【22-06】【近代編31】鄧小平~現在の科学技術躍進の基礎を築く
2022年03月15日
林 幸秀(はやし ゆきひで)
国際科学技術アナリスト ライフサイエンス振興財団理事長
<学歴>
昭和48年3月 東京大学大学院工学系研究科原子力工学専攻修士課程卒業
昭和52年12月 米国イリノイ大学大学院工業工学専攻修士課程卒業
<略歴>
平成15年1月 文部科学省 科学技術・学術政策局長
平成18年1月 文部科学省 文部科学審議官
平成22年9月 独立行政法人科学技術振興機構 研究開発戦略センター 上席フェロー(海外ユニット担当)
平成29年6月 公益財団法人ライフサイエンス振興財団 理事長(現職)
はじめに
今回は、中国近代史の偉人の一人である鄧小平を取り上げる。鄧小平は、新中国建国に貢献し、建国後は苦難の道を歩みながらも現在の経済発展の礎を築いた政治家であるが、科学技術・高等教育発展にも大きな貢献を残している。
生い立ちと教育
鄧小平は、清朝末期の1904年、四川省の東部に位置する広安の地主の家庭に生まれた。1920年、16歳となった鄧小平は、フランスに留学した。当初学校に通うも半年で学校を辞め、職を転々と変えた後、ルノーの自動車工場で勤務した。フランス滞在中に中国共産党に入党し、周恩来らと活動をともにした。フランス政府に危険分子と見なされたため、1926年にパリを離れ、ベルリン経由でモスクワに渡り、モスクワ中山大学などで共産主義を学んだ。
抗日戦争と国共内戦を戦う
1927年にモスクワから帰国した鄧小平は、中国共産党紅七軍(後の人民解放軍)を率いてゲリラ活動を開始した。その後毛沢東による長征にも参加し、1937年に日中戦争が勃発すると、華北で抗日ゲリラ戦を戦った。太平洋戦争で日本が敗れ、日本軍が中国大陸から撤退すると国共内戦が始まったが、鄧小平は人民解放軍を率いて淮海戦役・長江渡河作戦などで大きな戦果を収め、国共内戦で共産党が勝利し中華人民共和国が成立した後も、地方にいて共産党の解放地域の復興に努めた。
文化大革命での苦悩
1952年、鄧小平は新中国の政務院副総理に就任し、周恩来総理を補佐した。1958年に始まった大躍進政策が失敗し、経済的に中国社会が疲弊したため、毛沢東が政務の第一線を退き、鄧小平は劉少奇とともに経済の立て直しに従事した。
毛沢東は、鄧小平らの政策を「革命の否定」と捉え、1966年に文化大革命を発動した。鄧小平は劉少奇に次ぐ走資派との批判を受け、1968年には全役職を追われ、さらに翌年に江西省南昌に追放されてトラクター工場や農場での労働に従事した。林彪失脚後、周恩来の働きかけが功を奏し、1973年に鄧小平は国務院副総理として復活し経済の立て直しに着手した。しかし、1976年1月に周恩来が死去すると、四人組を中心とした革命派が鄧小平批判を強め、同年4月に第一次天安門事件が発生すると鄧小平はこのデモの首謀者とされて再び失脚した。同年9月に毛沢東が死去すると、後継者の華国鋒を支持して1977年に復活を果たした。その後、華国鋒との路線闘争を経て、1978年の中国共産党第11期3中全会で政治的なイニシアティブを確立させた。
改革開放政策の推進
最高指導者となった鄧小平は、1978年に日本、翌年に米国を訪問して、中国が経済や科学技術で後れを取っていることを痛感し、経済特区の設置や外資導入など改革開放政策に大きく舵を切った。1984年には、「一国二制度」構想のもと英国の植民地・香港の返還に関する合意文書にサッチャー英国首相とともに調印した。
一方、鄧小平は政治体制の改革には厳しい態度を貫き、1987年に改革推進派の胡耀邦を失脚させた。さらに1989年に発生した第二次天安門事件では人民解放軍による武力弾圧に踏み切り、学生運動に理解を示した趙紫陽を失脚させた。その後、経済の改革開放路線を巡って党内保守派と路線闘争が起きるが、鄧小平は1992年の春節に深圳や上海などを視察し、南巡講話を発表し、路線対立を収束して改革開放路線を推進するのに決定的な役割を果たした。
鄧小平は、1992年の南巡講和後に完全に政界から引退し、香港返還を見ることなく1997年に亡くなった。享年92歳であった。遺灰は親族によって中国の領海に散布された。
(出典)百度
文革時代の負の遺産からの脱却
鄧小平による、科学技術・高等教育に対する大きな貢献をここで紹介したい。
文革中に復活した鄧小平は、疲弊した経済体制を再建するため人民解放軍の整理に着手し、続いて整理対象を科学技術や教育に拡げていった。鄧小平は、側近であった胡耀邦を中国科学院に送り込み、同院への指導を強化した。しかし、四人組を中心とした革命派に妨害され、実を結ばなかった。
四人組逮捕直後の1976年12月に、「四人組に反対して迫害を受けた全ての人々の名誉の一律回復」が通達された。再復活した鄧小平のイニシアティブにより、中国科学院に併合されていた国家科学技術委員会は分離独立して業務を再開し、中国科学院では地方に移管された研究機関が再び戻り、また数多くの新しい科学研究機関が設立された。また、文革中にほとんど活動を停止していた大学などの平常業務への復帰が急ピッチで進んだ。文革中に失脚状態にあった郭沫若中国科学院院長は、鄧小平の科学技術・高等教育再興へのイニシアティブを「科学の春(科学的春天)」と歓迎した。
高考の再開
鄧小平の高等教育への貢献として特筆すべきは、「全国普通高等学校招生入学考試(通称は高考)」の再開であろう。
文革開始後の1966年に高考は停止され、新規の学生が入学して来なくなり高等教育は麻痺状態になった。その後、労働者や農民を推薦により選抜し、1971年から新入生の登録を再開したが、学生の質に大きなばらつきが出て十分な教育効果を達成できなかった。1977年に鄧小平は、中国科学院、中国農業科学院、北京大学、清華大学などの学者を招集して人民大会堂で開かれた科学教育研究座談会の終了に際して、中断されていた高考を速やかに復活させることを宣言した。
1977年冬に高考の再開され、約570万人が受験したが、合格者は約28万人と極めて狭き門であった。さらに特例的に翌1978年の夏にも高考が行われ、やはり約610万人が受験し、合格者は約40万人であった。10年のブランクがあったため受験者の年齢の幅が大きく、16歳から30歳以上の若者が受験したという。大学の入学試験制度の回復により、中国の人材育成は健全な軌道に戻った。
四つの近代化の実現
鄧小平による科学技術への最大の貢献は、周恩来が度々提唱してきた「四つの近代化」路線を実現したことである。復活した鄧小平は、自ら進んで科学技術と教育を担当し、全国科学大会の開催を指示した。1978年3月、全国から7,300名の科学技術関係者が参加して北京で全国科学大会が開催された。この大会の開幕にあたり、鄧小平が演説した。その概要は次の通り。
〇農業、工業、国防、科学技術の四つの近代化を実現し、我が国を近代的強国とすることは、我が国人民の歴史的使命である。科学技術の水準を向上させず生産力を発達させないと、外国の侵略に対処し共産主義の理想に向かって前進することができない。
〇四つの近代化の根本は、科学技術の近代化である。近代的な科学技術がなければ、農業、工業、国防を近代的に建設することができない。科学技術の高度な発展なくしては、国民経済の高度成長はありえない。
〇現在世界では、科学技術分野で急激な変化が発生し、科学技術は生産力として大きな役割を果たしている。特に、コンピュータ、制御システム、自動化技術の発展によって、生産性が大幅に向上している。
〇科学技術人材の育成は、教育が基礎である。優れた人材を発見し、選抜し、育成しなければならない。大量の優秀な人材があってこそ、中華民族の科学文化レベルの向上に繋がる。
四つの近代化は、その後1982年に制定された新憲法(82憲法)で国家の大目標として条文化された。具体的には、82憲法の序言に以下の通り記述されている。
「中国の各民族と人民は、マルクス・レーニン主義と毛沢東思想の指導の下で、人民民主独裁を堅持し、社会主義の道を堅持し、社会主義の諸制度を絶えず充実させ、社会主義民主を発展させ、社会主義法制度を健全化し、自力更生を健全化し、刻苦奮闘し、工業、農業、国防、科学技術を近代化して、我が国を高度に文明的で高度に民主的な社会主義国家として建設する。」
82憲法は、その後数度にわたり修正されているが、この四つの近代化の記述は変更されていない。
数々の科学技術推進の制度制定
これらのイニシアティブ以外にも、鄧小平は科学技術・高等教育振興のために数々の方策を実施している。以下に主なものを挙げる。
一つ目は西側諸国への留学生派遣である。鄧小平は、「あらゆる民族と国家は、他の民族と国家の長所やその先進科学技術を勉強すべきである」として、1960年から20年近く停止していた中国の留学生派遣の再開した。多くの有為な学生や研究者が、米国、欧州、日本などに留学生として派遣された。
二つ目は学位条例の制定である。中国においては、清朝末期の19世紀後半から各地に高等教育機関が設置されていたが、学位はごく一部の修士と学士が中心で、博士の授与はなかった。文革終了後に鄧小平は、欧米的な学位制度の確立を強く訴え、学位条例を1981年に施行させた。同条例では、高等教育機関が「学士」「修士」「博士」を、中国科学院などの研究開発機関が「修士」「博士」を授与できるとしている。
三つ目は科学技術プロジェクトへの重点配分や競争的な資金の導入である。文革前は、平等主義の徹底から国立の研究機関や大学では研究者数に応じて平等に研究費を配分することが中心であった。鄧小平は、国として重要なプロジェクトに重点配分するシステムや米国などの例に倣い意欲のある優れた研究者に研究費を重点配分していく制度を導入した。とりわけ、米国科学財団(NSF)を模して国務院内の組織として設立された国家自然科学基金委員会(NSFC)が重要である。
四つ目は地域科学技術の振興である。鄧小平は、地域の経済発展にも目を配り深圳などの地域を経済特区(1980年)、経済技術開発区(1984年)として発展を促したが、この政策を科学技術を用いて深化させるため、1988年に国家ハイテク産業開発区を導入している。北京の中関村はその一例である。この時代に始まった地域科学技術の振興は、現在においても地方科学技術庁や地方科学技術協会がその役割を担っており、それぞれの地方独自の活動を展開している。
参考資料
- エズラ・F・ヴォーゲル (著), 益尾知佐子、杉本孝 (訳) 「現代中国の父 鄧小平」 日本経済新聞出版、2013年
- 余玮「平民邓小平(中国改革开放总设计师)」人民日報出版社、2013年