【18-06】米中貿易戦争の中国経済へのよき影響
2018年8月1日
柯 隆:東京財団政策研究所 主席研究員
略歴
1963年 中国南京市生まれ、1988年来日
1994年 名古屋大学大学院経済学修士
1994年 長銀総合研究所国際調査部研究員
1998年 富士通総研経済研究所主任研究員
2005年 同上席主任研究員
2007年 同主席研究員
2018年 東京財団政策研究所主席研究員、富士通総研経済研究所客員研究員
世界経済は米中貿易戦争によって不安が増している。そもそも貿易戦争の原因は米中の貿易不均衡にあるといわれている。しかし、米中両国の報復関税の応酬は貿易不均衡の是正に寄与しない。むろん、米国にとり3700億ドル以上に上る貿易赤字が耐え難い重荷になっているのは確かである。しかし、中国にとっての対米貿易黒字は中国企業によるものもあるが、高付加価値とハイテク製品の輸出を中心に中国に進出している外国企業によるもののほうが多い。その代表的なものといえば、アップル社のアイフォーンやナイキなどのアメリカブランドである。
貿易戦争のもう一つの原因は中国企業による米国企業の特許などの知的財産権侵害であるといわれている。確かに中国では企業の知的財産権が十分に保護されていない。種々の報道をみるかぎり、中国企業による外国企業の知財権侵害が横行しているようだ。この問題について、中国外交部スポークスマンは記者会見で「知的財産権はある国の覇権の道具ではなく、人類共通の財産である」と繰り返して強調している。この言い方はアメリカ政府、とくにトランプ大統領の怒りを買っているようだ。かつて、江沢民元国家主席は訪米時に、中国における知財権侵害の問いに対して、「我が国が発明した印刷術や羅針盤などの四大発明はあなたたちが自由に使っている」と反論した。外国からみれば、中国の指導者とスポークスマンの反論は傲慢と受け止められているはずである。
この二つの事例から、中国政府のトップレベルで知財権保護の意識は先進国との間に相当の開きがあると言わざるを得ない。むろん、現在、中国企業の特許申請件数は世界一になっているといわれ、いずれ、中国企業の特許が外国企業に侵害される可能性が出てくる。そうなったとき、中国政府は今と同じように「寛容的」になれるかどうかである。
このように論点整理を行ってみると、貿易不均衡が簡単に是正されないだけでなく、知財権の侵害によって問題はかなり複雑になっている。実は、日米欧などの外国企業は中国企業の知財権侵害へ対策がまったく講じられていないわけではない。中国政府は中国に進出する外国企業に中国企業への技術移転を求めているが、外国企業はそれほど重要でない技術を中国企業に移転するが、キーコンポーネント(コアな技術)を中国企業に移転することはない。
今回の貿易戦争の前哨戦として米国政府は中国の通信企業ZTEに対する制裁を実施した。理由はZTEがイランと北朝鮮に禁輸になっている技術と製品を輸出したことにあるといわれている。アメリカの制裁を受け、ZTEは携帯電話などの生産を一時中止せざるを得なくなった。本件から中国企業の技術力の弱さが改めて露呈した。幸い、米中両政府の話し合いによりZTEは罰金を支払い、二度と違反しないと誓約して、米国政府は制裁を解除した。
米中貿易戦争のここまでの展開はある意味では、予想内のものといえる。ただし、ここまでこじれてしまった米中関係はいかに打開してソフトランディングするか、展望できなくなっている。
米中貿易戦争の影響は、米中両国の経済にとどまらず、もっとも深刻なのはグローバルサプライチェーンを壊してしまう心配がある。中国は世界の工場である。ほぼすべての多国籍企業は中国で工場を建設し、生産を行っている。米中貿易戦争が全面的に展開されるようになれば、中国からアメリカへの輸出が難しくなる。かといって、多国籍企業は短期的には工場を東南アジアなどの新興国へ移転することができない。しかも、中国が世界の市場となりつつあるなかで、外国企業は中国を離れることができない。
今後の展望について、トランプ大統領の決断にもよるが、多国籍企業は対米輸出の生産工場を東南アジアなどへシフトする可能性が出てくる。しかし、そうすることによって中国から米国への輸出が減るかもしれないが、アメリカの輸入がほぼ同額で推移し、アメリカの貿易赤字そのものが減ることはない。
一方、中国にとり、米中貿易戦争の激化は短期的に経済成長の息切れをもたらすことになる。7月に入ってから、中国人民銀行は金融緩和へと舵を切った。中国財政部も公共工事の増額を発表。これはすでに減速している中国経済を下支えする必要な金融緩和策といえよう。
こうしたなかで、米中貿易戦争が中国にすべて悪影響を及ぼすとは限らないことを指摘しておきたい。振り返れば、1997年、東アジア諸国が通貨危機に見舞われた。通貨危機の教訓は、国際貿易のみならず金融と通貨もアメリカに過度に依存してはならないということだった。その後、域内の経済連携が模索され、FTAなどの枠組みが形成されている。東アジア域内貿易は対米貿易と同じように重要になると期待されている。
しかし、中国は内需振興と東アジア連携の姿勢を鮮明にしているが、実際の経済成長は依然米国に依存している。その体質が改善されないかぎり、経済成長は安定しない。
中国が抱えるもう一つの問題は構造転換と経済改革の遅れである。現在の市場経済の制度基盤は朱鎔基元首相の時代に築き上げられたものである。朱鎔基元首相は2003年に退任した。その後、これらの改革の多くはほとんど道半ばとなり、遅々として進まない。
中国の経済改革は改革しやすい分野から着手されたものである。今、残っている国有企業改革や金融改革などはいずれも抵抗が強く改革しにくい分野ばかりである。
そこでトランプ大統領が仕掛けている貿易戦争は見方を変えれば、中国に改革を求めているポジティブな影響を及ぼす可能性がある。かつて、日米貿易摩擦のときも同様な構図になったことがある。外圧は短期的に経済成長を押し下げる可能性があるが、長期的にみれば、改革の原動力となりうる。
10数年間、停滞している中国の経済改革は米中貿易戦争によってふたたび始動する可能性がある。貿易戦争の危機を改革を加速させるチャンスと転換させることができれば、中国経済を再び成長の軌道に乗せることができる。したがって、中国にとっては貿易戦争をネガティブに捉える必要がなく、落ち込む経済成長を手当しつつ、改革に真剣に取り組んでいくことが重要である。