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【16-05】日本に来る中国人が脱帽すること

2016年 6月30日

柯 隆

柯 隆:富士通総研経済研究所 主席研究員

略歴

1963年 中国南京市生まれ、1988年来日
1994年 名古屋大学大学院経済学修士
1994年 長銀総合研究所国際調査部研究員
1998年 富士通総研経済研究所主任研究員
2005年 同上席主任研究員
2007年 同主席研究員

プロフィール詳細

 だいぶ前に、何人かの日本人の知り合いといっしょに中国に出張に行ったら、道中、同行の日本人の若者の一人は調子が狂ってお腹を壊した。同行の年配の日本人は、今の若いヤツは清潔すぎる生活をしているからお腹が弱いんだといった。ある医者によると、日本人のお腹にある菌が昔に比べて大幅に減ったので、お腹が弱くなったという。筆者は医者ではないので、この話の真偽は明らかではない。ただし、28年前に名古屋へ留学したとき、最初の2年間は、まったく風邪すら引かなかった。おそらく当時、体が中国の厳しい自然に対応していたため、日本は無菌に近い状態だから病気にならなかったのである。3年目に入ってから、体が徐々に日本の風土に慣れてきて、ときどき風邪をひくようになった。

 毎回のことだが、日本に来る中国人が必ず感嘆するのはなぜ日本はこんなに清潔なのだろうということである。ある日、家内が海外から戻ってくるので、車で空港へ迎えに行った。空港の駐車場に車を泊めたとき、海外から戻ってきた日本人の親子は心から、日本の車はきれいねと感激した様子だった。

 筆者が小さいころ、中国では、ほぼすべての家はスリッパをはく習慣がなく、土足で家を上がっていた。しかし、今、中国の都市部のほとんど家はスリッパに履き替える習慣ができた。中国人も清潔な生活をするようになった。

マクドナルドの功績

 この30年余り、中国では、一番改善されたのはトイレである。それがだいぶ清潔になったことである。むろん、中国のトイレは日本とまだ比べられないレベルにある。日本のトイレ、とくに、デパートのトイレは、ときどきそのなかでご飯を食べる人がいるといわれるほど清潔である。外国人は日本に来て、日本人の家に呼ばれるとき、一番不思議で理解できないのは、日本人の家では、なぜかトイレのなかにそれ専用のスリッパが置かれていることである。

 2001年、ある訪中団に参加して、内モンゴルの包頭(バオトー)から西安に向けてドライブした。車が陝西省に入ってから、農家の家を見にいった。現地の家の作り方は、家というか、庭の入口の外側にトイレが設置されている。しかも、そのトイレは1メートルちょっとの塀に囲まれている簡易型のものだった。

 トイレの文化は日本で頂点に達した。中国人観光客は日本に来て、ウォシュレットの便座を買って帰っている。問題なのは、日本の清潔で気持ちのいいトイレに慣れると、海外のトイレ事情は日本ほどではないので、海外へ行きたくなくなる。

 ある商社の人事部長に聞いた話だが、新しく採用された男性社員はある日、お母さんが同伴で会社に来て、人事部長に「うちの息子を海外勤務にさせないでください」と頼んだそうだ。日本では、草食系男子が増えているといわれているが、その多くは一定レベルの潔癖症である。その結果、日本人の若者は全般的に軟弱になっている。

 ある自動車メーカーのインド子会社の社長は、田舎で二輪バイクを売るために、自らが田舎へ泊りに行くといわれている。インドの田舎にホテルらしいホテルはない。ベッドのマットレスの下は虫だらけである。インドの公衆トイレには、トイレットペーパーが用意されていない。便座の横に置いているバケツの水でお尻を洗うのが習慣である。

 ちゃんとした理論と統計はないが、おそらく世界では所得格差以上に、トイレ事情の格差のほうが大きいと思われる。先進国のなかでも日本のトイレはもっとも清潔で気持ちのいいものであろう。しかし、トイレが清潔であれば清潔であるほど、それを使う人間は軟弱になると思われる。

我慢できることと我慢できないこと

 人間はたいへん不思議なところがある。料理は少々まずくても、我慢して食べることができる。しかし、清潔なトイレになれた人は清潔でないトイレで用を足すことはできない。以前、ある年配の日本人研究者と中国を旅したとき、その方は「柯さん、日本人を強くするために、便所のあとに手を洗わない運動しないといけないね」といわれた。むろん、それはジョークだったが、一理あるような話と思った。

 人間のさまざまな習慣のなかで逆戻りのできないことが多い。たとえば、おいしいコーヒーを飲んだら、昔のインスタントコーヒーを二度と飲まないのはその典型である。同様に、清潔なトイレに慣れると、それが当たり前になると、二度と清潔でないトイレで用を足すことができない。

 むろん、ここでトイレのことを記したのは単なるトイレの清潔さに関する議論だけではない。人生に関する哲学的なもっとも有名な設問には、「われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか」というものがある。おそらくここで問われているのは人間の生き様である。

 中国の田舎とインドでの体験から、あれはもっとも自然の生活と思われる。1970年代の末まで、中国で生産された野菜の多くは化学肥料を使わず、人間や動物の糞が肥料として使われた。今の言葉で表現すれば、当時の野菜のほとんどは有機栽培だった。その後、経済が発展し、化学肥料がたくさん作られるようになり、同時に、農薬もたくさん作られた。その結果、農薬がたくさん散布され虫に食われない野菜は、化学肥料もたくさん投入され、生産量が増えた。中国の食糧不足は過去の話になった。しかし、虫すら食わない野菜を人間が食べて健康になるのだろうか。

 生態環境学において循環型社会という提案がある。今の人々の生活は昔に比べ、遥かに気持ちのいい生活になっている。トイレは清潔で家のなかで一年中温度が管理されている。洋服の洗濯は自動洗濯機で大量の洗剤が使われる。外出するとき、車に乗る。しかし、こういう生活は明らかに持続不可能である。

 真面目な話をすれば、人間はそろそろ清潔でない生活に慣れる努力が必要であるかもしれない。生態環境が人間の都合にあわせて変えられると、必ずや不幸な結末になる。人間はありのままの生態環境に慣れる努力が必要である。30年前に、はじめて北京に行ったとき、一般の民家にはエアコンなどまったくなかった。北京の年配の人に話を聞くと、あのころ、夏の昼下がりは少し暑くても、夜になると、気温は下がり、涼しい風が吹いてくる。金持ちの家には、扇風機があるぐらいで、扇風機がなくても、夏を過ごせた。しかし、今の北京は、エアコンがなければ、熱中症になる心配がある。人類と地球は崩壊の道を辿っているかもしれない。