林幸秀の中国科学技術群像
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【21-35】【近代編27】童第周~世界初の魚類クローン作製

2021年12月24日

林 幸秀

林 幸秀(はやし ゆきひで)
国際科学技術アナリスト ライフサイエンス振興財団理事長

<学歴>

昭和48年3月 東京大学大学院工学系研究科原子力工学専攻修士課程卒業
昭和52年12月 米国イリノイ大学大学院工業工学専攻修士課程卒業

<略歴>

平成15年1月 文部科学省 科学技術・学術政策局長
平成18年1月 文部科学省 文部科学審議官
平成22年9月 独立行政法人科学技術振興機構 研究開発戦略センター 上席フェロー(海外ユニット担当)
平成29年6月 公益財団法人ライフサイエンス振興財団 理事長(現職)

はじめに

 今回は、世界初の魚類クローンを作製して中国のクローン技術の基礎を築き、クローン技術の先駆けと呼ばれる童第周を取り上げる。童第周の貢献もあり、中国では現在でもクローン技術で世界トップレベルを誇っている。

生い立ちと教育

 童第周は、清朝末期の1902年に浙江省の現在の寧波(ニンポー)市に生まれた。生家は貧しい農家で、早くに父親を亡くし兄に育てられている。

 1922年に地元寧波の中学校を優秀な成績で卒業し、上海にあった聖ヨハネ大学への入学資格を得るも、家計を支えていた兄の急死を受けて一旦実家に帰っている。しかし学問への想いを棄てがたく、童第周は翌1923年に上海の復旦大学に入学した。1927年に同大学哲学系心理学科を卒業し、地方の役所や南京の国立中央大学に勤務した。

欧州への留学

 1930年、友人の援助を受けた童第周は、汽車に乗って旧満州やシベリアを経由してベルギーに到達し、ブリュッセル自由大学に入学した。

 留学の直前に、童第周は同郷の女性、葉毓芬(よういくふん)と結婚している。葉毓芬は1906年生まれで、童第周の4歳年下である。地元寧波の中学校の恩師の紹介で二人は知り合い、結婚したとき葉毓芬は復旦大学の生物学科の学生であった。童第周の留学中に、妻の葉毓芬は南京の国立中央大学に移り同大学を卒業した後、恩師の紹介で同大学助教となり、夫の留学費用を支えている。

 留学した童第周は、ブリュッセル自由大学の生物系実験室で、カエルの卵子やホヤを用いた発生学の研究に没頭した。奨学金を得ることが出来なかったため、大学と屋根裏部屋の下宿を行き来するのみで、食事は白湯と干からびたパンが中心という極めて貧しい留学生活を送った。このような苦労を重ね、1934年に博士号を取得した童第周は、英国ケンブリッジ大学を短期間訪問の後、中国に帰国した。

山東大学教授に就任

 帰国した童第周は、当時山東省青島(チンタオ)にあった国立山東大学の生物系教授に就任した。妻の葉毓芬も南京から青島に移り、夫童第周とともに生物学の研究を行った。

 これ以降童第周夫妻は、日中戦争の時期を除いた人生のほとんどを青島で過ごしているので、簡単に青島を紹介したい。青島は、ドイツが日清戦争(1894年~1895年)後にモデル的な植民地として街並みを整えた都市である。日清戦争後、ドイツはロシア、フランスとともに三国干渉を行い、清朝に恩を売った。1897年に宣教師が山東で殺された事件を口実に、ドイツ軍は青島市が面する膠州湾に上陸し、翌1898年には膠州湾を99年間の租借地とし、ドイツ東洋艦隊の母港となる軍港を建設した。ドイツは青島の街並み、街路樹、上下水道などを整えた。第一次世界大戦でドイツが敗北したためドイツの権益は消滅したが、現在でも西洋風の街並みが残り、ドイツ人が持ち込んだ醸造技術を元にした青島ビールは中国のメジャービールブランドである。

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写真は、筆者が数年前に青島を訪問した際に撮影した聖ミヒャエル大聖堂であり、1934年にドイツ人ゲオルク・ヴェイク(Georg Weig)によって建設された。

日中戦争勃発で疎開

 1937年に盧溝橋事件が起きて日中戦争が始まり、青島にも日本軍が侵略してきたため、山東大学は安徽省を経て四川省に疎開し、童第周もまた家族とともに移動している。四川省に疎開したのち、山東大学は政府の命により解散し、学生や教師は南京から疎開してきた国立中央大学に引き継がれたが、日本の敗戦に伴い日本軍が青島から撤退し、1946年には山東大学も復活して青島に戻った。もちろん、童第周も青島に移動している。1948年に童第周は、米国ロックフェラー財団の招きにより渡米しイェール大学で研究活動を行った後、翌1949年に山東大学に戻っている。

新中国建国後に中国科学院へ

 新中国建国後の1950年、童第周は中国科学院水生生物研究所青島海洋生物研究室主任となった。以降、童第周は一貫して青島の研究部隊を指導し、青島海洋生物研究室が1959年に中国科学院海洋研究所に改組された際には初代所長に就任し、亡くなる直前の1978年まで約20年間勤めている。また1957年から1962年までは中国科学院動物研究所の所長も兼務している。その間、1955年には中国科学院学部委員(現院士)に当選した。

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青島・海洋研究所内の童第周像

世界初の魚類クローンの生成

 童第周は1963年、世界で初めて魚類のクローン作製に成功するという画期的な成果を挙げた。

 クローンとは、分子・DNA・細胞・生体などのコピーである。もとは植物の小枝の集まりを意味するギリシア語に由来する。植物については、古くから挿し木などのクローン技術が農業、園芸で利用されているが、動物では胚や体細胞から取り出したDNAを含む細胞核を未受精卵に移植する「核移植」によってクローンを作製している。人工的な動物個体のクローンは、1891年にウニの胚分割により初めて作製された。1952年にガエルのクローンが作られた。

 これらの成果を踏まえ童第周は、1963年に、オスのアジア鯉のDNAを抽出し、メスのアジア鯉の卵に移植して、世界初の魚類のクローン作製に成功したのである。さらに文革期間中の1973年には、オスのアジア鯉のDNAをメスのヨーロッパ鯉の卵に移植し、初めての生物種間をまたがるクローンも作製している。

 ちなみにクローン作製で世界を驚かせたのは、1996年のクローン羊「ドリー」誕生である。英国のロスリン研究所は、ヒツジの乳腺細胞核を胚細胞に移植してクローン羊を誕生させたのである。これは哺乳類で初めてクローンを作製したという点で注目を集めた。現在は、ネコ、ウマ、ウシ、ヤギ、ウサギ、ブタ、マウス、ラクダなど多くの哺乳動物で、クローン作製の成功例が報告されている。

文化大革命と晩年

 1966年に文化大革命が開始されると、童第周夫妻は「反動学術権威」として批判の対象となるが、周恩来らの庇護により青島で研究を続行することが出来た。ただ文革末期の1976年3月に葉毓芬は心臓病により亡くなっている。妻として家庭を、研究者として共に活動した生涯であった。

 文革終了後の1978年、童第周は長年勤務した海洋研究所所長を辞め、北京の中国科学院本部に移り副院長に就任した。しかし、翌1979年3月に参加した浙江省杭州の集会で倒れ、同月北京で病没した。

その後の中国でのクローン研究の進展

 童第周の死後も中国のクローン研究の成果はめざましいものがあり、最近では2018年に、中国科学院神経科学研究所の孫強研究チームが世界初のクローンサル「中中」と「華華」を誕生させている。さらに中国は、この成果を元に遺伝子編集技術によるサルの作製も進めている。

参考資料