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【13-08】第一次世界大戦と中国(1)日中関係の転換点

2014年 7月 4日

川島真

川島 真:東京大学大学院総合文化研究科 准教授

略歴

1968年生まれ
1997年 東京大学大学院人文社会系研究科アジア文化研究専攻(東洋史学)博士課程単位取得退学、博士(文学)
1998年 北海道大学法学部政治学講座助教授
2006年 東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学専攻(国際関係史)准教授(現職)

 今年、二〇一四年は第一次世界大戦百周年にあたる。そのため、国内外で多くの「百周年」を記念するイヴェントが開かれている。世界史的に見れば、この戦争により十九世紀が終わり、主権国家(国民国家)の世界的拡大、あるいは「社会主義と戦争」、「社会主義とナショナリズム」に特徴づけられる二十世紀が本格的に始まることになった。

 日本にとっては、この戦争は名実ともに世界の一等国となる契機であった。日英同盟を理由に参戦し、一九一四年にはドイツの租借地のあった山東半島を占領し、さらに一九一五年一月、中国に対して二十一カ条要求をつきつけた。交渉は中国側に有利であったし、アメリカ等も中国よりの態度をとったが、日本は軍事行動をおこして、五月七日に最後通牒をつきつけ、九日にはこれを受諾させた。この前後、中国では広汎な対日ボイコット運動や、排日運動がおきた。戦争終結後、パリ講和会議でドイツの山東半島の諸利権は中国ではなく、日本に継承されることになった。この過程で、中国では五四運動と呼ばれる親日派批判、排日運動が生じたのであった。そうした意味で、第一次世界大戦は、日中関係が悪化する大きな契機となったと言える。

 他方、中国から見れば、第一次世界大戦はその苦しい立場を反映しながら、それでもある種の「“弱国”であれ、国際社会で可能な立ち回り方」を自覚していく時期でもあった。第一次世界大戦勃発に際して、中国側は中立を宣言した。これは戦争に対して中立ということだけではなく、空間としての中国を中立地帯とするということでもあった。義和団事件のあとの1901年の北京議定書により、諸列強は中国(北京から沿岸部)での駐兵権をもっていたし、山東省の青島にはドイツ海軍が、その北側の威海衛にはイギリス海軍がいた。その軍隊どうしが戦争をはじめたら中国の国土が荒廃してしまうので、中国は空間的な中立も宣言したのである。

 しかし、その中立に日本が疑義を呈し、日本の敵国となったドイツの海軍基地があることを理由に、山東を攻撃するとしたので、中国は限定的に戦区を設定したが、一九一四年日本は攻撃に際してその戦区を越えて、山東半島をほぼ占領してしまったのである。これは中国から強い反発を受けたが、日本側は翌年の一月に二十一カ条要求を中国の袁世凱政権に突きつけて、ドイツの山東利権を自ら継承しようとしたのだった。結局、袁世凱政権は、この二十一カ条要求を五月九日に受諾し、五月末に諸条約が締結されることになったのである。中国では最後通牒の発せられた五月七日、あるいは受諾した五月九日を国恥記念日とし、二十一カ条要求はまさに帝国主義の中国侵略の、また日本の中国侵略の象徴のような扱いになってしまったのである。

 こうなると中国近代史の中で第一次世界大戦は暗黒の歴史ということになるのだが、必ずしもそうではない。これは後編の(2)で述べるが、そもそも二十一カ条要求をめぐる日中外交交渉では中国側が相当に優位に交渉を進めたし、排日運動が激化する中で袁世凱死後の段祺瑞政権は日本の財政支援(西原借款など)を受けて、第一次世界大戦に参戦、シベリア出兵の過程でロシアの影響下にあった外モンゴルにも派兵した。これはモンゴルから見れば中国の再侵出ということになるが、中国側から見れば奪還ということになった。

 また、一九一七年になって中国が決断した第一次大戦への参戦は、外交上の成果を得ることも目標としていた。戦勝国となることによって、第一に日本がドイツから継承しようとしている山東利権を回収すること、第二に戦争中に奪われた21カ条要求の諸内容を無効とすること、第三に不平等条約全般の撤廃のための原則を確立すること、第四にドイツ、オーストリアの(山東半島以外の)在華権益を回収すること、第五に国際連盟に原加盟国として参加すること、であった。

 パリ講和会議では、第一から第三が実現できず、ドイツの山東利権が日本に継承されることになったので、中国全権外交団は調印を拒否し、国内では五四運動がおきて親日派とされた外交官僚が襲撃された。「日本」はまさに帝国主義の象徴となり、中国ナショナリズムの攻撃のターゲットとなったのである。しかし、中国は国際連盟の原加盟国となったし、また一九二一年にドイツと単独講和をおこなって、ドイツの在華権益の回収に成功したし、オーストリアとも別途単独講和をおこなって権益の回収の成功したのだった。また、一九二一年のワシントン会議に際しては、山東権益は条件付きで中国に返還されることになった。二十一カ条要求のうち、南満洲利権の延長という点は日本側の成果であったが、そのほかの多くを中国側は取り消すことに成功したのだった。これは、日本側の幣原喜重郎の幣原外交の方針もあるが、中国側としては多くの成果があったのである。

 日本の教科書では「軍閥混戦の時代」とされる時代に、中国の新しい外交が始まったのが、この第一次世界大戦の時期だったのである。