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【17-06】新時代の到来を予兆するグローバル政治の混乱

2017年10月 5日

柯 隆

柯 隆:富士通総研経済研究所 主席研究員

略歴

1963年 中国南京市生まれ、1988年来日
1994年 名古屋大学大学院経済学修士
1994年 長銀総合研究所国際調査部研究員
1998年 富士通総研経済研究所主任研究員
2005年 同上席主任研究員
2007年 同主席研究員

プロフィール詳細

 世界主要国で起きている社会現象を考察すれば、極端な暴政は起きなくなった。政治学者によって提起されたポピュリズムの政治は古代もあった。ただし、今のポピュリズム政治は古代のそれと大きく異なるものになっている。というのは、情報革命によって政治と社会の情報は瞬時に伝わるようになるため、権力者が情報を都合のいいように完全に操作できなくなったのである。かつて、毛沢東時代(1949-76年)に行われた愚民政策は、今の中国ではできなくなった。

 2017年、フランスやドイツなどヨーロッパ主要国で総選挙が行われた。当初、極右勢力の政治家が人気を博していたため、排他的な思想を強く持つ極右政治が権力を握れば、EUがどうなるかが心配されていた。しかし、実際には極右政治家は選挙で敗北し、中道政治家は引き続き権力を握り、従来の地域統合が進められることになった。

 2017年2月、スイスで開かれた国際フォーラム(ダボス会議)に中国の習近平国家主席は、中国の国家主席としてはじめて出席し演説を行った。そのなかで、習主席は世界で反グローバル化の動きがあるが、われわれはグローバル化を支持していくと宣言した。習主席が指摘した反グローバル化の動きというのは当時、アメリカで就任したばかりのトランプ大統領の言動と思われる。トランプ大統領はツイッターなどで極端なつぶやきを行っているが、暴走はしていない。

 なぜ権力者は暴走しなくなったのだろうか。

 その背景に情報革命によって情報が対称的になっていることがある。世界でもっとも情報が非対称的な国といえば、北朝鮮である。だからこそ金正恩労働党委員長は世界でどんなに批判されても、暴走している。

 そもそも情報とはどんなものだろうか。

 生物学者によれば、地球とほかの惑星の最大の違いは生命の存在にあるといわれ、生命が存在できるのは、水と酸素の存在があるからであろう。しかし、近代社会において水や酸素と同じように重要なのは情報である。あらゆる社会と人間にとり、情報はさまざまな事象に関する決断の根拠となるものである。国民全員で情報をシェアできる国はもっとも健全に発展していける。情報の共有を抑制される国は亡びることになる。

 歴史学者や小説家は幾度も第3次世界大戦を予言してきたが、現実的にかつてのような世界大戦は起きない。それは人間の学習能力の強化によるところもあるが、経済のグローバル化が戦争の再発を止めているのである。経済のグローバル化というのは、多国籍企業による投資を軸に資源が世界各国に分布するようになることである。したがって、戦争を発動する国にとっても大きなロスを被るため、戦争を発動するインセンティヴが強く働かない。

 中国とベトナムが戦争した1979年当時、中国の一人当たりGDPは300ドル程度だった。2017年の一人当たりGDPは9000ドルに近い規模になるとみられている。経済の発表によって人間の「値段」が上昇している。人間の「値段」が高くなればなるほど、戦争を起こす原動力が弱くなる。

 では、なぜグローバル政治は不安定化するのだろうか。

 一つの原因はイデオロギーへの帰着が極端に弱まったからである。日本の政治をみても分かるように、安倍首相によって国会が解散されると、議員たちは自らの信念よりも、失業しないように、どの党に公認してもらったほうが再選される可能性が高いかを念頭に奔走する。アメリカのトランプ大統領は政治家というよりも、商人といったほうがよかろう。政治信条をほとんど持っていないようだ。

 もう一つの原因は選挙民に迎合するポピュリズムの政治が台頭していることにある。選挙民の嗜好はメディアによって翻弄されるため、大きく変化する。よくいわれる劇場型政治はまさにポピュリズム政治の表れといえる。

 具体的な方向性を失ったポピュリズム政治はファッションの流行を追いかけるように右往左往する。結果的に、国民生活や経済活動のなかで政治の重みは徐々に低下していくと思われる。中国のことを例にあげれば、60代以上の世代にとり、政治は重要な存在になっているが、40歳以下の世代にとり、政治の重要性はまったくない。少し前の指導者について尋ねると、こいつは誰だという顔をされる。というのは、彼らは政治にまったく無関心であるからだ。

 自分と直接無関係なことに無関心であるため、表面的に一人ひとりの人間のサイズが小さくなるようにみえる。しかし、政治は目的ではなく、あくまでもツールである。したがって、人間は本来のあるべき姿に回帰しているのかもしれない。

 ここで問われているのは、政治のあり方である。

 専制政治では、政治家は国民を管理する管理者のような存在になる。だからこそ専制政治は恐怖の政治といわれている。それに対して、日本のような民主主義の政治は軽量級の政治がほとんどである。日本政治のパワーゲームは怖さがまったくなく、テレビのワイドショーが取り扱う面白さしかない。

 専制政治と民主主義の政治を比較すると、両者が動員できる資源の量はまったく違う。中国の政治指導者は日本の政治家をいつも同情の眼で見ているかもしれない。森友学園や加計学園のような疑惑が残るといわれる案件について安倍首相と親族は別に賄賂をもらったわけではないのに、なぜワイドショーで毎日のように皮肉られるのか、中国の政治指導者にとっては不可解だろう。

 経済のグローバル化はすでに不可逆の流れになっている。向こう10年ないし20年の長期的視野で世界の政治を展望すれば、NGOやNPOの活動は今まで以上に活発化していくものと思われる。政治の重要性はさらに低下していくものと予想される。これから大きな変化として専制政治は恐怖の政治を脱していかないといけない。そして、民主主義の政治は行政の一環として行政システムに組み込まれていく可能性が高い。議会は政治行政を監督する機能をさらに強化していくが、その監督機能そのものは急速にシステム化される。

 最後に、グローバル政治は当面混乱が続く可能性が高いが、やがて市民活動を展開する市民団体に背中を押され、サービス型の政治が定着するものと予想される。政治が混乱する間、極右勢力のような極端な思想を持つ個人や団体が目立つようになるかもしれないが、民主主義の政治は世界でメインストリームである以上、政治の暴走が抑えられると考えたほうがよかろう。