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【20-016】知ってましたか?こんな中国「ところ変われば」

2020年07月13日

瀬野 清美(せの きよみ)

1949年生まれ。75年外務省に入省してから北京、上海、広州、香港などで勤務、2012年に退職するまで通算25年間、中国に駐在した。現在、MarchingJ財団事務局長のほか、アジア・ユーラシア総合研究所客員研究員、日中協会理事なども務めている。共著に、『激動するアジアを往く』『108人のそれでも私たちが中国に住む理由』などがある。

 皆さんは、海外への初渡航は何歳のころだろうか。今年72歳になる私の大学時代の友人は外国語大学で英語を専攻していながら一度も日本から出たことがない。これほど海外旅行が身近になっても、島国ですべてに事足りる日本にいて、外国に行ったことのない人は意外と多いのかもしれない。翻って、私が初めて海外に出たのは1976年7月、27歳の時だった。それまで日本で当たり前のように日本語で会話する生活が、如何に当たり前ではないかがよくわかった。言葉のみならず文化や生活習慣が異なる生活環境に身を置くと、日常のあらゆる面で自国と比べることができる。こうした比べるものに出会う時期は、早ければ早いほど良いと思っている。

 私の初めての外国は香港だった。香港は国ではないという声が聞こえて来そうだ。当時は英国の植民地だったので、統治国としての国は英国であった。一流ホテルやブランドショップはイギリスそのもので、洗練された英語が飛び交っていたが、少し下町に行くとにぎやかな広東語の世界が広がっていた。9割以上の住民は広東省の出身者という香港は西洋と東洋が同居した、植民地ならではの不思議なエネルギーに溢れた街だった。

 私は香港の九龍サイドのダウンタウンにあった新亜書院という中文大学のキャンパスで中国語のサマーコースを受けながら、北京の語言学院への入学を待っていた。香港滞在中の7月28日、河北省唐山市で強い地震が発生し、天津や北京にも影響が及び、大使館員やその家族も屋外でテント暮らしをしているというニュースが入った。20万人を超える犠牲者の多さに香港の人々も我が事のように息を飲んだが、それに追い打ちをかけるかのように9月9日、毛沢東中国共産党中央主席の逝去が伝えられた。

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北京で出会った少女と。誰もが毛主席の逝去を悼む喪章をつけていた

 18日には天安門広場で追悼大会が行われ、国中が喪に服しているときに私は羅湖という国境の駅から深圳河にかかる鉄橋を徒歩で渡って夢にまで見た中国に入った。そこは自由な香港とは全く異なる、重苦しい緊張感が漲っていた。厳重な入境手続きを終えて、深圳駅のホームまで歩いた。入国管理の建物はもちろん、街の至るところに白地に黒で中国共産党のもとに団結するようにと呼びかけるスローガンや毛主席の逝去を悼む言葉が掲げられていた。深圳河を渡り切ったころから「国家」の存在がにわかに大きく感じるようになった。当時はまだ「文化大革命」が終息しておらず、毛沢東主席の他にも周恩来総理や朱徳全人代委員長といった国家の指導者が相次いで亡くなった年でもあったので、余計に強く感じたのかもしれない。深圳の駅は今のようにしっかりした駅舎があるわけではなく、どこからでも線路を横切ってホームに上がれるので、子供の遊び場のようになっていた。私たち留学生の一行がホームで列車を待っていると、どこからともなく10人近い子供たちが集まって来た。私たちと1メートルほどの距離を空けて、目を皿のようにして私たちの服装や持ち物を見ている。時たま目が合うと恥ずかしそうに微笑んだり友達の陰に隠れたりする。そのしぐさを面白がって子供たちから笑い声が起きる。外国と外国人の全てが珍しい時代であったのだ。あの時、駅で出会った10歳前後の子供たちは、今では50代半ばの働き盛りになっているであろう。当時の30万ほどの人口ののどかな田舎街が44年後の今では香港を追い抜き、上海、北京に次ぐ中国で第3位の経済規模を誇る人口1,300万の未来都市に変貌するとは、だれが想像し得たであろうか。

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深圳の入国管理事務所。毛主席を悼む横断幕が掛かっている

 私たちは深圳から列車で広州へ、広州から飛行機で真夜中に北京に到着した。うす暗い空港のターミナルビルからバスに乗って、街灯のない真っ暗な道を宿泊先のホテルに向かった。時間が遅かったせいか、北京の街も暗く、車がすれ違う時だけライトを照らし、時おり無灯火の自転車が家路を急いでいるのを見かけるくらいで、不夜城を思わせる現在の北京からは想像だにできないものだった。私たちは新僑飯店というホテルで数日過ごした後、北京語言学院の宿舎に移ることになった。ここで1カ月、オリエンテーションを兼ねた中国語の授業を受けた後、東北の遼寧大学に「分配」されることとなった。当時の留学先は本人の希望は入れてもらえず、教育部が統一的に「分配」していたのだ。遼寧大学に向かうのは私を含めて日本人4~5人、他に、イギリス、カナダ、フランス、イタリアなど欧米の留学生を含めて10名くらいであった。

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毛主席追悼大会の余韻が残る天安門広場。自転車がたくさん置かれていた

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北京の頤和園の入り口にも追悼の横断幕が

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北京友諠商店の入り口にも

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北京語言学院の正門で同期の留学生と。後ろに毛主席を悼む横断幕が見える。

 10月23日、遼寧へ移動する日の朝、宿舎の外には駅へ向かう大型バスが止まっていた。私は身の回りの衣類や本をカバンに詰めてバスに乗り込もうとしたら大学の指導教官が、血相を変えて怒っている。遼寧行きの列車が出るまであまり時間がないというのに君は布団やまくらはどうしたのだというのだ。私はびっくりして周りを見ると、他の留学生はちゃんと荷造りしてバスに積み込んでいる。どうやら私だけが今日の持ち物の説明を聞いていなかったようだ。皆さんを待たせながら、慌てて部屋に戻り敷き布団に掛け布団、シーツにまくら、洗面器と食器兼用の大きなコップ、魔法瓶などをまとめていると、列車に間に合わなくなるのを心配して手伝いに来た教官は「いいかい瀬野君、これは国家が君に貸与したものだ」「君が留学生でいる間、君がしっかりこれを管理し、最後は国家に返すのだ」という。ええ!私は「国家」の寝具で寝るのか。日本にいる時、国家とは空気のようなもので、意識することなどほとんどなかった。香港にいる時でも植民地であったせいか、国家を意識することはなかった。てっきり宿舎の備品とばかり思っていたベッドの寝具が国家のもので、移動の度に持ち運ぶものと知ったのは、私にとって大きな驚きだった。まさに「ところ変われば」であるが、中国での驚きはそれだけでは終わらなかった。ともかく、私の通算25年にわたる中国での生活はこうして始まった。何に驚いたかは次回のお楽しみに。

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瀋陽の中山広場。後ろの政治スローガンは、今は華夏銀行の看板に

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遼寧大学に学ぶ各国留学生と。前列左から3人目が筆者

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大学の正門で日本人留学生と。左が筆者。上には「工農兵学員」の入学を祝うバナーが

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3人一部屋のルームメイトと。左は英国、中央は人民解放軍の学生

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17年ぶりに家族で母校を訪問。妻も遼寧大学の日本人留学生だった


※本稿は『和華』第25号(2020年4月)より転載したものである。