林幸秀の中国科学技術群像
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【21-02】【近代編3】林巧稚~著名な女医・中国人の母

2021年01月25日

林 幸秀

林 幸秀(はやし ゆきひで)氏
公益財団法人ライフサイエンス振興財団 理事長兼上席研究フェロー 国際科学技術アナリスト

<学歴>

昭和48年03月 東京大学大学院工学系研究科原子力工学専攻修士課程卒業
昭和52年12月 米国イリノイ大学大学院工業工学専攻修士課程卒業

<略歴>

昭和48年04月 科学技術庁入庁
平成15年01月 文部科学省 科学技術・学術政策局長
平成16年01月 内閣府 政策統括官(科学技術政策担当)
平成18年01月 文部科学省 文部科学審議官
平成20年07月 文部科学省退官 文部科学省顧問
平成20年10月 独立行政法人 宇宙航空研究開発機構 副理事長
平成22年09月 独立行政法人 科学技術振興機構 
            研究開発戦略センター上席フェロー(海外ユニット担当)
平成29年06月 公益財団法人 ライフサイエンス振興財団理事長(現職)
平成31年04月 同財団 上席研究フェロー(兼務)
令和 2年09月 国立研究開発法人 科学技術振興機構
            中国総合研究・さくらサイエンスセンター特任フェロー(兼務)

 世界的に見ても、科学技術の現場での女性の活躍は近年になってからであり、現在においても男性と比較してその比率は高いとは言えない。中国でも同様であるが、そのような環境にも屈することなく努力を重ねて近代の科学技術の歴史に名を残した女性研究者がいる。今回は、著名な女医であり中国女性初という栄誉をいくつか獲得した林巧稚を、近代編の三回目として取り上げる。

生い立ち

 林巧稚は、福建省厦門(あもい)の出身である。厦門は、元々明朝の遺臣である鄭成功の本拠地であり、清に征服されてからは東南アジアや台湾との貿易港となった。アヘン戦争が勃発すると、英国軍は1841年に厦門を占領し、翌年の南京条約によって厦門を対外的に開港させた。1860年代からは茶の積出港となり、英国租界などが設置され、外国の商館が立ち並ぶ国際色豊かな都市となっていった。

 1901年、林巧稚は厦門の教師の家庭に三女として生まれた。誕生日が12月23日とクリスマス・イブの前日であり、彼女の誕生をクリスチャンであった父親は神からのクリスマス・プレゼントと考えたという。林巧稚が5歳の時に母親は子宮頸がんで亡くなり、これが林巧稚の将来に大きな影響を与えている。

教育

 林巧稚は、教育熱心であった父親から英語の初歩を学ぶと共に、外国人のための幼稚園に通ったこともあって小さいときから英語に慣れ親しんだ。林巧稚は地元の小学校を卒業し、1913年、12歳でやはり地元の女子師範学校に入学した。1914年には、父親の影響もあって受洗し、クリスチャンとなっている。1919年に師範学校を卒業して、同校の教員として留まった。

 この時期に中国での医学教育に大きな出来事があった。1917年、米国ロックフェラー財団の援助を受けて北京に北京協和医学院(Peking UnionMedical College)が設立され、1919年から8年制の医学校として学生の受け入れを開始した。林巧稚は同医学院が女性も受け入れると聞き、1921年7月に上海での同校入試を受験した。ところが試験当日は熱暑となり、一緒に受験した友人が暑さで卒倒してしまった。林巧稚は直ちに試験を中断し、他の受験生と共に卒倒した友人を涼しいところに運んで事無きを得たが、その処理に時間を取ってしまい、試験場に戻ったときには試験時間を過ぎてしまっていた。ただ、この一連の行動に付き添った試験官は、林巧稚の英語力と自己犠牲の精神に感動し、例外的に入学を許可した。

協和医院に勤務

 1929年に林巧稚は、最優秀の成績で協和医学院を卒業して医学博士号を取得し、同医学院の附属病院である協和医院の産婦人科の医師として勤務を開始した。

 勤務を始めて間もない頃、協和医院に重篤の妊婦が運ばれてきた。妊婦は、子宮破裂で血が止まらない状態であり、当時助手的な担当に過ぎなかった林巧稚は直ちに主任にその旨を告げたが、主任は別の手術を行っていたため林巧稚に自身で手術を行うように命じ、彼女はこの手術を無事に成功させた。この件により、林巧稚は助手的な立場から一人前の医師として病院内で認められることとなった。

 その後、1932年に英国に赴きロンドンとマンチェスターの病院で研修を受け、翌1933年にはオーストリアのウィーンの病院で訪問医として勤務している。さらに1939年には米国に渡りシカゴ大学医学部で胎盤に関する研究を行った。1940年に帰国後、林巧稚は協和医院の産婦人科の主任となった。

日本軍の協和医院占領

 1941年に第二次世界大戦が始まると、米国と日本が交戦状態になり、日中戦争時米国管轄として治外法権であった協和医院は日本軍に占領されてしまった。勤め先を失うこととなった林巧稚は、市内胡同で個人診療所を開設した。この個人診療所を続けると共に、やはり北京市内にある中和医院(現在の北京大学附属人民医院)の産婦人科主任を務めている。

 日本が敗戦となり北京が解放されると協和医院の再建が開始され、1948年には林巧稚は再び同院の産婦人科に復帰している。

新中国建国後と文化大革命

 新中国建国後も林巧稚は産婦人科の主任として協和医院に留まり、多くの出産に立ち会うと共に、婦人病の研究に没頭した。1959年に林巧稚は、国務院の組織で協和医学院と一体で運用されている中国医学科学院の副院長に任命されている。

 1966年、文化大革命が開始されると、林巧稚は「重点改造対象」、「反動学術権威」といったレッテルを張られ、迫害の対象となった。引き続き協和医院に留まったものの、医者として扱われず、便器や痰壺の清掃などの業務を強要された。林巧稚は、淡々とその業務をいい加減にすること無く遂行していたが、周恩来首相らの働きかけもあって1969年には、そのような迫害から解放され、通常の産科医としての勤務に戻っている。

 文革終了後も協和医院で働き続けたが、1978年に代表団を率いて西欧諸国を視察の際、英国で虚血性脳血管病と診断され、途中で帰国している。しかしその後も出産の立ち会いと婦人病の研究は続け、1983年に81歳で長い間勤務した協和医院で亡くなっている。

傑出した医学的な成果

 林巧稚は、医学的に優れた成果をいくつも挙げている。まず挙げるべきは、多くの臨床経験であろう。26歳で協和医院に勤務し、日本軍が協和医院を占拠した際には個人医院を直ちに立ち上げ、協和医院が日本軍の占領から回復すると直ぐに戻り、81歳で死去するまで一貫して現場の医師として働き続けている。死の床にあって昏睡状態に陥った際にも、分娩に使用する鉗子を求めて、「早く、早く、鉗子を下さい」とうわごとを言ったという。彼女は、生涯約5万人の赤ん坊の出産をケアしたと言われており、その意味で畏敬を込めて「中国人の母」と呼ばれている。

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中国人の母 林巧稚(出典:中華人民共和国国家衛生健康委員会HP)

 婦人病の研究における学問的な成果も重要である。母の命を奪った子宮頸がんについて、1958年に林巧稚は北京地区の調査担当となり、数万人の調査を行って1960年に医学雑誌に報告を載せている。そして、この調査結果を分析することにより子宮頸がんの誘発原因を特定し、発症率と死亡率を大幅に低下させている。そのほか、新生児の溶血症、女性の骨盤空洞などの研究で成果を挙げている。

いくつもの「最初の中国人女性」

 林巧稚は、中国の女性初という称号をいくつか有している。最初は、医学を学んだ協和医学院の卒業の際のもので、最優秀の卒業生に対する「文海奨学金」を授与されている。そして、その協和医院で初めての独り立ちした女性医師となり、産婦人科の初めての主任となっている。

 最も名誉とすべきは、中国科学院の学部委員就任であろう。学部委員は現在の中国科学院院士であり、1955年に199名の委員でスタートしたが、その4年後に林巧稚は初めての女性学部委員として任命されている。

参考資料

  • ・丁万斌『科学巨匠:林巧稚』河北教育出版社 2001年
  • ・張清平『林巧稚』百花文芸出版社 2005年
  • ・張清平『林巧稚伝』団結出版社 2017年