【09-009】阿片戦争と林則徐
寺岡 伸章(中国総合研究センター フェロー) 2009年5月14日
中国史の近代は阿片戦争の勃発から始まる。近代史そのものが列強による半植民地化の過程とそれへの抵抗、そして新中国成立後の苦悩と発展の歴史である。輝かしい古代中国文明を誇る民族からすると、屈辱以外のなにものでもない。中国の苦悩の出発点となった阿片戦争を巡る英中間にいったい何が起こっていたのであろうか。今回はそれを考え直してみたい。
アヘン戦争が勃発する1840年以前の状況に歴史を遡ろう。
当時、清政府は朝貢体制の維持は当然のことと考えていた。つまり、対外貿易は平等互恵ではなく、中国が一方的に相手国に恩恵を与えるという考え方である。恩恵は従順に対する報酬であるので、外国が従順でなければ、清は一方的に貿易を停止してもよいと考えていた。しかし、清との貿易をほぼ独占していた英国はこのような不安定な関係では、膨大な額に膨れ上がっていた英中貿易を支えきれないと危惧していた。朝貢貿易を対等の通商関係に変えられないかと虎視眈々と狙っていたのである。
さらに、広東には両広総督、広東巡撫、海関監督などの政府高官が派遣されていたが、外国商人と直接接触することは許されていなかった。巡撫は一省の長官として民政を所管する皇帝直属の地位である。
そのため、外国商人と貿易できるのは行商という特別に許可を得た商人であり、彼らの組織を公行と称していた。外国の商人が中国政府と接触したいときは、公行に文書を提出し、公行はその監督機関である海関に取り次ぐことになっていた。取り次ぐかどうかは公行の判断であったため、外国の商人や政府から見ると、歯がゆい限りだった。また、英国軍艦の乗組員が中国人と格闘し、死傷させた事件が発生し、清国政府が犯人引渡しを要求したのは、公行を通じた英国東インド会社経由であった。英中間には政府間協定がなかったため、それぞれの国が民間組織を間に介する必要があった。英国の立場から言うと、このような煩わしく、不自由な通商の状況が阿片戦争の遠因となっていく。もちろん、英国の一方的な戦争開始がそれによって正当化されることは決してない。
有名であるが、当時の英中貿易状況を見てみよう。英国は上流階級が中国産の茶、陶磁器、絹を欲していたため、英国の大幅な輸入超過であった。また、英国は米国独立戦争の戦費調達や産業革命の資本蓄積で、銀の国外流出を抑制する政策をとっていた。そこで、英国が問題解決として注目したのが阿片である。英国植民地の印度で栽培した阿片を中国に密輸入し、銀の流出を相殺しようとしていた。英印中の三角貿易である。
清国政府は既に1796年、阿片輸入の禁止令を出していたが、密輸入は止まず、阿片吸引の悪弊が広まっていき、健康を害する者も増加し、風紀も乱れていった。1731年に200箱(一箱60キロ)だった阿片の輸入量は、半世紀後の1790年に4倍増の4,094箱、1830年には19,956箱に達した。阿片の密輸入の増加のため、英中の実際の貿易収支が逆転し、清国内の銀の保有量が激減し、銀の高騰を招いた。清政府は税金を銀貨で納付するよう要求していたため、農民は納める税金が数倍に跳ね上がっていた。
役人は阿片密輸を取り締まれなかった。収賄が横行していたためである。役人は商人が持ち込む阿片の数%を商人に届けさせる。役人は自分の取締りの業績として上部に報告し、残りの阿片の密売を黙認する、といった具合である。広東の役人は相当腐敗していたと考えられる。
このような事態を打開するために、まず許乃済が“弛禁論”を道光帝に上奏した。阿片を薬剤と見なして課税する。取引は物々交換とし、銀による決裁を認めない。さらに、中国国内にケシの栽培を認める、というものであった。阿片を貿易商品として認め、関税収入を期待するという考えである。阿片中毒患者は自業自得として切り捨てるという発想だ。
これに対して、黄爵滋が“厳禁論”を唱え、“弛禁論”の論拠を一つづつ論破していった。
「阿片流入を絶つためには、国内の吸飲者を根絶することが最大の課題である。1年間の猶予期間をおき、それでも阿片を吸う者は死刑とする」という厳しいものであった。
道光帝は、中央の高官や地方の総督、巡撫に対して、“厳禁論”への考えを述べるように要求した。皇帝はもっとも意にかなった者を欽差大臣に任命しようとしていたのである。欽差大臣は、特設の官職で、勅令によって特定の権限を与えられ、特定の事件を処理するために、臨時に派遣される大臣をいう。その問題については絶対的な権限を持つ。道光帝を最も感動させたのは林則徐の意見であった。
「もし、これ以上阿片問題を傍観すると、数十年後、国内に敵と戦う兵士がいなくなり、軍費に充てる銀もなくなる」
これは清王朝滅亡の予言であった。彼は湖北省と湖南省を監督する湖広総督として、その地方の阿片禁止の成果を挙げていたことも有利に働き、林則徐は欽差大臣に任命された。1838年11月15日のことである。林則徐は皇帝の信頼を得ているとはいえ、宮廷に政敵が多く、いつどのような理由で失脚するか分からない状況下で、阿片禁絶のため、蛮勇ふるう覚悟で広東に向かった。
林則徐は福建省出身で、科挙に受かって、27歳で進士となり、皇帝の面接を受けて合格し、皇帝の秘書室で書物の編纂や詔勅の起草に携わった。超エリートコースである。頭脳も人格も優れていた。
林則徐が広州に到着したのは、1839年1月25日のことだった。彼は到着前に阿片密輸関係者を逮捕するように要求している。大量逮捕の騒ぎで、阿片厳禁の雰囲気は濃くなっていた。林則徐は本気であるというメッセージを事前に出しておきたかったのであろう。
林則徐はさっそく公行を通じて、欽差大臣の名で外国商人に以下のように伝達した。
「阿片を全て提出すること。今後は永遠に阿片を持ち込まないこと。持ち込んだ者は死刑、阿片は全て没収するので、3日以内に阿片を持ち込まない旨の誓約書を提出すること」
約束の期限は3月21日までだったが、外国商人からの返事はなかった。欽差大臣林則徐の出方をうかがっていたのだ。英国商人は林則徐が本気だと悟ると、翌日22日、阿片1037箱を供出すると伝えてきた。誓約書のことには触れられていない。林則徐はこの申し出を一蹴した。自ら調べさせた結果、約2万箱はあると知っていたからである。
林則徐は次に阿片商人デントの逮捕状を出した。英国側はこれを拒否した。強硬路線主義者で知られる英国の貿易監督官のチャールズ・エリオットは、自国民の保護のために広州の外国人居住区に入ってきた。それを知った林則徐は、期限内に阿片供出と誓約書を提出しなかったのを理由に、外国船の封鎖、外国商人との売買の禁止、貨物の積み卸しの禁止などを命じた。強気の姿勢である。そして、林則徐は千人の官兵で外国人居住区を包囲したのだった。チャールズ・エリオットは水や食料のストックがなくなったために、2日で屈服した。チャールズ・エリオットは英国人が所有している阿片20,283箱を供出すると公行経由で通告してきた。
林則徐はこれらの阿片を虎門に集めさせた。正味の重量は1,425トンもあった。当初、林則徐は北京に持ち帰って処分したいと考えていたが、朝廷は現地で処分せよと命令してきた。彼は虎門の海岸に50メートル四方の人工池を2つ作らせた。人工池に水を引き大量の塩を投じ、箱から取り出した球状の阿片を切って池に投げ込ませた。それから焼石灰の塊を大量に投入すると、化学反応がおこって煙をあげて沸騰するようにみえた。しばしば使われる、阿片を焼却したという表現は、この様子を誤解したものである。そして、海に面した側の水門を開き、海に流した。阿片の処分は6月3日から6月25日までかかった。
筆者は阿片が処分された人工池を見るために、東莞市の虎門に行ってきた。虎門まで広州から高速バスで1時間30分かかった。人工池は林則徐記念公園を入るとすぐ左にあった。藻が生えた人工池では、小さな魚が泳いでいた。観光客は少ない。3月中旬であったが、日差しが強く、現地の人々は樹木の陰で昼寝をしている。のどかな風景である。人工池は当時、珠江の下流域に面してしたが、今は干拓が進み、平地に取り残されている。
林則徐記念公園には阿片戦争博物館があり、林則徐直筆の文書や阿片戦争の経緯が展示されているはずだが、閉鎖されていた。建物の名前を消されている。列強の植民地支配の発端となった阿片戦争の教育には余り熱心でないようにもみえる。
怒ったチャールズ・エリオットは抗議するために英国人を一斉に退去させた。関税の収入が減れば清朝も困るに違いないとの判断であった。しかし、清政府は税収をそれほどあてにしてなかった。広州に残った米国商人は清との貿易を独占し、巨額の利益を得た。米国商人は阿片を持ち込まないという誓約書を提出していたのだ。
チャールズ・エリオットは、清国は敵対行為を中止すべきであるという要望書を提出してきた。当然、清国から回答はない。誓約しない英国に非があることは明らかである。
チャールズ・エリオットは、誠意ある返答が得られなかったとして、突然戦艦から砲撃を行った。無茶苦茶である。戦闘は2時間続いた。11月3日のことであった。
清側の被害の方が大きかったが、林則徐は戦勝と北京に報告している。道光帝はびくびくするな、蛮勇を奮えと激励している。
巨利の商売種を失うと恐れた広州帰りの阿片商人は、軍隊の清国派遣を政治家に働きかけた。ウィリアム・メルボーンを首班とする自由党内閣が清国遠征を決定したのは、翌年1840年2月のことだった。議会で戦費の支出が認められたのは4月だった。賛成271票、反対262票という僅か9票の差であった。民主主義社会だから侵略戦争を起こさないという議論は成立しない。侵略戦争は今でも起こる可能性はある。
英国議会の反対派は、
「その原因がかくも不正な戦争、かくも永続的な不名誉となる戦争を、私はかつて知らないし、読んだことさえない」
と演説している。
現在でも、英国帝国戦争博物館にはこの阿片戦争の展示は一切ないし、博物館内のネットで阿片戦争を検索しても、何もヒットしない。英国民も忘れたいほど不名誉な戦争であったことは間違いがない。
パーマストン英国外相は、英国民の生命と財産の安全が脅かされているということを出兵の理由に挙げている。欺瞞である。印度の植民地維持と清の支配のために、武力を用いたのである。
英国艦隊は、英国民の生命と財産の安全が脅かされているのが広東であるにも関わらず、広東を素通りして北上し、杭州湾沖の周山列島を占領し、さらに北上して天津沖に現れた。朝廷は恐慌に陥り、林則徐欽差大臣を解任してしまった。愚かな決定といわざるをえまい。阿片撲滅のために蛮勇を奮えとさとした道光帝でさえ、英国艦隊を前にして動揺してしまったのだ。
後任の欽差大臣に任命されたのは、琦善だった。彼は相手のご機嫌をとるような姿勢で臨んだ。英国の最大の要求は香港の割譲であった。当時マカオはポルトガルに割譲されていなかったが、ポルトガルはマカオを植民地とみなし、総督を派遣していた。清国もマカオの長官を派遣し、両者はことを荒立てないようにやっていた。琦善は、香港を第二のマカオにできなかと考えていた。朝廷に対しては香港を英国に割譲していないと報告し、英国に対しては実質支配を認めるというやり方である。琦善は、暗に割譲を認めるという「暗割」で事態の打開を図ろうとしたが、英国は明文によるはっきりした割譲、つまり「明割」を要求してきた。広東での交渉の実情を知った道光帝は、琦善に交渉の打ち切りを命じた。そこで、英国側は全ての要求が拒否されたという理由で、武力行使に踏み切った。
そして、英国は有利な戦いを背景に、欽差大臣が口頭であろうが、香港の割譲を約束したのだから、割譲は既定であるとし、香港の領有を宣言した。
琦善欽差大臣は罷免され、北京に帰って裁判にかけられた。かろうじて処刑だけは免れた。清国にとってみると、無能な琦善が香港割譲の最大の責任者であろう。
その後、英国艦隊は中国各地を攻撃し、長江に侵入し、鎮江に達した。占領地では、英国兵士は、殺人、略奪、淫虐の限りを尽くした。恐怖政治を行い、清朝を屈服させようとしたのである。ついに、皇帝は屈服し、南京条約を締結させられることになる。これにより、英国は香港の割譲、没収された阿片の賠償を得たのみでなく、英国商人は清国の誰とでも自由に通商ができるようになった。別の言葉で言えば、中国植民地化の基礎が築かれたのである。その後、米国、仏国が相次いで中国と同様の通商条約を締結し、中国は西欧列強による半植民地化の道を歩むことになる。
中国の中学1年生の歴史教科書にはどのように記されているのであろうか。少し長くなるが翻訳し、引用してみたい。
林則徐は虎門で阿片を焼却した
18世紀の末期から、清の国力は衰退し、人民の反抗があちこちで起こった。その頃、英国は既に強大な資本主義国家に発展し、海外市場を開拓し、商品を売りつける必要があった。英国は東方の古い大国中国を狙った。英国の商人は毛や綿織物を中国に送り、売るつもりだが、なかなか捌け口がなく、かえって大量の銀を払って中国から茶とシルク製品を買った。こういう赤字の状況を変えるために、英国は卑劣な手段を取り、中国に阿片を密輸し、暴利を貪った。
阿片の大量輸入は中国に深刻な災難をもたらした。
阿片の密輸の増加につれて、阿片の危害は東南沿海一帯から内陸の十数省に拡大した。1835年の統計によると、全国に渡って阿片を吸う人数は200万に達した。
阿片の害によって、大量の銀が流出し、国庫の銀準備は不足になった。政治が益々腐敗し、軍隊の闘志も緩慢になった。大臣から庶民まで、多くの人は阿片中毒になった。社会の風習は堕落し、民衆の心身ともに踏みにじられた。「一本のキセルは多くの英雄豪傑を血見えずに殺した。一つの灯火は屋敷や土地を灰燼見えずに焼却した」。阿片が中国人民に犯した罪は数え切れない。
阿片の重大な危害に対して、湖広総督の林則徐は厳重な禁煙を主張した。彼は道光帝に上書し、阿片厳禁は一刻も猶予できないと非難した。放任すれば、数十年後「中原には戦う兵士がなくなり、俸給の銀もなくなる」と指摘した。間もなく、道光帝は林則徐を欽差大臣に任命し広東に派遣し、阿片の取締りに当たらせた。
1839年3月、林則徐は広州に着くと、すぐに阿片の取締りを果断に実行した。彼は外国商人たちに命令して買いだめしていた全ての阿片を提出させ、さらに今後、一切阿片を密輸しない旨の誓約書の提出を要求した。6月3日、彼は没収した約200万斤の阿片を虎門の海岸で焼却処分するよう命令した。
林則徐は部下に命じ、虎門の砂浜で長さ、幅それぞれ15丈の大きい池を掘らせた。焼却の時、まず海水を池に導入し、阿片を池に投げ、水に浸した後生石灰を池に投入するとすぐ沸騰水のようになった。阿片を溶解させるように鉄の鋤でよくかき混ぜ、引き潮になると、水門を開けて潮水とともに海に流した。阿片の焼却は20日以上も続いた。毎日、歓喜に満ちた人の群れは潮のように虎門に押し寄せた。
虎門の阿片焼却は国内外を震撼させ、中国人の侵略に抵抗する強い意志を見せつけ、中華民族の尊厳を守った。林則徐は民族の英雄の名に恥じない。
国境が開けられた
中国の阿片焼却のニュースがロンドンに伝わった後、英国政府はこれを口実にして侵略戦争を発動した。1840年6月、英国の艦隊は広東周辺の海域へ赴いて戦争を挑発したことで、阿片戦争が勃発した。広東沿海から侵入した英国の侵略者は中国軍隊や民衆の勇敢な抵抗にあった。広東水師提督の関天培、定海鎮総兵の葛雲飛、鄭国鴻、王錫朋が国のために戦死し、中華民族が侵略に抵抗した慷慨の悲しい歌を歌いあげた。
1841年の初め、虎門に危険が迫っていた。還暦の年を超えた水師提督関天培は国のために身を捧げる決意を固めた。彼は自分の落ちた歯、古い服、一つまみの髪を木箱に入れ、故郷に運ばせ、親戚との決別を示した。英国軍隊は虎門の砲台を激しく攻撃した。関天培は負傷し血染になったにもかかわらず、落ち着いて軍隊を指揮し、自分で大砲に点火して戦った。英国軍は上陸して砲台を包囲した。関天培は先頭に立って敵と取っ組み合いになって戦ったが、衆寡敵せず砲台を守っていた400人余りの中国人兵士は全員戦死した。
定海は美しい舟山群島にあり、自然の海防の重要地点で、中国を東から守った。定海の地理的位置は非常に重要なので、英国の侵略者はやっきになって長く定海を狙っていた。1840年7月、英軍は艦船20隻と4000人をもって舟山に大挙して侵入し、定海を占領した。舟山の人民が奮戦して抵抗し、陣地を固めて地上の物を敵に利用させないように取り除き、水源を汚したことで、英軍は新鮮な食物や衛生的な飲用水がなく、疫病が流行し、死亡人数が十分の一を超えた。1841年2月、家で喪に服した定海鎮総兵の葛雲飛は戦いに参加し、増援に来た処州鎮総兵の鄭国鴻、寿春鎮総兵の王錫朋と一緒に兵を率いて失地回復を勝ち取った。同年の秋、英軍は再び舟山を攻め、三人の総兵は英軍を迎撃した。喪服を着た葛雲飛は陣地の兵士の前で「ずっと城と一緒、定海に離れずに必死に戦う」と誓った。戦いは六日連続し、大砲から肉弾戦まで行い、最後に三人の総兵と兵士5800人は全員戦死した。今日、舟山阿片戦争遺跡公園に「三忠祠」があり、総兵三人の彫像が山の頂上に聳え立っている。三本の剣は空を刺し、祖国を守っている。
清はやむなく屈服して講和を求め、阿片戦争が終結した。1842年8月、南京水面の英国軍艦で、両国の代表は屈辱的な『南京条約』に調印した。主な内容は:香港の割譲、賠償金2100万元銀貨の支払い、広州、アモイ、福州、寧波、上海の五港の開港、英国商人の貿易貨物税の協議、つまり自由貿易の承認。これは中国近代歴史上の初めての不平等条約である。その後、中国の門戸が開かれ、主権や領土が完全に破壊され、中国は封建社会から一歩一歩半植民地・半封建の社会に変わった。阿片戦争は中国近代歴史のスタートであった。
英国の卑劣さと中国人民が如何に勇敢に戦ったかを感情を交えながら述べている。実際には敵前逃亡した将軍もいたが、そのような事実は触れられていない。それにしても、英国が一方的に始めた阿片戦争には一切正当性がないことは明らかである。
林則徐は広東在任中に、外国に関する法律、新聞、雑誌などを翻訳させて読んでおり、海外の状況を的確に把握していた。これらの資料はのちに友人の魏源に贈られ、魏源は大著『海国図志』を上梓した。「外国の特技に学んで外国を制する」というのが『海国図志』の主旨だった。つまり、西洋化への転換を促したのである。この書物は日本にも伝えられ、幕末の志士吉田松陰、橋本佐内、西郷隆盛などが熱心な読者となった。清国の惨状や海外の情勢を理解した志士は、明治維新へと突き進むのである。林則徐が日本の近代化に及ぼした影響は決して小さくはない。
林則徐は新疆イリに追放され、原野の開墾事業を援助している。その後、帰京を許され、各地の巡撫や総督で活躍する。病気が悪化し、1849年に一度辞職が受入れられるが、1950年に洪秀全の太平天国の乱が勃発すると、再び欽差大臣を命じられる。任地に赴く途中病死した。享年66であった。清国は最後までこの優秀な人材に頼らざるを得なかったのである。林則徐欽差大臣が解任されなければ、中国の近代史は大きく変わっていたと考える中国人は少なくない。
参考文献:
- 『中国の宰相・功臣18選』狩野直禎著(PHP文庫)
- 『中国の歴史』七 陳舜臣著(講談社文庫)
- 『阿片戦争』上中下 陳舜臣著(講談社文庫)
- 『歴史』(中国七年生)教科書