【20-023】ネット授業 新型コロナで定着学校はもう不要?
2020年09月14日
斎藤淳子(さいとう じゅんこ):ライター
米国で修士号取得後、 北京に国費留学。JICA北京事務所、在北京日本大使館勤務を経て、現在は北京を拠点に、共同通信、時事通信のほか、中国の雑誌『 瞭望週刊』など、幅広いメディアに寄稿している。
あっという間の普及
北京では2月中旬以降、小学校から大学までネット授業が始まった。現地の公立小学校に通う息子は時間を持て余していたので、ネット授業の開始と共に生活にメリハリができ、助かった。
通知からたった2週間という急ごしらえにもかかわらず、ネット授業が実施できた背景には、以前から教育のデジタル化が進んでいたこともある。例えば、息子の宿題の告知や提出では新型コロナ以前からスマホ経由が一般化していた。
また、中国独特の「走りながら考える」行動様式も効を奏した。導入当初はサーバーがダウンしたり、画像や音声が固まったり、トラブルが多発した。しかし、ネット授業は進み、次第にこなれていった。例えば、一つのグループチャット内で複数科目の宿題を生徒が一斉に提出して混乱すると、「宿題提出アプリ」なるものが登場した。これで、科目ごとの課題、提出状況、評価が一目瞭然になった。
実施されたネット授業は主に2タイプあった。予め録画された動画教材を各自が見るものと、会議用アプリを援用してクラス全員がネット上で集まり先生の講義を聞き、生徒が答えるライブ授業だ。共に授業後に解き終えたプリントや作文、書道や美術の場合は作品を写メして先生に送り採点してもらう。トラブルを物ともせず「前進あるのみ」と大胆に実施された結果、コロナ禍を経てネット授業は急速に普及した。
こうしたネット授業の普及により「オンラインによる新たな学びの空間ができた」と語るのは、日本の大学で教える友人だ。彼女の大学で予定されていた中国留学が新型コロナで中止されると、現地の先生はネットでの「留学代替授業」を快く実施してくれたという。ネット授業の普及によって国を跨ぐ教育の垣根が低くなった好例だが、これは大きなプラス面と言えそうだ。
普及の先に見えたもの 五感を揺さぶる生の授業
一方、家にこもってネット授業を受けている息子は「もう学校に行く必要ないな!」と言って、私を驚かした。確かに教科書の知識は学べるかもしれないが、学校生活にはそれ以上のものがあって欲しい。本当に生の授業は要らないのだろうか?
中国の汕頭大学で教壇に立つ加藤隆則教授は、「今回3カ月やってみて、逆に対面式の授業の重要性を痛感した」と語る。「みんなで考える授業はネットではやりにくい。授業中の交流は言葉だけではなく、表情や声、ジェスチャー、呼吸など非言語的表現を含めた体全体で表現されるもの。情報も話す人の感情や経験を経ることで、活き活きした知識となる。五感を通して発信・吸収される知識は違う」――
そう聞いて目が覚める思いがした。我が子にも受けてもらいたいのは、まさにこんな風に五感を揺さぶる生の授業だ。
世界的にはAIの登場以来、私たちは「AIではできない(=代替不可能な)生の人間の能力」をまじめに考え始めた。同じように、ネット授業は、逆に「本来の教室の授業の意味」を改めて私たちに考えさせる機会になりそうだ。人と人のやり取りが省かれる社会に向かっているからこそ、逆に生身の人間の価値が問わるようになっているのかも知れない。
コロナ禍を経てあっという間に「ネット教育先進国」と呼ばれるほどネット授業が普及した北京。しかし、その先に見えてきた本質的な課題は、授業内容の充実にありそうだ。ネットという新時代の「道具」も賢く利用する一方で、子供の五感を揺さぶるような本当の意味で新しい授業が増えることを願っている。
北京ではコロナ禍でネット授業があっという間に普及した。ネット授業は予め録画されたものと、先生と生徒全員が参加するライブネット授業の2種類。普及の結果、対面授業の重要さも改めて認識されつつある。
※本稿は『月刊中国ニュース』2020年9月号(Vol.103)より転載したものである。