林幸秀の中国科学技術群像
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【21-16】【近代編11】蔡元培~北京大学の基礎を築く

2021年07月05日

林 幸秀

林 幸秀(はやし ゆきひで)
国際科学技術アナリスト ライフサイエンス振興財団理事長

<学歴>

昭和48年3月 東京大学大学院工学系研究科原子力工学専攻修士課程卒業
昭和52年12月 米国イリノイ大学大学院工業工学専攻修士課程卒業

<略歴>

平成15年1月 文部科学省 科学技術・学術政策局長
平成18年1月 文部科学省 文部科学審議官
平成22年9月 独立行政法人科学技術振興機構 研究開発戦略センター 上席フェロー(海外ユニット担当)
平成29年6月 公益財団法人ライフサイエンス振興財団 理事長(現職)

はじめに

 中国の高等教育の歴史は西欧に比較するとそれほど長くなく、清朝末期から国民政府時代に始まっている。しかし新中国となり、鄧小平の改革開放政策を経て中国の大学のレベルは格段に高まっており、中でも北京の北京大学や清華大学は世界のトップクラスに位置している。今回は、この北京大学の基礎を築いた蔡元培(さいげんばい)を取り上げる。

生い立ちと清朝政府への出仕

 蔡元培は、1868年に浙江省紹興で生まれた。4歳で私塾に入り勉学にいそしみ、1884年の16歳で科挙の院試に合格し「秀才」(国立学校の入学資格を有する者)となった。その後22歳で郷試に合格し「挙人」(会試受験資格を有する者)に、23歳で会試に合格し「貢士」と順調に予備試験に合格し、1894年、26歳の時に翰林院庶吉士となり清朝の官吏に任ぜられた。その後日清戦争の敗北を経て、1898年の光緒帝らによる戊戌の変法が失敗に終わったため、蔡元培は清朝の政治改革に絶望し、故郷の紹興に帰って中学校(日本の高校)の教員となった。

 その後は、武装蜂起により清朝の転覆を画策する革命活動に参加し、青島、日本、紹興、上海などを転々としたが、1907年40歳の時に当時の駐ドイツ公使の援助でベルリンを経由してライプツィヒ大学に行き、心理学、美学、哲学などの講義を聴講すると共に、『中国倫理学史』などの学術書を編纂した。

辛亥革命の成功

 1911年の辛亥革命の報を聞いた蔡元培は、4年間のドイツ滞在を終えてシベリア経由で帰国し、翌年1月に南京で設立された中華民国臨時政府の教育総長(教育大臣)に就任した。しかし、その後政治の実権が独裁的な袁世凱に移ったことから教育総長の職を辞し、1913年、今度はフランスに行って学術研究に従事し、多くの哲学書や美学書を編纂した。フランス滞在中には華法教育会(華は中国、法はフランス)を組織し、中国人の若者をフランスに呼び寄せ勤労しながら勉学する制度(勤工倹学運動)を提唱した。周恩来や鄧小平などはこの華法教育会の助けを通じてフランスに留学した。

北京大学学長に就任

 1916年、袁世凱が死去し黎元洪が後継者となったことから、亡命していた革命派の孫文らが帰国することになり、蔡元培も同年末に帰国し、北京大学の学長に就任した。写真は、同年12月26日に発出された北京大学校長(学長)の任命状(辞令)である。当時、中華民国大総統の地位にあった黎元洪から発出されている。

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北京大学の旧校舎(紅楼)にある蔡元培北京大学学長(校長)任命状(筆者撮影)

 蔡元培学長は、直ちに陳独秀、李大釗(りたいしょう)、胡適(こせき)らの著名文化人を北京大学の教授として招聘した。陳独秀と李大釗は中国共産党の基礎を築いた人物であり、胡適はノーベル文学賞にノミネートされたという文人である。さらに蔡元培は、その後も地質学者の李四光や日本に留学していた文学者魯迅を招くと共に、先進的な学者だけではなく清朝滅亡後も辮髪を押し通す学者なども等しく北京大学の教授として遇した。この様に蔡元培は、学術研究の発展と自由思想の校風の確立するため、大学内での思想の自由の原則を徹底させ、あらゆる学派を自由に競争させようとした。

五四運動

 第一次世界大戦終了後に開催されたパリ講和会議においてヴェルサイユ条約が決議され、山東半島のドイツが所有していた権益を日本が確保することとなった。1919年5月4日、ヴェルサイユ条約の内容とそれに対する政権の対応に強く反発した北京大学の学生は、当時紫禁城の裏手付近にあった北京大学講堂(紅楼)に集合した。そこから天安門広場に行き他の大学生らと合流し、天安門広場で抗議集会を開いた後、ヴェルサイユ条約反対や親日派要人の罷免などを要求し、数千人の規模でデモ行進をした。デモ隊はさらに親日派要人を襲撃して重傷を負わせたり、自宅に放火したりして、暴徒化した。これがいわゆる五四運動である。

 当時の政府は軍閥政権であり、北京大学の学生らを多数逮捕し事態の収拾に努めたが、学生側はゼネラル・ストライキを敢行し、亡国の危機と反帝国主義を訴えた。運動は全国的な反日・反帝運動に発展し、各地の学生もこれに呼応した。さらに、労働者によるストライキも全国的な広がりを見せ、同年6月10日には政府が逮捕した学生を釈放せざるをえなくなった。6月28日に中国政府は、ヴェルサイユ条約調印を最終的に拒否した。

 蔡元培を五四運動の黒幕とにらんだ政府は、学長の罷免や北京大学の廃校の検討を開始したため、蔡元培は大学と学生の安全を守るため自ら学長の辞任を表明した。しかしその後、学生や教職員の政府に対する強い働きかけで学長職を継続している。

 大学が抗日、反日の最初の大きな発火点となったことに、北京大学は強い誇りを持っている。現在の北京大学の創立記念日は5月4日である。これは、1949年に中国共産党が内戦に勝利して北京大学に進駐後、北京大学が五四運動で果たした役割に鑑み、同年5月4日に中国共産党北京大学指導委員会を設置したことに由来している。

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北京大学構内にある蔡元培像の前の筆者

中国初の女子大生の入学

 蔡元培は女性の権利拡張に関しても積極的であり、全国の大学の中で初めて女子学生を受け入れている。まず1920年2月に王蘭、奚湞、査暁園の3人の女子学生を北京大学の文系講義で傍聴させるよう命じ、その年の秋から正式に女子学生の募集を開始させた。

中央研究院院長に就任

 1923年、時の政府と再度衝突した蔡元培は、北京大学学長の辞職願いを提出しヨーロッパに渡るも、3年後には中国に帰国し、南京国民政府で大学院院長、司法部長、監察院長などの職についた。

 1927年11月、国民政府は、近代的な科学技術や学術研究の重要さを認識し、中華民国の最高研究機関として「中央研究院」を政府直属で設立することとし、傘下に物理、化学、工学、地質、天文、気象、歴史語言、国文学、考古学、心理学、教育、社会科学、動物、植物の14研究所を設置することを決定した。蔡元培は、この中央研究院の初代院長に就任し、同研究院の基礎固めを行った。設立直後には上海に物理研究所、化学研究所、工学研究所、地質研究所が、上海と南京に社会科学研究所が、南京に天文研究所と気象研究所が、広州の中山大学内に言語歴史研究所が、それぞれ設置された。この中央研究院は、北京で別途設置された北平研究院と共に、新中国建国後に中国科学院の基礎となっていった。

晩年

 1933年、蔡元培は国立中央博物院(現在の南京博物院)の創設を提唱し、自ら初代理事長となった。1937年、北京郊外において盧溝橋事件が起こり、日中戦争が勃発した。日中戦争は当初日本軍優位に進み、日本軍は上海、南京など多数の都市を占領し、国民政府の首都は南京から西部の重慶に移転された。このため、中央研究院も戦火を逃れて中国大陸の西にある昆明、桂林、重慶等へ疎開することとなり、蔡元培はその指揮を取った。

 日中戦争中の1940年3月、蔡元培は香港で死去している。享年72歳であった。

参考資料

  • 中目威博『北京大学元総長 蔡元培―憂国の教育家の生涯』里文出版,1998年
  • 蔡元培『愛国不忘読書、読書不忘愛国』中国文史出版社,2019年
  • 鄭連根『兼容並蓄長者風 蔡元培』斉魯書社,2013年