林幸秀の中国科学技術群像
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【21-21】【近代編15】秉志~中国の近代動物学の基礎を築く

2021年08月27日

林 幸秀

林 幸秀(はやし ゆきひで)
国際科学技術アナリスト ライフサイエンス振興財団理事長

<学歴>

昭和48年3月 東京大学大学院工学系研究科原子力工学専攻修士課程卒業
昭和52年12月 米国イリノイ大学大学院工業工学専攻修士課程卒業

<略歴>

平成15年1月 文部科学省 科学技術・学術政策局長
平成18年1月 文部科学省 文部科学審議官
平成22年9月 独立行政法人科学技術振興機構 研究開発戦略センター 上席フェロー(海外ユニット担当)
平成29年6月 公益財団法人ライフサイエンス振興財団 理事長(現職)

はじめに

 このコーナーではすでに中国の近代植物学を開拓した鐘観光 を紹介したが、今回は同時期に近代動物学の基礎を築いた秉志(へいし)を紹介したい。

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秉志

生い立ち

 秉志は清朝末期の1886年に、清朝を打ち立てた満州族の子として河南省開封に生まれた。開封はかつて宋の都が置かれたこともある歴史的な都市であり、父親は開封を防御する軍人であった。ちなみに清には、始祖ヌルハチが編成したと言われる「満州八旗(旗の色別に8つのグルーブがある)」という軍事組織があり、清の成立後全ての満州族はこの八旗のいずれかに属し、清朝全土に散らばって平時は農耕・狩猟に従事しつつ要地の警備や兵役にあたった。秉志はその末裔に当たる。

 幼いときから父より中国の古典の手ほどきを受けたが、父が亡くなったのち16歳となった1902年に、河南高等学堂に入学した。1904年には北京の京師大学堂(現在の北京大学)の予科に入学した。この頃、ダーウィンの進化論を読み、進化論は中国古来の迷信を打破し中国国民を富強に導くものだと考えたという。

庚款留学生で米国へ

 1908年、22歳で京師大学堂予科を卒業した秉志は、募集が開始されたばかりの庚款(こうかん)留学生制度に応募して合格し、翌1909年に第一回の留学生として米国に渡り、ニューヨーク州のコーネル大学農学部に入学した。専攻はハエを中心とした昆虫学であり、1913年に無事卒業し、理学学士号を取得した。その後も引き続き大学に残り研究を続けるとともに、留学生仲間と協力し科学者の結社「中国科学会」を組織して5名いる理事の一人となった。中国科学会は、史上初の中国語学術雑誌である「科学」を出版している。1918年には博士号(PhD)をコーネル大学から取得した。

 コーネル大学を卒業した秉志は、ペンシルバニア州フィラデルフィアにあるウィスター研究所に移り、HHドナルドソン博士の下でポスドク研究を行った。ドナルドソン博士の専門は動物神経学であり、秉志は主にマウスの神経細胞成長の研究を行った。

帰国し、南京大学などに奉職

 秉志は、34歳となった1920年にポスドク研究を終えて帰国し、翌1921年、南京高等師範学校(現在の南京大学)生物系の教授となった。その後、南京に設置された中国科学会の生物研究所や、北京に設置された北平研究院静生生物調査所の所長を兼務している。さらに、中国動物学会の設立にも貢献し、1934年に同学会が発足した際には初代会長を務めている。

 1937年に日中戦争が勃発し、研究拠点のあった南京も北京も日本軍に占領され、標本などは無残にも破壊されてしまう。大学や北平研究院などは大陸の西部に疎開したが、病気であった夫人を抱えた秉志は、終戦まで8年にわたって氏名と身分を隠して上海に潜み、復旦大学などで研究を続行した。

秉志の動物学への貢献

 秉志は水生動物分類学や化石の採集などから、大脳皮質の研究など幅広い分野で業績を残している。これらについていくつか取り上げる。

 まず水性動物分類学であるが、中国の海洋や沿岸の動物を採集・区分し、諸外国の標本との比較を進めることにより、中国の研究者に実験材料を提供し中国の漁業発展に貢献すると秉志は考えた。秉志は、1920年代から30年代初期にかけて、中国沿海と長江流域の水性動物に対する調査を実施し、大量の標本を収集したうえで、分布と分類に係わる研究を行い、1923年にその成果を「浙江沿海動物採集記」として発表し、水性動物資源を開発するための重要な基礎を打ち立てた。

 また秉志は、アワビ、サザエ、ウミウシ、ナメクジなどの腹足類軟体動物についても関心を示し、中国の沿海、華北、東北、西北、新疆などの地域で多くの軟体動物の標本を採集し、多くの新種を鑑定した。その成果としては、1932年に発表した「新疆腹足類軟体動物」がある。

 秉志は昆虫、軟体動物、魚類の化石を研究し、多くの新種を発見した。特に、中国の白亜紀の昆虫化石研究が、国際的に重要な地位を占めている。この研究成果は1928年に発表され、アジアの他の地域の昆虫化石との関係を分析し、比較的空白となっていた中生代昆虫の研究を充実させ、学術的に重要な貢献をしている。

 秉志は動物解剖でも高い技術を獲得し、カピバラやトラなど脊椎動物を解剖して組織学研究を行った。また、モルモット、ウサギ、マウスなどの哺乳動物の大脳皮質機能について実験を行い、大脳皮層運動区の位置付けと大脳皮質損傷後の影響を研究した。

 この様に秉志の研究は、対象が獣類、鳥類、爬虫類、両生類、魚類、昆虫などと幅広く、それを分類学、形態学、生理学、生物化学、生態学など多くの学問的手法を用いており、結果として中国の動物学の基礎を打ち立てるとともに多くの後進の育成を行った。

晩年

 日中戦争が中国側の勝利で終結した後、秉志は南京大学と復旦大学に復帰し、教鞭を執った。その後、1949年に中華人民共和国が建国され中国科学院が設置されると、63歳となっていた秉志は中国科学院附属の水生生物研究所と動物研究所で研究を続行するとともに、全国人民代表大会の代表などの国政にも参画している。1956年には、中国科学院学部委員(現中国科学院院士)に任命されている。

 この時期における秉志の功績は、研究者仲間と行った住血吸虫の撲滅と植生保護のための自然保護区の提案である。いずれも党中央や中央政府により取り上げられ、対応する政策実施につながっている。

 1965年秉志は、北京で死去した。享年78歳であった。

参考資料