【16-03】習近平VS共青団
2016年 5月31日
富坂聰(とみさか さとし):拓殖大学海外事情研究所 教授
略歴
1964年、愛知県生まれ。
北京大学中文系中退。
「週刊ポスト」(小学館)「週刊文春」(文芸春秋)記者。
1994年「龍の『伝人』たち」で第一回21世紀国際ノンフィクション大賞受賞。
2014年より現職。
著書
- 「中国人民解放軍の内幕」(2012 文春新書)
- 「中国マネーの正体」(2011 PHPビジネス新書)
- 「平成海防論 国難は海からやってくる」(2009 新潮社) ほか多数
今年3月、北京で行われた全国人民代表大会(全人代)において、李克強首相の存在感が薄れたことが多くの海外メディアで指摘された。このとき以来、日本のメディアでも「習近平VS李克強」――これはイコール「太子党VS共産主義青年団(共青団)」としても描かれる――の権力闘争、或いはその背後にあるとされる江沢民一派の隠然たる権力への介入といった視点から盛んに報じられるようになった。
久しぶりに降って湧いた上層階の権力闘争にメディアもやや興奮気味だが、この問題は国家主席と首相の綱引きという単純な対立の構図からのみ説明されるべきことなのだろうか――。
全人代で政府活動報告を読み上げた李とその後の李に対する習近平の態度から、李に対してある種の冷淡な空気が流れていたことは間違いなさそうだ。だが、その理由を上層階の権力者同士の争いにだけ求めることに私は抵抗を感じる。
理由は簡単である。習は、李個人ではなく、彼を共産党の最上層階にまで引き上げる過程で母体となった組織・共青団に対する攻撃を決して隠していないからだ。
同じように首相の専管とされてきた経済政策において、いまや習がそのすべてを掌握したかのような変化が、この全人代において見られたのだが、これも李個人ではなく国務院そのものの役割を骨抜きにしてしまうというやり方であった。このとき機能したのは党中央全面深化改革領導小組(以下、「小組」)という習が2013年12月に設立した組織で、タスクフォースとしての位置付けだと考えられている。
この「小組」が果たした役割についてここでは詳しく触れないが、集権機構としての役割を担ったことは間違いない。
さて、ここで振り返っておきたいのは習の政策実現の手順である。彼が重要と考え、また困難な問題に対処するとき、決まって活用されるのが中央規律検査委員会の下にある巡視隊(巡視組)である。習は今年2月、江沢民も胡錦濤も手が付けられなかった国有企業改革に着手するにあたり、昨年一年間を通じ徹底して行ったのが巡視チームによる査察であった。
こうした習のやり方は国有企業改革同様「高い壁」とされた軍事改革においても踏襲され――軍に対して大審査と呼ばれる監査であったが――ている。
この視点で李の周辺を見れば明らかなように、習は2015年10月30日から12月29日まで約2カ月間、巡視隊を共青団に向けて入れている。つまり習にとって共青団は早くから〝改革〟のターゲットであったということだ。
では、習はそれによって何を狙っているのか。
その答えは巡視チームが査察後に行ったフィードバック報告会のなかにある。今年2月2日、報告を行った李五四組長は、「党のリーダーシップが弱く、群団工作会議の精神の浸透も不十分で、実際の仕事にも十分に活かされておらず、ある幹部はこれを誤読し曲解している」と断じ、「機関化、行政化、貴族化、娯楽化がいまだ存在している」と結論付けたのだった。
李五四の述べた「機関化、行政化、貴族化、娯楽化」とは彼の造語ではなく習が群団組織(本来は「社会団体登記管理条例」に従い活動する非営利団体すべてを指すが、この場合は労組、共青団、婦人会)について言及する際によく使う言葉である。
ちなみに「機関化」とは、役所にこもって大衆と接しない役人の悪習であり、「行政化」とは上の命令にだけ忠実で、上司に媚びる役人の悪弊。「貴族化」は昔の貴族のような振る舞い、エリートだけを育て地方や末端の優秀な人材に目を向けない問題を指し、「娯楽化」は享楽主義や派手なイベントを頻繁に行いこれに興じ巨額な公金を無駄遣いすることを意味しているとされる。
李五四が最初に言及した「党の群団工作会議の精神」とは2014年12月29日の政治局会議の「党群団工作の改革強化のための意見」のことだ。つまり、共青団の改革はもうこの時点で決められていたことだということができるのだ。
さて、では習がこれにこだわる理由は何なのだろうか。私が少なくとも李への個人攻撃ではないと考えるのは、李の手から経済を取り上げながらも、その集権機構の「小組」の副組長に李を充てているからだ。
では、真意はどこにあるのか。一つは、政治エリートと位置づけられる共青団への攻撃だ。アメリカのトランプ現象やフィリピンの新大統領に選ばれたフィリピンのドゥテルテ氏など、世界はいま既存の政治エリートを敬遠する大衆が大きな変数を生み出している。実は、これは中国も同じで習が進める超ポピュリズム政治に熱狂する人民も、形は違うが同じように従来型の政治を否定する大衆である。つまり、人民が叩き壊したい対象であったということだ。