林幸秀の中国科学技術群像
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【21-29】【近代編22】茅以升~中国現代橋梁の父

2021年11月12日

林 幸秀

林 幸秀(はやし ゆきひで)
国際科学技術アナリスト ライフサイエンス振興財団理事長

<学歴>

昭和48年3月 東京大学大学院工学系研究科原子力工学専攻修士課程卒業
昭和52年12月 米国イリノイ大学大学院工業工学専攻修士課程卒業

<略歴>

平成15年1月 文部科学省 科学技術・学術政策局長
平成18年1月 文部科学省 文部科学審議官
平成22年9月 独立行政法人科学技術振興機構 研究開発戦略センター 上席フェロー(海外ユニット担当)
平成29年6月 公益財団法人ライフサイエンス振興財団 理事長(現職)

はじめに

 今回は、清末に生まれ、米国留学後に帰国して橋梁工学の基礎を築き、中国の現代橋梁の父と呼ばれる茅以升(ぼういしょう)を取り上げる。茅以升は、中国国内の著名な橋梁建設の指揮を執るとともに、人民大会堂の建設設計にも携わっている。

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茅以升

生い立ちと教育

 茅以升は、1896年に南京の約50キロメートル東に位置する江蘇省鎮江に生まれた。祖父の茅謙は地元鎮江の著名人であり、新聞事業に携わるとともに水利の専門家として「水利芻議(水利刍议)」という治水に関する書物を著している。

 茅以升は、生後まもなく家族とともに南京に移り、7歳の時に新たに設置された実験的な小学校である思益学堂に入学し、9歳の時には江南商業学堂に学んだ。

 茅以升が10歳の時、端午の節句に近所で行われたドラゴンボートによるレースを橋の上から見物していた大勢の人が、人の重みで橋が落下したことにより圧死したり溺死した事故があった。茅以升もこのレースを見に行くつもりであったが、当日お腹をこわして断念したため命拾いをした。この件は茅以升少年の心に深い傷跡を残し、将来技術者になって壊れない橋を作ろうと決心したという。

米国への留学

 その後1911年に河北省の唐山にある唐山路鉱学堂(現在の西南交通大学)に入学し、1916年に同校を卒業した茅以升は、清華学堂(現在の清華大学)が実施していた庚款(こうかん)留学生制度に合格した。

 翌1917年に茅以升は、米国ニューヨーク州にあるコーネル大学に留学し、橋梁工学を専攻し修士号を取得した。その後、ペンシルバニア州ピッツバーグにあるカーネギー工科大学(現カーネギーメロン大学)に移り、1921年に同大学から博士号を取得した。

銭塘江大橋の建設主任技師へ

 米国から帰国した茅以升は、母校の教授や学長などを歴任するが、38歳となった1934年に浙江省銭塘江橋工程処所長となり、銭塘江大橋建設の主任技師を任された。銭塘江は、浙江省を流れる河川で杭州湾に注いでいる。河口では潮流の関係で河水が海から激しく逆流し、大潮の時期には激浪になって川をさかのぼる海嘯(かいしょう)という特異な現象が発生することで古くから名高い。隋の時代に大運河が作られ、銭塘江は長江と結ばれた。銭塘江大橋は、杭州市内を流れる銭塘江を南北にまたぐ形で、上海-杭州-寧波をつなぐ交通の要に設置されている。

 この銭塘江大橋は、中国が初めて独自に設計し建築した近代的大橋であり、また初めての鉄道、公道両用の二層橋梁であった。茅以升は自ら設計にも携わり、1934年8月から建設を開始した。茅以升らの奮闘の甲斐あって建設は順調に進んだが、最終段階の時期となった1937年7月に北京の盧溝橋で日中が激突し、日中戦争が始まった。戦域は中国大陸海岸部全域に拡大し、同年8月には日本軍による杭州市内の空爆も行われたが、銭塘江大橋の建設は支障なく進められ、同年9月に完成した。

 ところが、上海での日中間の戦闘は激烈を極め、日本軍は上海の後背地に当たる杭州から上海に攻め込むため、同年11月杭州湾に上陸した。日本軍はその後、上海、蘇州、無錫などを占領し、12月17日には南京を占領した。杭州市内の完全占領が迫る中、新しく建設した銭塘江大橋が日本軍の手に落ち日本軍による中国侵略の兵站に利用されるのを恐れた茅以升ら関係者は12月23日、涙をのんで完成したこの大橋を爆破した。

 茅以升は、その後再び母校の学部長を務めたり、蒋介石政府の交通部橋梁担当主任を務めたりした後、1943年には中国橋梁公司の総経理(社長)となっている。

 一方銭塘江大橋については、1937年の爆破後も日本軍が修復して使用したり、国共内戦時に国民党軍が破壊したりしたが、新中国建国後に完全復興した。この工事に茅以升が関与したのは言うまでもない。

武漢長江大橋や人民大会堂建設への貢献

 新中国建国後の1950年には、鉄道部の鉄道技術研究所の所長となっている。

 1955年、茅以升が59歳となったときに、湖北省武漢市内を流れる長江に架ける橋の建設が計画され、茅以升はこの武漢長江大橋の技術顧問委員会の主任に任命された。この武漢長江大橋は、清の時代や中華民国の時代にも計画されたが、技術や費用の関係で実現していなかった。新中国となってから、最初の五カ年計画のプロジェクトに選定され、工事が開始されたのである。2年後の1957年に無事完成し、現在も使用されている。

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現在の武漢長江大橋

 また1959年に、新中国建国10周年を記念して企画された人民大会堂建設の際には、茅以升は周恩来首相の指名により設計業務を総括している。人民大会堂は、天安門広場の西側に位置する巨大な建物であり、全国人民代表大会などの議場として用いられるほか、外国使節・賓客の接受の場所としても使用されている。

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人民大会堂

晩年

 文革が始まると、70歳を超えていた茅以升にも迫害の手が伸び、「反動学術権威」という看板を胸にぶら下げさせられたり、庭の草むしりなどの懲罰的な労働を強いられたりしたが、周恩来らの助力により迫害対象から免れることが出来た。その後は、親しい友人と共に図書館に通い唐詩や宋詞などの古典を読みあさって、文学に出てくる橋の記述についての辞典作製などを行っている。

 文革終了後の1977年には、81歳という高齢にもかかわらず重慶石板坡長江大橋の設計主任を務めている。

 茅以升は、1989年北京において死去した。享年93歳であった。

参考資料

  • 銭冬生「茅以升:中国現代橋梁的奠基人」西南交通大学出版社,2006年
  • 博雅人物網HP「茅以升
  • 名人簡歴HP「茅以升