【17-01】民国史研究から抗日戦争史研究へ?—抗戦八年/十四年/五十年—
2017年 9月 6日
川島 真:東京大学大学院総合文化研究科 教授
略歴
1968年生まれ
1997年 東京大学大学院人文社会系研究科アジア文化研究専攻(東洋史学)博士課程単位取得退学、博士(文学)
1998年 北海道大学法学部政治学講座助教授
2006年 東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学専攻(国際関係史)准教授
2015年 同教授(現職)
「民国史」の足踏み
先にこのコラム欄で「民国史研究の苦渋」 という小文を記したが、あながち的外れではなかったようだ。昨今、なんどか中国に行く機会があったが、どこでも「民国史」が敏感な言葉になったとの話を耳にした。簡単に言えば、「党史」と矛盾する点が多々出てきたことが理由だという。国民党の抗日戦争への貢献を強調して共産党との協力を描き、それを台湾の中華民国、あるいは国民党との将来の合作に利用する、統一戦線戦略の下にあった「民国史」は受け入れ難くなった、ということだろう。
ここ二十年ほどの間に、中華民国の史料、とりわけ檔案と呼ばれる行政文書が多く公開されたが、それは中華民国政府や国民党の目線での「歴史の語り」を推し進めることになった。共産党のほうの史料公開は限定的であったから、この動きは止められない。また、蔣介石日記が公開されることによって、満洲事変から西安事変の時期の、つまり国共合作が成し遂げられる前の時期の蔣介石の思惑が明らかになり、それもまた「抗日」への準備だと理解されるようになった。また日中戦争開始以後の国民政府の抗日戦争の遂行過程やその背景がつぶさに理解されるようになった。そのため、さまざまな点で「党史」と相いれなくなったのだ。
また、この「民国史」という枠組みを利用した台湾に対する統一戦線戦略が、実質上意味をもたなくなったことも重要だろう。台湾では、「台湾史」が国民の歴史になりつつある。中国史はむしろ過去の背景のひとつである。そうなると、1912年から49年の民国史をテコにした統一戦線戦略は難しくなる。
抗戦八年と十四年
そうした中で出てきたのは、抗戦十四年という言い方だ。昨今、中国の新しい歴史教科書で、この十四年が使われ始めたということは日本メディアでも報道されている。この変更のひとつの根拠は、2015年9月3日、習近平国家主席が「习近平在纪念中国人民抗日战争暨世界反法西斯战争胜利70周年大会上的讲话」という講話において、「70年前的今天,中国人民经过长达14年艰苦卓绝的斗争,取得了中国人民抗日战争的伟大胜利,宣告了世界反法西斯战争的完全胜利,和平的阳光再次普照大地」と述べられたことに求められる。習近平が十四年といったのだから、これが公式だというのだろう。
この十四年説は日本の「十五年戦争論」とも関係している。中国では一般に抗日戦争は1937年7月7日に開始されたと理解されており、だからこそ「抗戦八年」という表現が1945年の戦勝前後から用いられてきた。無論対日賠償を請求する際に、満洲事変を起点とするとか、済南事件を起点にするなどといったことが検討されたが、歴史叙述に際しては抗戦八年という表現が通常であった。
抗戦八年という言い方は1949年10月に成立した共産党政権にも継承された。共産党からすれば、1936年12月の西安事件によって蔣介石に抗日と国共合作を決心させることができ、それが盧溝橋事件以後の抗日戦争の前提になったという歴史解釈を強調することで、近代史における共産党の重要性を訴えようとしたのだった。
しかし、上述のように統一戦線としての民国史が次第にその意味を失い、また共産党の党史のおいても恐らくは1930年代前半もふくめて共産党の抗日の証拠となる史料が集まったと判断されたのであろう。そのために、ここにきて中国の教科書で「抗戦十四年」という概念が採用され始めた。だが、中国でも抗日戦争が満洲事変から始まった、という言い方が必ずしも定説になったわけではない。そのため、この教科書での表現は、抗日戦争それ自体が十四年継続したということではなく、「抗日戦争時期」という期間が十四年間、つまり満洲事変から1945年までであるという意味だという説明を多く耳にする。そう解釈すれば、抗日八年と抗日十四年はやや位相を異にする概念で、前者は戦争それ自体を、後者は時期区分であるということになる。
十五年戦争論と抗日十四年
日本ではしばしば十五年戦争論という枠組みが用いられる。これもまた満洲事変を起点とする戦争観に基づいており、実際には十四年に満たないのだが、「きりがいいので」十五年という言葉を用いるという。抗日十四年と基本的にはかわらない発想に基づいている。
しかし、日本ではこの十五年戦争論が必ずしも多く用いられるわけではない。それには「戦争」と「侵略」の関係がある。日本の多くの歴史教科書は、1931年9月18日に満洲事変が発生し、1933年の塘沽停戦協定でそれがいったん終結したと見る。その後、日中間で和平が模索され、あるいは双方とも全面戦争の準備をしていたが、日本の華北侵出は継続し、最終的に1937年の盧溝橋事件に至った、とする。つまり、満洲事変は1933年に一旦終わり、1937年7月7日の盧溝橋事件が日中戦争の起点だという説明である。1933年—37年は、日本の華北侵出があったとはいえ、戦争状態にあったというわけではない、という判断がここにはある。
つまり、塘沽停戦協定から盧溝橋事件に至る1933年—37年の見方が重要なのである。この期間も戦争があるとすると、十四年抗戦とか、十五年戦争論が成立する。だが、この期間には戦争があったわけではないとすれば、話が変わるのだ。今の日本では、この期間に戦争があるといった見方は決して多くないだろう。
だが、たとえ戦争はなかったとしても、1933年—37年には日本の対中(華北)侵略が継続していたことは一般に否定されない。つまり、戦争はなかったが侵略は継続していた、と見るのである。そのため、「戦争」という言葉を用いられると十四年、十五年は難しいが、「侵略」という言葉であれば、十四年、十五年継続したということは受け入れられやすい。
中国では、一般に「侵略—抵抗」という枠組みで近代史を見る。そのため、侵略と戦争との間の境界が曖昧なことが少なくない。そのために、侵略が継続していたのなら、十四年抗戦という時期区分をおこなっても大きな矛盾はなく、厳密な戦争は八年間だったとすればいい、と思われてしまうのではなかろうか。
今回、中国の教科書での変更ということで大きなニュースになったが、もともと日本の対中侵略という観点からすれば、満洲事変から1945年まで継続していたという見解が一般的であったのだから、果たしてどれほど大きな変更なのか、慎重に考える必要がある。
抗日五十年?
しかし、中国の歴史学界での議論はこれに尽きるものではない。たとえば大型研究経費を申請する場合や、公的な言説において、「民国史」が使いにくくなっている中、「抗日」は非常に使いやすく、かつ問題になりにくい便利な言葉として汎用性を高めつつある。「抗日戦争期」といっても、それがどんどん拡大して、十四年どころか、日清戦争以来の五十年を指すなどと言い出す人も出てきている。
この抗日五十年という表現は清末から民国期を包括的に含みこむ時期設定で、甚だ無謀にも思えるが、この観点で研究経費を申請し、また公的な場ではこの観点で歴史を語っていれば問題にならないということであれば、そうした物言いは急速に普及する可能性もある。使っている人々も、これが「方便」だということは承知しており、厳密な学術的な時期区分として用いているのではない。だが、こうした言葉がひとたび公的文書の中に落とし込まれ、公的言説の一部になると、それは規範となって制度化される。そうした意味で、八年から十四年への教科書の言葉遣いの変更も、現段階では「方便」として理解され、またある解釈のもとでの限定的な言葉遣いと見てもいいかもしれないが、次第に制度化されていくことが懸念される。
現在、中国は大きく変化している。それは自画像の変化をもたらし、ひいては歴史観の変化をともなう。そうした歴史のナラティブの変容もまた、習近平政権下の変化である。中国国内では、実直な研究者はこうしたことに右往左往することはない。だが、公的言説や学術制度、研究経費などの面での規範化は学術に大きな影響をもたらす。この点には留意しておいていいだろう。