトに認定され、袁隆平は陣頭指揮を執った。そして、ついに1973年に通常のイネより20%も収穫量の多い優良品種「南優2号」を開発した。

スーパーハイブリッド米の開発

「南優2号」の開発に成功した袁隆平は、さらに高収率で高品質な米の開発に努力を傾けた。国の方でもこの努力を後押しし、1996年に中国農業部が「中国スーパー水稲育種プロジェクト」を設立し、袁隆平はそのプロジェクトリーダーとなった。

 これらの研究成果は、中国の農業に革命的な成果をもたらし中国の食糧問題を大幅に解決しただけでなく、世界的な食糧不足問題を解決する切り札とみなされ、「第二次緑の革命」などと賞賛する声も挙がった。

 ハイブリッド米開発により、袁隆平は中国国内の数々の賞のほか、国連食糧農業機関(FAO)の食糧安全保障貢献賞、日経アジア賞などを受賞している。また2004年には、農業技術関係のノーベル賞と言われるウルフ賞を受賞している。

90歳でも現役

 袁氏は90歳となった現在でも活発な研究活動を行っていて、2018年に1ムー(15分の1ヘクタール)当たり1152.3キログラムという水稲栽培収量の世界記録を達成しており、また塩害に強い海水稲の開発普及にも積極的に取り組んでいる。

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現在でも現役として活動を続ける袁隆平

参考資料

  • ・日経アジア賞第一回技術開発部門(1996年) 日本経済新聞社
  • ・"Dr. Monty Jones and Yuan Longping" World Food Prize 2004
  • ・"イスラエルのウルフ賞 袁隆平院士が農業賞を受賞" 人民網 (2004年5月10日)
  • ・"袁隆平中国工程院院士が米国科学アカデミー会員に" 中国網 (2006年4月28日)