【20-020】知ってましたか?こんな中国 「誤解が解けるとき」
2020年08月11日
瀬野 清水(せの きよみ):前日本駐中国重慶総領事
略歴
1949年生まれ。75年外務省に入省してから北京、上海、広州、重慶、香港などで勤務、2012 年に退職するまで通算25年間、中国に駐在した。現在、Marching J 財団事務局長のほか、アジア・ユーラシア総合研究所客員研究員、日中協会理事なども務めている。共著に『激動するアジアを往く』、『108 人のそれでも私たちが中国に住む理由』などがある。
日中間にはお互いに顔かたちが似ていたり、同じ漢字を使用していたりすることもあって、国のレベルだけでなく、個人のレベルでも誤解や誤認識は頻繁に起きている。私の留学時代にも誤解や誤認識によると思われる出来事がいくつかあったが、中でも「恐怖のミカン事件」は忘れ難い。「事件」というのは私が勝手に名付けただけであるが、郷に入れば郷に従わなければとの自戒が込められている。
私が留学した遼寧大学は遼寧省の省都、瀋陽市の北の郊外にある総合大学だった。緯度では北海道の函館くらいであるが、大陸であるせいか冬はマイナス33度まで下がったことがある。正確には、寒暖計の目盛りがマイナス33度までしか刻んでおらず、水銀柱の水銀が球から出ようとしなかったので、実際はマイナス33度よりも低かったのかも知れない。呼吸をすれば鼻腔がバリバリと凍り、冷たい空気が肺の奥まで入っていく様子が感じられる。うっかりドアノブを素手で触ると瞬時に手がくっついてしまうし、雪が降った翌朝は凍った雪の結晶が朝日に照らされて七色に輝く様子が幻想的でさえあった。
大学での入学手続き後、真っ先にしたことは、大学の先生に引率されて近くの商店で「綿大衣」と呼ばれる綿入りの外套に綿入りのズボン、綿入りの帽子に靴と手袋など、冬支度の衣料を買い揃えることであった。私が代金を支払っている横で同行の先生が代金以外に必要な布の「布票」、綿の「綿票」などの配給切符を数えていた。モノで溢れる現在では想像しがたい物不足の時代であった。切符は大学構内では不要であったが、大学を一歩出れば「糧票」がないばかりに外出先で食事ができず、空腹を抱えながらほうほうのていで大学にたどり着いたことも懐かしい。
外出には不便なことが多かったが、留学生宿舎の中にいる限りは快適なことこの上なかった。何よりも日常の生活が宿舎内で完結するのである。日用品や果物が手に入る小売店、ちょっとした運動ができる中庭。廊下を隔てた向かい側に教室があり、渡り廊下の先の別棟にある食堂で3度の食事ができた。宿舎は3階建てで、3階は女子学生、2階は男子学生が入り、それぞれの階の廊下の奥にシャワー室があった。シャワーの湯は限られた時間しか出なかったので、体中に石鹸がついているのに、突然お湯が水に変わったり、停電になると石鹸を流す水までも止まったりするので、毎回のシャワータイムはまるで運試しのようだった。
宿舎には約20人の各国留学生と約10人の中国人学生が入っていて、一部屋30㎡くらいのところに3人が住んでいた。基本的には国籍の異なる2名の留学生と中国人学生1名が入ることとなっていて、私の部屋は解放軍出身の学生と英国人の3人であった。この内、中国人学生は日中、宿舎外で他の一般学生と同様の生活をしていたので、休日や放課後の限られた時間しか宿舎にはおらず、中国語の意味は懇切丁寧に教えてくれるものの、それ以外の話題には模範解答しか返ってこず、踏み込んだ会話は期待できなかった。
私のルームメイト。街に出る時はこの出で立ちでないと寒さに耐えられない。
大学主催の「体育運動大会」。留学生チームが一丸となって活躍できる年に一度のビッグイベント。
この広い大学のグラウンドに水を張るだけで、冬は大きなスケートリンクに早変りする。
漢語系の日本人留学生を対象にした授業風景。私たちの担任の傅先生。
瀋陽には世界の各地から中国語、農業、工業を学ぶ留学生が集まっていた。(前列左は筆者)
冬のある日のこと、私はミカンを買おうとして大衣と綿入り帽子に身を包んで、一人で街に出た。ミカンは大学の構内では手に入らなかったので、街に出ればどこかに売っているだろうと、ひたすら果物屋を探して歩き回った。ようやく見つけたのは、他の果物に混じって、黒く干からびたピンポン玉くらいのミカンを一皿だけこんもりとのせて売っている店だった。早速、店の人に頼むと、店主はお金の他に何かを出さないと売れないという。糧票や糖票は聞いたことがあるがミカンにも配給切符があるのだろうか。お金の他に出す何かが何度聞いても分からず、ついに紙に書いてもらうことにしたら、そこには「大夫的診断書」と書かれていた。
ミカンは病人が薬代わりに食べるものなので、医者の診断書がないと売れないというのだ。私は驚いて、それなら結構である。私は日本から来た留学生で、冬になるとミカンを食べる習慣があったもので、などと話しているうちに、留学生なら話は別だ。「照顧」してあげるよと、値札よりも安くして売ってくれた。この時聞いた「照顧」という言葉は、相手の立場を考慮して特に優遇するというほどの意味だが、その後、街中での買い物の度に「照顧照顧」というと安くしてくれることが分かったので、留学生にとってはありがたい言葉だった。
帰りは路線バスを利用することにして、いつ来るとも知れないバスを待ちながら先ほど買ったばかりのミカンを食べ始めた。すると通りすがりの人が一人また一人と私の前に立ち始めた。当時は外国人が珍しく、どこへ行っても人に取り囲まれるのが常で、丘の向こうから全力で駆け下りてくる子供がいると思ったら私たち留学生の前でピタッと止まって、瞬きもせず上から下まで観察されたこともある。
街に出れば人に囲まれるものと覚悟はしていたのだが、この日ばかりは様子が違っていた。二、三十人はいたのだろうか。集まった人はいつもの好奇のまなざしというより怒りのまなざしだったのだ。ややあって、正面に立っていた中年の女性が耐えかねたように私を指さして「お前は!」と大声で叫んだ。「見たところ若いし、元気そうなのになぜミカンを食っているのだ!」というのだ。それを合図に他の人たちも口々に私を指さして、そうだそうだ。なぜミカンを食ってるんだ!という。
私は、そうだった、これは病人が食べる貴重品だったのだと先ほどの店主の言葉を思い出したのだが、時すでに遅し。この国でミカンを食べることがこんなに怖いこととは思いもよらなかった。ひとしきり指弾された後、私の思慮のなさを恥じ入りながら「いや、実は、私は日本から来た留学生で、冬になるとミカンを食べる習慣があって、向かいの果物屋さんが売ってくれたので、」などと果物屋で話した同じ内容を訥々と繰り返しているうちに「なんだ、そうだったのか」と言いながら人の群れは三々五々、散っていった。
当時、数少ない外国人は「外賓」として殊の外大切にされている時代でもあり、私も日本人ということで不愉快な思いをしたことは一度もなかったが、布団のような外套と防寒帽子だけの一人歩きで、ましてや顔つきがそっくりな日本人はとても外国人には見えなかったであろう。外套の下から見える、当時珍しかったジーンズと厚底の靴を見れば西洋かぶれした不良青年にしか見えなかったに違いない。誤解が解けるときは氷が解けるのに似ている。氷解という漢字を考えた人は偉いと思う。日中両国に横たわる数多くの誤解を相互理解と相互信頼へと変えていくには、無数の「なんだ、そうだったのか」という氷解の時を積み重ねるしかない。地道な民間交流と地道な対話が大切な所以である。
ホテルの窓から顔を出しただけで集まってきた人々。
外国人を見る目は「好奇」でなければ「友好」的な眼差しだった。
外国人が珍しい時代。そこに外国人がいると人が集まって来た。
1977年の瀋陽の目抜き通り。車はほとんど走っておらず、荷馬車と自転車が目立った。中国語で道路を「馬路」という理由がよくわかる。
瀋陽には過去の戦争の痕跡が各地に。日本軍が「満州事変の軍功」を誇示するために建てた炸弾碑。現在はこの前に「九一八歴史博物館」が建っている。
関心の的は服装にあったようだ。
※本稿は『和華』第26号(2020年7月)より転載したものである。