【21-23】【近代編17】華羅庚~数々の苦難を乗り越え中国を代表する数学者へ
2021年09月14日
林 幸秀(はやし ゆきひで)
国際科学技術アナリスト ライフサイエンス振興財団理事長
<学歴>
昭和48年3月 東京大学大学院工学系研究科原子力工学専攻修士課程卒業
昭和52年12月 米国イリノイ大学大学院工業工学専攻修士課程卒業
<略歴>
平成15年1月 文部科学省 科学技術・学術政策局長
平成18年1月 文部科学省 文部科学審議官
平成22年9月 独立行政法人科学技術振興機構 研究開発戦略センター 上席フェロー(海外ユニット担当)
平成29年6月 公益財団法人ライフサイエンス振興財団 理事長(現職)
はじめに
今回は、貧しい家庭環境から高等教育を十分に受けられなかったが、周囲の好意と幸運に恵まれて著名な数学者となり、中国数学界に偉大な功績を残した華羅庚(からこう)を取り上げたい。彼は、日本に招聘され東大で学術講演中に心臓発作を起こし、東京で死去している。
華羅庚
生い立ち
華羅庚は、清朝が倒れた辛亥革命の前年である1910年に、江蘇省常州市で生まれた。常州市は、上海の西150キロメートル、江蘇省の省都南京と上海の中間に位置する。家業は小さな雑貨屋であった。
華羅庚は地元の中学校に通い、数学の先生にその才能を高く評価されている。1925年に中学校を卒業した後、上海に出て上海中華職業学校に入った。同校の授業料はそれほど高くなかったが、生活費や下宿代が高かったため同校を一年で中退し、実家に帰って家業の雑貨商を手伝った。
独学で数学を修得、病気で片足が不自由に
常州の実家に帰ったものの、数学への想いは棄てがたく、手元にあった書籍などを元に独学で数学を勉強した。1929年19歳となった時、華羅庚に不幸が訪れる。腸チフスにかかり半年間の闘病を余儀なくされたのである。最終的に回復したが、後遺症として左足に麻痺が残ってしまった。
病魔に襲われたものの数学の独学は続け、約5年間かけて通常の高等学校や大学で教わる数学の知識を身に付けている。そして1929年12月と1930年12月に、科学誌「科学」に数学に関する学術的な論文を発表した。
清華大学の熊慶来教授との出会い
「科学」に掲載された華羅庚の論文に興味を抱いたのが、北京の清華大学数学科の教授であった熊慶来(ゆうけいらい)である。熊慶来は、1893年生まれでベルギーやフランスに留学した新進気鋭の数学者であり、1926年から清華大学の数学科主任を務めていた。熊慶来は、華羅庚が独学で数学を修得し「科学」に優れた論文を書いたことに感動し、華羅庚を北京に呼び寄せて清華大学図書館の館員に雇用した。華羅庚は、その後も数学学習に専念し、英語、フランス語などを習得すると共に、さらに学術論文を発表していった。熊慶来は改めて華羅庚の数学的な才能を認め、中学卒の学歴しかない華羅庚を1933年に清華大学の助教に、1934年に講師に昇進させ、数学の研究に専念させた。
英国への留学
1935年、華羅庚にさらに転機が訪れる。米国マサチューセッツ工科大学教授でサイバネティクス(人工頭脳学)の創始者であるノーバート・ウィーナーが中国を訪問した際、華羅庚はウィーナーに会い、ウィーナーは彼の数学的才能を評価し、英国ケンブリッジ大学のゴッドフレイ・ハロルド・ハーディ教授の下で研究するよう推薦してくれた。翌1936年、華羅庚はウィーナーの推薦に従って英国に渡り、ハーディ教授の下で2年間を過ごした。その間に10数編の学術論文を発表している。
清華大学の正教授に
盧溝橋事件が起こり日中戦争が開始された1937年、華羅庚は中国に戻り清華大学の正教授となった。27歳と若く、学位を持たない正教授の誕生であった。北京が日本軍に占領されたため、清華大学は北京大学や天津の南開大学とともに西南連合大学を結成して雲南省の昆明に疎開し、華羅庚も苦難の末に同地へ移動して日本軍敗戦の1945年まで同地に留まった。この疎開期間にあっても華羅庚の研究意欲は衰えること無く、多くの学術書や研究論文を発表している。
第二次世界大戦が終了すると、華羅庚はソ連を経て米国に赴き、1946年にプリンストン高等研究所研究員となった。さらに1948年には、イリノイ大学に招聘されて正教授に就いた。
1949年に中華人民共和国が成立し、同国政府が在外の研究者科学者に帰国を呼びかけると、華羅庚は「科学には国境はないが、科学者には自らの祖国がある(科学没有国界,科学家是有自己的祖国的)」との考えを表明し、イリノイ大学の正教授を投げ打ち、1950年に清華大学の数学科主任として帰国した。
ゴールドバッハ予想の一つを解決した陳景潤を育成
1951年には中国数学会が結成され、華羅庚は初代会長に就任している。翌1952年には、中国科学院に創設された数学研究所の所長を兼務している。
この数学研究所所長時代の弟子の一人が、やはり著名な数学者である陳景潤(ちんけいじゅん)である。陳景潤は、1933年に福建省福州に生まれ、厦門大学を卒業後、1957年に華羅庚の招きに応じて中国科学院数学研究所研究員となった。陳景潤は華羅庚の下で実力を磨き、1973年にゴールドバッハ予想の一つである「十分大きな全ての偶数は、素数と高々二つの素数の積であるような数との和で表される」ことを世界で初めて証明した。
華羅庚は、1955年に中国科学院学部委員(現在の院士)に選定され、さらに1958年に科学技術大学の副学長となった。
晩年―東大での講演中に死去
1966年に文化大革命が勃発すると、華羅庚は反動的な知識人として革命派や四人組などから迫害されるが、周恩来らの助力により何とか生き長らえた。
文革が終了すると華羅庚は、1977年に中国科学院副院長として復権した。すでに67歳となっていたが、文革中に出版や発表できなかった書籍や論文を次々と公表している。この頃から、華羅庚は中国を代表する数学者として西側諸国を歴訪し、西側諸国と中国の科学技術交流の促進に尽力していった。ただ、文革中の1975年と文革後の1982年に心筋梗塞を発症しており、病を抱えての活動であった。
1986年6月、華羅庚は日本に招聘され、本郷の東京大学理学部数学科で「数学の理論とその応用」と題して講演を行ったが、その最終時に急性心筋梗塞を再度発症し、その日の夜に亡くなった。享年76歳であった。
参考資料
- 中国科学院HP「紀念華羅庚誕辰100周年---中国科学院」
- 朱自強「数学奇才華羅庚」吉林文史出版社,2009年