林幸秀の中国科学技術群像
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【21-31】【近代編24】丁穎~中国近代農学の父

2021年11月29日

林 幸秀

林 幸秀(はやし ゆきひで)
国際科学技術アナリスト ライフサイエンス振興財団理事長

<学歴>

昭和48年3月 東京大学大学院工学系研究科原子力工学専攻修士課程卒業
昭和52年12月 米国イリノイ大学大学院工業工学専攻修士課程卒業

<略歴>

平成15年1月 文部科学省 科学技術・学術政策局長
平成18年1月 文部科学省 文部科学審議官
平成22年9月 独立行政法人科学技術振興機構 研究開発戦略センター 上席フェロー(海外ユニット担当)
平成29年6月 公益財団法人ライフサイエンス振興財団 理事長(現職)

はじめに

 今回は、日本に留学し第五高等学校や東京帝国大学で学んだ後、帰国してイネの品種改良を進め、新中国建国後は中国農業科学院の初代院長として近代農学の基礎を築いた丁穎(ていえい)を取り上げる。

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丁穎像(華南農業大学)

生い立ち

 丁穎は、清朝末期の1888年に、広東省の西南部に位置する茂名の農家に生まれた。私塾や地元の学校に通った後、1910年に広州市の広東高等師範学校(現在の中山大学の一部)に入学し、博物学を専攻した。

日本への留学

 在学中に日本への公費留学試験に合格し、1912年に東京の旧制第一高等学校の特設予科(清朝政府留学生受入れのために設置されたクラス)に留学して日本語を学んだ。1914年には、熊本にあった旧制第五高等学校に入学した。

 同高校卒業直前の1919年、第一次世界大戦後のベルサイユ条約の結果に不満を抱いた北京大学などの学生が五・四運動を展開し、日本でもそれを支援する中国人留学生等によるデモが発生した。この東京でのデモを日本の官憲が強権的に弾圧したことに怒りを覚えた丁穎は、直ちに帰国し故郷で教師に就いた。しかし、帰国した中国の混乱を目の当たりにした丁穎は、学問をより深めることで国を救いたいと考え、2年後の1921年に再び日本に留学し、東京帝国大学の農学部に入学した。

 その後は同大学で稲作の研究に没頭し、1924年に学士号を取得した。最初に日本の地を踏んでから12年の月日が経過し、年齢も36歳となっていた。

帰国後教職に就く

 帰国した丁穎は、広東公立農業専門学校(現在の中山大学の一部)の教員となり、さらに1927年からは自らの給与の一部も補填して故郷の茂名などに稲作育種場を設置し、優れたイネの品種育成や栽培技術向上を目指した。

日本軍の侵攻により西部に移転

 1937年の盧溝橋事件により日中戦争が始まり、翌1938年には広東省にも日本軍の侵攻が開始された。このため、丁穎が勤務する中山大学は大陸西部の雲南省に疎開を余儀なくされたが、丁穎は自らの育種場で品種改良し育てたイネやサツマイモの種や苗を決死の思いで疎開先の雲南省まで運んでいる。

新中国建国後に初代農業科学院院長に就任

 第二次世界大戦で日本が敗戦となり、中山大学は広東省広州に戻って、丁穎は同大学の農学院院長(農学部長)となって教育と研究を続行した。新中国建国後の1952年に、中国全土で大学再編(院系調整)政策が実施され、中山大学農学院は他の農学院などと合併して華南農業学院(現在の華南農業大学)となり、丁穎は初代の院長(学長)となった。

 1957年に、国務院農業部(現在の農業農村部)の傘下に中国農業科学院が北京に設立されるが、丁穎はその初代院長を務めている。副院長には小麦の品種改良で有名な金善宝が就任している。

 中国農業科学院は中国の農学の総本山であり、農業と農業科学の発展戦略研究、農業経済建設における重要な科学技術問題の解決、基礎的な研究などを主要な任務とし、中国の農業近代化に貢献している。現在、直属の研究所は作物科学研究所、農産物加工研究所、動物科学獣医学研究所、土壌肥料研究所、生物技術研究所など34組織に上り、職員は約1万人(うち研究者5,000人)である。なお中国には農林水産関係の研究機関として、この中国農業科学院とは別に中国水産科学研究院、中国熱帯農業科学院、中国林業科学研究院という組織がある。

中国の稲作改良への貢献

 歴代の中国の王朝では、民の食糧確保が統治の正当性を示す重要な要素であり、食糧確保のための農業技術の改革改良は国の大きな課題であった。新中国建国後も状況は変わらず、政府の「四つの近代化」政策には工業、国防、科学技術と並んで農業が含まれており、この四つの近代化は国家の大方針として現憲法に明示されている。

 丁穎はこのような国家の大きな要請を受け、中国の稲作の起源と発展、稲作の区域区分、イネの品種系統の育成、及び栽培技術などを、40年にわたって系統的に研究した。

 丁穎は、中国大陸の各地方の気候と栽培されている稲を調査し、温度は稲作の分布を決める最も主要な生態指標であると分析した。そして、稲作が行われている地方全体を6つの地域に分け、その地域に適したイネの品種や栽培方法を研究している。また、雨の少ない地域など劣悪な環境に抗して生育する野生のイネを元に、品種改良を施すことにより60以上の優良品種を育成した。

 このように丁穎は、中国の近代稲作科学の基礎を打ち立てた科学者である。

清廉で質素な人柄

 丁穎はまた、清廉で質素な人柄だったことで知られている。政府の役人が農業政策についてのアドバイスを求めて丁穎の自宅を訪問したところ、余りにも質素な家屋であったため公費での資金援助を申し出たが丁穎に断然拒否されたとか、子供達が食事の際にご飯粒をこぼすことを厳しくとがめたといったエピソードが伝えられている。

晩年

 1963年、75歳となった丁穎は、自らチームを率いて河北、山西、内モンゴル、寧夏、甘粛、新疆、陝西などの現地調査を行っている。その後1964年に、病を得て北京で亡くなっている。亡くなるまで中国農業科学院の院長を務めており、現役農学者を全うした生涯であった。

参考資料