【22-03】【近代編29】湯飛凡~細菌学者でトラコーマ治療に貢献
2022年02月16日
林 幸秀(はやし ゆきひで)
国際科学技術アナリスト ライフサイエンス振興財団理事長
<学歴>
昭和48年3月 東京大学大学院工学系研究科原子力工学専攻修士課程卒業
昭和52年12月 米国イリノイ大学大学院工業工学専攻修士課程卒業
<略歴>
平成15年1月 文部科学省 科学技術・学術政策局長
平成18年1月 文部科学省 文部科学審議官
平成22年9月 独立行政法人科学技術振興機構 研究開発戦略センター 上席フェロー(海外ユニット担当)
平成29年6月 公益財団法人ライフサイエンス振興財団 理事長(現職)
はじめに
今回は、国民政府時代から新中国初期に活躍した細菌学者の湯飛凡を取り上げる。湯飛凡は、眼の病であるトラコーマ治療でも画期的な成果を挙げたが、文革前の反右派闘争で批判され、自ら命を絶っている。
生い立ち
湯飛凡は、1897年に湖南省の省都である長沙市の南東約50キロメートルに位置する醴陵(れいりょう)で生まれた。幼年の湯飛凡が見たものは、清朝末期の人々の悲惨な生活であった。当時は干ばつによる飢饉が続き、農民は飢えに苦しんで糠や草を食べるという悲惨な生活を送り、湯飛凡の身近な親戚や隣人も病で苦しんでいた。そして欧米人が中国を「東亜の病人」と酷評していることを知り、科学の力で中国を救うことを決意した。
湯飛凡は、12歳で長沙市にある城南小学堂に入り、さらにやはり長沙市にあった湖南省甲種工業学校で勉学を続けた。
新設の湘雅医学専門学校に入学
基礎教育を終えた湯飛凡は、17歳となった1914年に長沙市に新設された湘雅医学専門学校に入学した。
湘雅医学専門学校は、極めて初期に開設された西洋医学を学ぶ高等教育機関である。この学校の設立には、1882年に上海に生まれた顔福慶という医師・医学教育家が深く関与している。顔福慶は1906年に米国のイェール大学に留学し、1909年に医学博士号を取得した後帰国して長沙市内の雅礼医院に外科医として勤務した。母国の医学教育の実情を憂えた顔福慶は、湖南省政府と母校イェール大学に強く働きかけ、1914年に両者の協力により湘雅医学専門学校の設立に成功して、初代の学長となっている。
未熟な英語能力にもかかわらず見事合格
米国のイェール大学が湘雅医学専門学校の設立に深く関与していたため、同校の入学試験に合格するためには英語の能力が必須であった。しかし、長沙をほとんど出たことのない湯飛凡は全く英語に触れたことがなかったため、試験当日にその旨を伝え入学後の再試験を求めたところ、試験官はその正直さに打たれ他の科目の成績の良さを確認して合格させた。
ちなみに、この初めての入学生に、やはりその後中国医学界を牽引した張孝騫がいる。張孝騫も別途このコーナーで取り上げたい。
協和医学院やハーバード大学で細菌学の研究に打ち込む
湯飛凡は、約7年の間この医学専門学校で医学と英語を学び、1921年24歳で医学博士号を取得した。細菌学に興味を持ちドイツのコッホやフランスのパスツールに憧れた湯飛凡は、北京の協和医学院に移り細菌学を研究した。協和医学院も米国のロックフェラー財団の協力により設立された西洋医学を教える高等教育機関である。
さらに湯飛凡は、28歳となった1925年に奨学金を得て米国に赴き、ハーバード大学医学部で細菌学を学んだ。
帰国し、研究や臨床に没頭
1929年に湯飛凡は帰国し、上海にあった中央大学医学部の副教授となった。その後、中央大学医学部は上海医科大学(現復旦大学上海医学院)となり、湯飛凡はその教授となった。湯飛凡は細菌学の他、臨床的な研究としてトラコーマ、おたふく風邪、インフルエンザ、流行性髄膜炎などの研究を行い、20編以上の論文を発表した。
1937年に日中戦争が勃発し落ち着いて研究が出来なくなった湯飛凡は、戦争の前線近くで負傷兵士の治療や防疫の業務に当たったが、日本軍の侵攻に押されて国民政府が重慶に移転すると自らも雲南省の昆明に移動し、そこで中央防疫処処長としてワクチン、血清、生物製剤などの研究と生産を行った。1943年には、臨床用ペニシリンと発疹チフス・ワクチンを中国で初めて生産している。
1949年に新中国が建国されると、湯飛凡は新政府で衛生部生物製品研究所所長に就任し、ペスト、黄熱病、天然痘などの防疫の任に当たった。
トラコーマ原因菌の発見
1954年以降、湯飛凡はトラコーマの治療法研究に取り組んだ。当時の中国では、人口の半分がこのトラコーマを患っているとされた。トラコーマは、クラミジア・トラコマチスという細菌を病原体とする感染症であり、軽傷の場合は充血などで済んで治癒することもあるが、慢性化し重傷化すると角膜潰瘍を引き起こし失明することもある。湯飛凡は、トラコーマの原因となるクラミジアを発見するとともに治療のための抗生物質も特定し、1956年に論文として発表した。このクラミジアは、トラコーマだけではなく、オウム熱、鼠径リンパ肉芽腫などの原因菌であり、これらの病気の治療法の開発に大きく貢献したとして、世界の医学界から賞嘆された。
反右派闘争の中で自殺
この時期に中国の社会で大きな政治的な動きがあった。中国の指導者毛沢東は1956年4月に「百花斉放百家争鳴」の方針を打ち出し、さらに翌年5月に共産党中央は「整風運動に関する指示」を決定し、共産党や政府に意見を述べ党の整風を助けるよう求めた。これらの呼びかけで知識人を中心に共産党と政府に対する不満や提案が出されるようになったが、次第に過激化した。危機感を抱いた共産党中央は、少数の右派分子が共産党の整風を助ける名目で共産党と労働者階級の指導権に挑戦していると批判し、1957年10月に「右派分子を決める基準」という通知を出し、批判派の弾圧を開始した。
湯飛凡はこの反右派闘争に巻き込まれ、耐えがたい侮辱を受ける。資産階級の反動的学術権威、国民党反動派残党、米国スパイ、国際スパイなどと罵倒され、部下の女性技術者と不倫関係にあるとの陰湿な中傷もなされ、これらが原因で1958年9月に首を吊って自殺した。61歳であった。
その後湯飛凡の妻が夫の名誉回復を求めて活動し、約20年後で文化大革命の終了後の1979年に国務院衛生部が湯飛凡の汚名をすすいだ。1992年には、後述する張孝騫らと共に中国の著名な科学者として切手の図案に採用された。