林幸秀の中国科学技術群像
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【21-04】【近代編4】詹天佑~中国鉄道の父

2021年02月08日

林 幸秀

林 幸秀(はやし ゆきひで)
公益財団法人ライフサイエンス振興財団 理事長兼上席研究フェロー 国際科学技術アナリスト

<学歴>

昭和48年03月 東京大学大学院工学系研究科原子力工学専攻修士課程卒業
昭和52年12月 米国イリノイ大学大学院工業工学専攻修士課程卒業

<略歴>

昭和48年04月 科学技術庁入庁
平成15年01月 文部科学省 科学技術・学術政策局長
平成16年01月 内閣府 政策統括官(科学技術政策担当)
平成18年01月 文部科学省 文部科学審議官
平成20年07月 文部科学省退官 文部科学省顧問
平成20年10月 独立行政法人 宇宙航空研究開発機構 副理事長
平成22年09月 独立行政法人 科学技術振興機構 
            研究開発戦略センター上席フェロー(海外ユニット担当)
平成29年06月 公益財団法人 ライフサイエンス振興財団理事長(現職)
平成31年04月 同財団 上席研究フェロー(兼務)
令和 2年09月 国立研究開発法人 科学技術振興機構
            中国総合研究・さくらサイエンスセンター特任フェロー(兼務)

はじめに

 今回は、清朝末期に米国に留学し帰国後中国の鉄道建設に尽力して「中国鉄道の父」と呼ばれた詹天佑(せんてんゆう)を紹介する。

生い立ち

 詹天佑は、清朝末期の1861年に広東省南海(現在広州市)に生まれた。父親は、代筆をしたり、印鑑を彫ったりして生計を立てていた。小さい頃から近くの私塾に通って勉学に励んだ。

幼童留美政策の実施

 詹天佑が生まれた時期は、アヘン戦争での敗北(1842年)、太平天国の乱(1851年~1864年)、アロー戦争での敗北(1860年)などにより、大帝国清が衰退期に入っていた時期である。1861年に即位した同治帝は、この状況を立て直すために曾国藩などの有能な漢人官僚を登用し、西洋の技術を取り入れて国力の増強を目指す『洋務運動』を展開した。この洋務運動の一環で、曾国藩の支持を得て容閎(ようこう)らが実施したのが、「幼童留美」と呼ばれる留学生派遣政策である。「幼童」とは10歳から16歳までの少年をここでは指しており、「留美」とは美国(=米国)への留学を指している。

 曾国藩や容閎については、将来このコーナーで触れたい。

幼童留美政策でイェール大学へ

 詹天佑は、幼童留美政策の第一回留学生選抜試験に合格し、11歳となった1872年に他の同輩30名と共に米国に渡った。米国に到着後1873年には、コネチカット州ウェストヘーブン小学校に入学し、同校校長であったL・Hノースロップ家にホームステイした。その後、ヒルハウス高校を全校第二位の好成績で卒業し、1878年にイェール大学シェフィールド理工学院土木工学科に入学して鉄道工学を専攻した。イェール大学入学後も数学などで優れた成績を収めた後、1881年に卒業した。卒業論文のテーマは「埠頭のクレーン研究」であった。

 詹天佑は、卒業後もイェール大学での研究続行を望んだが、母国の清政府が留学生の早期撤退を命じたため、やむなく帰国した。この時点で米国の大学を卒業していたのは、後に外交官となった欧陽庚と詹天佑の2名だけであった。

中国鉄路公司に就職

 1881年に帰国後は、福建省の福州船政局で軍艦操縦の実習などを行った後、同船政局に付置されていた福州船政学堂の後学堂で英語を教えた。さらに1884年には、広東省広州市に設置された広東博学館(後に広東水陸師学堂と改名)に移り、やはり英語を教えた。

 1888年、27歳となった詹天佑は知人の紹介で李鴻章らが天津に設立した中国鉄路公司に職を得、英国人技師のクロード・ウィリアム・キンダー(Claude W. Kinder)の下で、見習い技術者として鉄道技術を学んだ。キンダーは、ロシアのサンクトペテルブルクで鉄道工学を学び、1873年に後述する父親がいた日本に渡り、政府の工部省鉄道寮のお雇い外国人技術者となった。ところが1878年に西南戦争が起こったため、キンダーは中国の上海に渡り、その後中国鉄路公司で技術者となった。

 キンダーの父親のトーマス・ウィリアム・キンダー(Thomas William Kinder:当時はキンデルとも呼んでいた)は、明治時代の1871年に大阪の造幣局が出来た際、トップの造幣首長に任命されている。父キンダーは大英帝国の元少佐であり、香港造幣局長も務め日本の造幣局の基盤を築いた人物ではあるが、気位が高くかつ激しい気性の持ち主であったため明治政府の井上馨らと折り合いが良くなく、1875年には造幣首長を退任している。

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詹天佑(出典:国家図書館所蔵『京張路工撮影』上巻 宣統二年(1910年))

津楡鉄路、津盧鉄路などの工事を担う

 詹天佑は、唐山から天津に至る唐津鉄路の建設に携わり、その時の仕事ぶりから上司のキンダーに認められ、ほどなく正規の技術者に昇任した。1890年、中国鉄路公司は天津から山海関に至る津楡(しんゆ)鉄路を建設した。津楡鉄路では灤河(らんが:河北省と内モンゴル自治区に流域がまたがり、渤海へと流入する大河)に橋梁を架ける必要があったが、灤河に杭を打つ作業が難航して、英国人技師らの努力もむなしく鉄道建設工事が進まなかった。そこで、詹天佑が橋梁建設工事の責任者となり、中国人作業員だけで気圧潜函法を用いて橋脚を作り、最終的に1894年に橋梁を架けることに成功した。全長640メートルに及ぶ鋼鉄製の橋梁で、当時の中国最長のものであった。同年この功績により詹天佑は、英国土木技術師学会の会員に中国人として初めて推挙されている。

 中国における鉄道建設の第一人者となった詹天佑は、その後津盧(しんろ)鉄路や欽州鉄路などの建設を担った。1902年詹天佑は、時の実力者袁世凱が西太后のご機嫌を取るために建設を進めた新易鉄路建設の主任技師に選ばれ、わずか37キロメートルの短い区間ではあるものの、中国人だけで4か月という短期間と低コストで見事に完成させた。

京張鉄路の建設

 続いて1905年に北京から張家口に至る京張鉄路建設の主任技師を任された。この鉄路の敷設予定地は戦略的な要衝であり、中国の植民地支配拡大を狙う英国、ロシアなどが敷設権を得ようとして、予備調査を繰り返していた。しかし、同鉄路の途中にある燕山山脈には非常に険しい峰が多くあり、その峰の一部は花崗岩や玄武岩で構成されており、当時一般的に使用していた「発破工法」をとることが難しいとして工事不可能という調査結果が出ていた。このため清側の責任者であった袁世凱は、外国の資金を使用せず、外国人を使わないことを決定し、京張鉄路全部を中国人だけにより建設することとした。

 京張鉄路は全長約220キロメートルで、燕山山脈の険しい峰峰を超えるには多くのトンネルや橋梁を建設する必要があり、工事もかなり複雑になることが予想されていた。当時、一部の外国人は、中国人自らこの路線を建造する能力があるか疑問を呈していた。主任技師となった詹天佑は、この建設工事は中国人技術者の名声と栄誉に関わると考え、自ら測量を行い3本の計画路線を選定し、さらにその中で建設費用の最も安い路線を建設対象とした。

 京張鉄路には4つのトンネルが設置され、中でも八達嶺トンネルは長さが1,092メートルであり、詹天佑はこの難工事を立杭工法を用いて掘削した。その他、八達嶺の断崖絶壁にはスイッチバックが設置され、地形の問題も解決された。京張鉄路は、4年の歳月をかけ1909年に無事完成している。予定の工事期間を2年間も短縮し、建設費用も節約することができた。京張鉄路の建設の成功は、中国の近代工事史の重要な業績であった。

鉄道工事規格の制定など

 詹天佑は京張鉄路の建設期間中、各種の鉄道工事規格を改定し、全国において採用するよう政府に対して意見書を提出した。中国が現在でも使用している軌間1,435ミリメートルの標準軌の採用、米国人鉄道技師のイーライ・ジャニー(Eli Hamilton Janney)が1873年に発明した自動連結器の導入などは、詹天佑が提議したものである。

 そのほか、詹天佑は鉄道人材の訓練育成に力を入れ、技術師昇進規定を制定し、工事者に対する評定や要求を明文化して規定した。また、技術師の報酬と評定成績は連動すると明らかに定めた。京張鉄路は多くの中国技術師を訓練育成し、詹天佑が制定した評定規定は他の中国鉄道の規範となった。

辛亥革命以降

 京張鉄路の建設後、詹天佑は宣統帝から工科進士を賜り、留学生主任試験官などの職に就いた。辛亥革命の後、1913年に交通部技監に任命され、1916年には香港大学から栄誉法学博士の学位を与えられる。1919年にはウラジオストクとハルビンで開催される遠東鉄路会議の中国代表に任命されたが、病を得て住居のある湖北省漢口(現在の武漢市の一部)に戻り、同年4月に没している。享年59歳であった。

 詹天佑は「中国鉄道の父」と言われ、中国土木工学界の最高賞である「中国土木工程詹天佑賞」にその名が残されている。

参考資料

  • ・管成学 趙驥民 『中国鉄路之父:詹天佑的故事』吉林出版集団 2012年