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【19-002】結んだ縁と感謝の心----私とさくらサイエンスプランの協奏曲

2019年12月4日 徐依馨(大連理工大学外国語学院)/JST客観日本編集部(編集)

 私とさくらサイエンスプラン (日本・アジア青少年サイエンス交流事業)との出会いは、まったく思いがけない出来事で、それが私の人生の軌跡を変えることになった。

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2019年年初、勝尾寺への初詣

 当時の多くのさくらサイエンスプラン参加者からみれば、私が参加していたのは非常に不思議に感じられたことだろう。私の記憶では、当時の交流の機会は山東省から与えたもらったもので、参加者の多くは理系のコンテスト受賞者や発明をしたことのある生徒で、学年も私より上だった。それと比べると、私は理系が好きなほうではあったが、特に受賞歴もなかった。

 その年、私は高校1年生になったばかりで、隣のクラスの劉逸飛君など一部の生徒たちと第1回科学技術イノベーション芸術祭を企画、開催した。コンテスト部門内容の決定、大道具作り、会場の手配、開幕式やパーティーの準備など、すべて自分たちで行った。おそらく学校側もこの点を重視してくれたのだろう。劉君と私を異例ながら科学技術振興機構(JST)が主催するさくらサイエンスプランに参加させてくれた。

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大連理工大学がさくらサイエンスプラン参加者の感想を1冊にまとめて出版した「漂洋過海来看你」(海を越えてあなたに会いに)。

 日本へ行くのも初めてなら、実のところ海外に出るのも初めてだった。行く前はひどく緊張した。当時は少しも日本語ができず、英語は同年代ではまあいいほうだったが、科学技術関連の英語を聞き取れるレベルにはほど遠かった。しかも抗日戦争当時、故郷である山東省は日本軍に侵略され、家族は日本を盲目的に悪く言ったり敵視したりするところまではいかなかったものの、好きとか憧れを抱くということはあり得なかった。私自身は、好奇心を抱き、得難いチャンスだと考えた。家族の年長者も反対はせず、「目で見たものは確実だから、自分で見てくるのが一番いい。歴史は心に刻むべきだが、未来を志向することも大切だ」と言ってくれた。

 飛行機が東京に着陸し、夜の東京湾の高架道路を走るバスの中で、私は車窓にへばりついて外を行き交う車を眺めていた。物珍しさはあったが、異国という感覚はそれほどなかった。どちらも黒い髪、黒い目、黄色い肌だったからだ。浅草に行った時には、日本人と間違われた。言葉が通じないこと以外、日本人は見たところ私たちと何も変わらなかった。私はこうした奇妙な慣れ親しんだ感覚に包まれ、急にリラックスした。まるで今まで会ったことのない遠方の親戚に会ったようで、よく知らないながらも、親しさがこみあげて来た。

 当時見学したり学んだりした具体的な内容はもうあまりよく覚えていない。細々としたシーンが断片的に浮かんでくるだけだ。ノーベル賞受賞者の講演が聴けると知って驚いたこと、東京の地下鉄で迷い、京王新線が見つからずに茫然としていた時に、見知らぬ人がボディランゲージで助けてくれたこと、未来館の中の巨大な地球と、私たちがその地球の上のちっぽけな存在であり、互いにそんなに離れてはいないと知ったことなどだ。当時はいつも写真に写りたくなくて、それでも最後に撮ったさくらサイエンスプランのウェブサイト の集合写真では、どうにか私の顔がぼんやりと確認できる。

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2014年8月に参加したさくらサイエンスプランの集合写真

 この時の日本訪問が私に与えた影響は、すぐに表に出てくることはなかった。さくらサイエンスプランに参加したからといって、すぐに日本に留学するとか、科学研究に身を投じるということもなかった。そうしたことは当時の私にとってまだはるか遠くにあって、私はただこの良い思い出を記憶に残し、それまでと同じように淡々と自分の高校生活を続けた。高校3年生で外国語専攻の推薦入学試験を受け、大連理工大学に合格して英語と日本語、ロシア語の中から専攻を選べることになって、突然自分がかつて訪れたことのあるあの一衣帯水の、海を隔てて向かい合った国を思い出した。自分の未来がもしその国と関わるのであれば、それはきっと悪くないだろうと思ったのだ。それに加えて、大連理工大学の日本語学科の教師はレベルが非常に高かったし、最も重要だったのは交流の機会が極めて多かったことだ。私はそれほど悩むことなく、日本語学科を選んだ。

 基礎学習の段階は振り返るに忍びないが、大連理工大学の先生方はきめ細かく厳格で、外国人教師の授業が多く、私たちに対する指導の効果はめきめきと上がっていった。最初の2年間は、五十音から勉強し始め、次第に日常会話ができるようになり、やがて花見や日本祭りといった簡単な活動に参加できるようになっていった。大学2年生になると、ボランティアチームの管理、活動日程のプランニング、国際部の日本の大学訪問団受け入れサポートといった対外活動に参加できるようになった。授業以外の時間には、先生の指導の下で日本語の劇団を立ち上げた。

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剣道体験(左)大学1年生の時の花見(右)

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城西大学訪問団の受け入れ

 こうした大小さまざまな経験を積めたこともあり、さらにこの年、大連理工大学日本語学院と大阪大学外国語学部との間に交流プロジェクトが結ばれた素晴らしい運にも恵まれ、私は面接トップの成績で全体の順位をひっくり返し、大阪大学で1年間交流するチャンスを手にした。

 2018年9月25日、私は再び日本の地を踏んだ。しかしこの時は、前回のように何でも手配してくれる人がいるわけではなく、自分一人で対応しなければならなかった。最初のころはバスにどうやって乗るかすら分からず、下車する時にいくら払うのかも分からず、電車も間違って特急に乗って駅を乗り越してしまったこともあった。しかしその後は徐々に自炊にも慣れ、自分で旅行にも出かけ、以前ホームステイした家にも定期的にお邪魔し、海外から来た新しい友人もでき、大阪北部の山地での生活にもうまく適応していった。アルバイトも二つ掛け持ちし、バスに40分乗って市の中心部まででかけた。小さなレストランでは日本人が普段の生活で見せるさまざまな姿を目にし、ホテルでは結婚式という人生の重大な場面にも立ち会った。私はいつも好奇心にかられてそっと彼らを観察し、いつも彼らと一緒に喜び、結婚披露宴では新婦が両親に手紙を読むのを聞き、いつも感動して思わず泣きそうになった。そして2ヶ月間アルバイトをしてためたお金を旅費にして、友人と北海道に年越し旅行に出かけた。上富良野では無料で配られた豚汁をすすり、御神火ランナーたちが雪の上に設置された大の字に火をともしていく「北の大文字」を眺めながら、かがり火がバチバチとはぜ、花火が夜空にきらめき、瑞雪がはらはらと舞う中で、新年を迎えた。

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北海道の秘境、小幌駅を訪問

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北海道で一番印象に残った氷と雪

 日本で過ごした1年間で、私は「郷に入っては郷に従う」ということを学び、日本人と同じように学び、生活した。こうした現地の環境にどっぷりと浸かった体験をするうちに、知らず知らずのうちに感化され、ごく自然に日本の文化の精神的なコアの部分を理解していった。それはもはやあわただしく一瞥しただけの驚きではなく、深い理解に根差したより全面的な認識だ。しかもそれは日本に対する理解にとどまらず、日本と中国の相違点と共通点、対比の中で、改めて自分の祖国を知ることでもあった。自分のことも相手のこともよく知ることこそ、友好交流と共通認識、共に進むための土台なのだと思う。

 来日してからの1年間、私はさまざまな形で中日交流にも関わり続けた。2018年11月に神戸で行われた第5回中日教育交流会で、母校の郭校長が日本を訪れ「淡路島宣言」に調印した際には、私も臨時の通訳として交流会に参加した。12月に新たな日本文化ワークショップが関西に来た際には、嵐山で彼らと合流し、周恩来首相の詩碑の前で中日国交正常化にまつわるエピソードを聞いた。

 2019年の春、4月末に大連理工大学で中日学生交流大会が開催されることを知った。日本の大学生300人が中国を訪れ、そのうち137人が外語学院の異文化交流プロジェクトへの参加を選択したものの、外語学院の日本語学科の学生は毎年30数人しかおらず、さらに大学3年生の大半は日本に留学中で、英語学科やロシア語学科のボランティアを足しても足りず、日本語強化班からも人手を回してもらうという。私は、「一人でも多ければそれだけ助けになる。それにちょうど春休みなのだから、帰って手伝わなければ」と考えた。そこで春休みはアルバイトを休み、自費で航空券を買い、大連に帰ることにした。

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母校で行われた中日交流大会でボランティアをするために自費で帰国

 そしてこの交流大会では、さくらサイエンスプランの2人の元老級人物である沖村さんと米山さんに再会することもできた。2014年に私がさくらサイエンスプランに参加した時は、ちょうど米山さんが引率をしてくださった。米山さんは一週間私たちと食事と宿を共にし、本当にお世話になった。数年後、米山さんも大連理工大学にさくらサイエンスプランの説明会をしに来てくださったのだが、その時は他の予定とぶつかってしまいお会いすることができなかった。5年が過ぎ、当時米山さんが心を尽くして私たちの世話をしてくださったことを振り返るにつけ、機会を見つけて、面と向かって直接この感謝の気持ちを伝えたいと思い続けてきた。この感謝の気持ちは米山さんに対するものであり、そして何よりも私の人生を変えてくれたさくらサイエンスプランのご恩に対する感謝でもある。

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中日大学生交流大会のオープニングセレモニー。後列右から2人目が米山さん、右から4人目が沖村さん、後列一番右が私。

 さくらサイエンスプランは、私の心に最初に蒔かれた種であり、最初に感動の火を燃え上がらせた小さな火であり、最初に心の扉をなでていったさわやかな風だ。私が将来進む方向を決めるガイドとなり、現在の私へと導いてくれたのはさくらサイエンスプランだと言えるだろう。

 2019年11月、私はまたまた日本を訪れ、さくらサイエンスプラン5周年シンポジウムに参加した。シンポジウムの満場の聴衆を前に、私はこの恩に感謝し、将来中日交流事業に携わって恩返しをしたい、と述べた。それは注目を浴びるための言葉でもキャッチフレーズでもなく、心の奥底からの偽りのない実感だったと断言できる。

 思いがけないことに、私のこの本心からの言葉は、会場で共感を呼び、その場にいたさくらサイエンスプランの関係者を感動させることとなった。私の後に登壇された日本の参議院議員、元文部科学大臣が挨拶をされた際に私のこの言葉を引用し、「大変感動した。恩に報いる心はさくらサイエンスプランの真髄だ。中日友好にまた新たな若者が加わってくれて大変うれしい」と言ってくださった。

 私はずっと中日交流の成果の恩恵を受け、さくらサイエンスプランという場を借りて、国や学校が提供してくれた無数の交流の機会と資金サポートの下で成長してこられた。これらは例外なく、無数の先生方や先輩方が数十年の時間をかけ、双方のたゆまぬ努力によって築き上げてきたものだ。私は巨人の肩の上に止まって広い視野を持てるようになった一羽の小さな鳥にすぎない。水を飲む時にはその源を忘れていけないというように、私というこの一滴の水も、中日交流という大きな流れの中に身を投じ、滔々と流れる河川に育つよう力を尽くしたい。

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さくらサイエンスプラン5周年シンポジウムの体験共有会での私の発表テーマは「恩に対する感謝」。

 ここ数年、さくらサイエンスプランというきっかけによって、私はずっと中日交流のバックグラウンドでスタッフとして協力し、また第一線で交流に携わってきた。そのおかげで私は多くの感動を経験し、急成長することもできた。だからこそ、今後の中日交流に自分もささやかながら貢献できるのではないかといっそう期待している。もしかしたら私は日本語が少しできるだけの「無用の人」かもしれないが、仮にそうであっても、ご恩に感謝する気持ちを抱き、できる限りのことをしたいと強く願っている......中日友好交流の架け橋にはなれなかったとしても、その架け橋を支えるブロックになれるだけでも構わない。

 さくらの花は瞬く間に散ってしまうが、毎年繰り返し咲き続ける。5年、10年、50年後に、私とさくらの花との間に、語り尽くせないほどたくさんのエピソードができることを楽しみにしている。

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