林幸秀の中国科学技術群像
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【21-08】【現代編5】李政道~中国系初のノーベル賞受賞研究者

2021年04月09日

林 幸秀

林 幸秀(はやし ゆきひで)
国際科学技術アナリスト ライフサイエンス振興財団理事長

<学歴>

昭和48年3月 東京大学大学院工学系研究科原子力工学専攻修士課程卒業
昭和52年12月 米国イリノイ大学大学院工業工学専攻修士課程卒業

<略歴>

平成15年1月 文部科学省 科学技術・学術政策局長
平成18年1月 文部科学省 文部科学審議官
平成22年9月 独立行政法人科学技術振興機構 研究開発戦略センター 上席フェロー(海外ユニット担当)
平成29年6月 公益財団法人ライフサイエンス振興財団 理事長(現職)

はじめに

 近代編の第3回目 に中華人民共和国初のノーベル賞受賞者として中国中医科学院の屠呦呦(とようよう)を取り上げたが、今回は中国系初のノーベル賞受賞者である李政道を取り上げる。李政道は、次回取り上げる予定である楊振寧(ようしんねい)と共に、1957年にノーベル物理学賞を受賞している。ノーベル賞受賞はすでに60年以上も前であるが、二人とも高齢ではあるが存命であり、また現在も科学技術振興の活動を行っているので、現代編で取り上げたい。

生い立ちと国内での教育

 李政道は1926年に、上海の知識人の家庭に生まれた。父親は江蘇省南京にあった米国キリスト教団が設立した金陵大学農学部の第一期の卒業生で、祖父は長年にわたり江蘇省蘇州の教会の牧師・教区長を務めており東呉大学の設立者の一人だった。

 李政道が生まれた15年前の1911年に辛亥革命が起き、清朝が滅亡したが、その後各地の軍閥による内乱状態が続き、ようやく政治的に安定したのは1928年の蒋介石による南京国民政府樹立以降であった。しかし、その後日本の侵略が徐々に激しくなり、李政道が11歳となった1937年には盧溝橋事件が発生し、日中間で全面戦争状態になった。

 李政道は、蘇州の小学校を卒業した後、戦火を逃れて江西省のキリスト教系の中学校(日本の高等学校も含む)に入学したが、1943年に日本軍の侵略により同校の授業継続が困難となり、中退を余儀なくされた。同年、中学校卒業と同等の学力を有すると認定された李政道は、日本軍の侵略を受けて貴州省に疎開していた浙江大学の物理学科に入学した。李政道は、この浙江大学で、ドイツ・ベルリン大学で博士号を取得しその後両弾一星の技術開発で活躍する王淦昌の指導を受けている。1944年には、北京大学や清華大学などが戦火を逃れて雲南省昆明に合同で設置した西南連合大学に移り、呉大猷(ごたいゆう)に師事した。呉大猷は中国近代物理学の基礎を築いた一人であり、米国ミネソタ大学で博士号を取得し北京大学教授となったが、その後日中戦争の戦火を逃れて西南連合大学に移っていたのである。

米国に留学

 1945年に日本が敗戦となり、西南連合大学が解散となる中で、李政道は西南連合大学をまだ卒業してなかった。恩師の呉大猷は李政道を米国への留学生として推薦し、李政道は1946年にシカゴ大学に留学してエンリコ・フェルミに師事した。フェルミはイタリア出身の物理学者であり、1938年に中性子の研究でノーベル物理学賞を受賞し米国に移住していた。李政道は、1950年にシカゴ大学から博士号を取得し、ポスドク研究などの後、1953年にニューヨークのコロンビア大学の准教授となった。1956年には29歳の若さで同校の教授に就任している。

ノーベル物理学賞を受賞

 1956年に李政道は、西南連合大学の先輩でシカゴ大学でフェルミ門下の同僚であった楊振寧とともに、素粒子間の弱い相互作用においてはパリティ(対称性)が保存されないとの理論を提唱し、「フィジカル・レビュー」誌に発表した。この理論は、やはり中国系でコロンビア大学の先輩女性物理学者である呉健雄が主導した実験チームにより実証された。この功績により、李政道と楊振寧の2人は、翌1957年のノーベル物理学賞を共同受賞した。両名とも、1949年の新中国建国以前に米国に渡っており、ノーベル賞受賞時は中華民国の国籍だった。従って中華人民共和国とは関係はなく、さらに李政道は1962年に米国籍を取得している。

新中国との科学技術交流

 しかし、1972年にニクソン米国大統領が訪中し米中間の様々な分野での交流が再開したことに伴って、李政道は新中国を度々訪問して毛沢東や周恩来らの首脳とも会見し、米中間の科学技術交流の促進に尽力してきた。文化大革命が終了すると米中間の科学技術交流も加速し、李政道にさらに活躍の機会が与えられることになった。

 代表的な例が、「中米渡米物理専攻大学院生共同募集(CUSPEA)」事業である。1979年9月、李政道は文革終了後に復活した最高指導者・鄧小平宛に書簡を発出し、「多数の研究者を海外で学ばせるだけでなく、大学院生を米国へ留学させるのはどうか」と提起した。鄧小平は翌10月に返信し、「李政道教授の意見は正しい。方毅中国科学院院長に関連部門を召集させて討議したい」と述べた。翌1980年5月、国務院教育部と中国科学院は合同で、「学生を推薦して渡米させ物理専攻大学院で教育させることに関する通知」を発表し、物理学を学ぶ大学院生を国内で募集し、米国の有名大学で博士課程を履修させることとなった。これが、CUSPEA事業である。1980年に米国の61か所の大学がCUSPEAに参加し、1981年には64か所に拡大した。このプロジェクトは1988年まで実施され、計918名の物理専攻大学院生が米国で学んだ。

 さらに李政道は、長年連れ添った妻・秦恵莙(しんけいくん)が1996年に肺がんで死去した際、同夫人を記念して翌1997年に30万ドルの基金を設け、北京大学、上海交通大学、復旦大学、蘇州大学、蘭州大学、国立清華大学(台湾)の6大学の優秀な大学生に対して奨学金を与えることとした。

 こういった功績に対して、1985年、北京大学より名誉博士号を授与されている。また、中国科学院が1994年に初めて外国籍院士を選定した際、李政道は楊振寧と共に同院院士に選定された。

 2006年からは、北京大学に設置されている高エネルギー物理研究センターの主任となっている。

日本との関係

 李政道は日本とも関係が深い。理化学研究所から北京に派遣されていた寺岡伸章氏の記事が本サイエンスポータルチャイナに納められている。この中での湯川秀樹博士と李政道のエピソードが興味深い。湯川秀樹博士は、第二次大戦後の1948年に請われて米国に渡り、プリンストン高等研究所に入所した。翌1949年にコロンビア大学に移ったところでノーベル物理学賞受賞の報に接している。その後、日本に帰国して京都大学の教授に復帰するが、コロンビア大学で湯川博士が使用していた部屋を引き継いだのが、李政道であった。湯川博士が使用していた机、椅子、黒板等はそのまま李政道が使用することになる。東洋の物理学の巨人2人はコロンビア大学の同じ執務室で繋がっていたのである。

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李政道博士から野依良治博士に渡された湯川秀樹博士使用の手ぬぐい

 また李政道は、1997年から理化学研究所ブルックヘブン研究所の初代所長も務めている。その前、所長就任確認のため理研から日本への出張を要請された李政道は、夫人の秦恵莙が当時病床にあったため、夫人の健康を心配し日本への出張をためらった。しかし夫人は、「いい話であるから是非とも日本に行きなさい」と励ましてくれたいう。残念ながら夫人は、日本出張直後の1996年に、帰らぬひととなった。夫人のこの一言がなければ、理化学研究所とブルックヘブン研究所との緊密な協力は実現しなかったであろう。2006年(平成18年)秋の叙勲で李政道は、「我が国研究者の指導育成及び日本・アメリカ合衆国間の学術交流の促進に寄与」により旭日重光章が授与されている。

参考資料