【16-04】もはや『南シナ海問題』にも反応しなくなった中国の反日
2016年 8月 4日
富坂聰(とみさか さとし):拓殖大学海外事情研究所 教授
略歴
1964年、愛知県生まれ。
北京大学中文系中退。
「週刊ポスト」(小学館)「週刊文春」(文芸春秋)記者。
1994年「龍の『伝人』たち」で第一回21世紀国際ノンフィクション大賞受賞。
2014年より現職。
著書
- 「中国人民解放軍の内幕」(2012 文春新書)
- 「中国マネーの正体」(2011 PHPビジネス新書)
- 「平成海防論 国難は海からやってくる」(2009 新潮社) ほか多数
悪いのは、要するに〝小日本〟だ。中国は絶対に彼らを攻撃し、消滅させることを以って中華侵略の仇とする――。
7月12日、オランダ・ハーグの常設仲裁裁判所(PCA)は南シナ海問題で中国に厳しい裁定を下した。これは中国が南シナ海を支配する根拠としてきた「九段線」を、歴史的な意味も含めて否定するもので、領有権をめぐって厳しく対立してきたフィリピン側に強い追い風になると思われた。
中国はこれに対して当初からの主張通り「(裁定は)無効」であり、「従わない」としているが、外交的なダメージは避けられないと考えたのか、裁定前には中国的な問題解決――仲裁ではなくあくまで2国間の話し合いで解決すること――を支持する国を集めてみたり、裁定後には国内外で激しい宣伝を繰り広げた。
また裁定の内容が予想以上に中国に厳しかったことから、彼らの怒りの勢いは10日以上が過ぎても収まらなかった。
冒頭に紹介した日本に対する罵声は、7月26日、アセアン外相会談後の王毅外相による記者会見を伝えた『環球時報』のニュース記事に寄せられたネットの声だ。
この問題で日本に矛先が向いている背景には、中国がPCAの裁定無視を決め込む一方で、仲裁は進められ、本来の権利を行使できなかった――通常は中比双方が二人ずつ裁判官を指名してすすめられるところ、中国は一人も指名できなかったことなど――ことがある。中国は国連海洋法条約第298条に基づき2006年に「領土や海の境界、歴史的な権限、軍事活動などを紛争解決手続きから除外する」宣言をしていたことを根拠にPCAには管轄権がないとしていたのだが、それを否定されてしまったのである。ちなみに同じような宣言は国連安全保障理事会理事国ではアメリカを除く4ヵ国がすべて行っていて残りのアメリカは国連海洋法条約そのものを受け入れていない。
つまり中国にしてみれば「認めない」とは言ったものの、「裁定は自分を抜きにどんどん進んでしまう」という困った状態に陥ってしまったのである。
そうしたなか裁判官4人の指名を行ったのが日本の元駐米大使の柳井俊二氏であった。これが中国から見ると「米国の意向を受けて行われた陰謀」となったわけだ。
もちろん柳井氏の行動は所定の手続きにしたがったもので問題はないのだが、中国側にとってはフィリピンの提訴のタイミングから中国がこれを「受け入れない」とすること、そのすべてが計算された陰謀だと考える要素がそろったということなのだろう。
そして裁定が出されると、中国はさらにその疑惑を強めた。それは裁定の中で「南沙諸島に『島』はない」との記述があったからだ。もし裁定の通りであれば南沙諸島の海域に「中国はEEZを設定することはできない」のだが、それは同時に中国以外の5ヵ国地域(南沙に領有権を主張している)も「EEZは設定できない」ことになる。つまり乱暴な表現をすれば、裁定は南沙の海域に突如〝巨大な空き地〟を出現させたことになるのだ。
これは領有権を主張していた国や地域以外の海洋大国、つまりアメリカに大きなチャンスが訪れたことになるのだ。そして、この結果を導くために手先になったのが日本であるとして、その矛先を向けているのだ。
本来、中国各地で激しい反日運動が盛り上がるのは避けられないタイミングだ。
しかし、不思議なことに冒頭のような書き込みは散見されるものの〝激しい反日〟をイメージさせる動きはほとんど見当たらないのである。
これはいったいどうしたことなのか。
一つの答えはネットの中にあふれる日本の位置づけである。それは「二狗子」という表現だ。「二狗子」は書いて字のごとく二番目の犬という意味だが、一番目の犬が吠えれば自分の考えとは無関係に吠えているということだ。だから「二狗子」に怒っても仕方がないという空気が生まれているというのだ。
冒頭に紹介した反日発言のすぐ後ろには、こんな書き込みがみられる。
アメリカが南シナ海に進出してくるのは彼らのグローバル戦略のためで動機ははっきりしている。ただし、日本にはそんなものはない。〝小日本〟の行動は単に中国との対立しか生み出さない。やり過ぎれば日本製品のボイコットになる......
要するにフィリピンやアメリカのように具体的なメリットがわからないというわけだ。
一方、中国の反日が盛り上がらない理由はこれだけではない。
「いま、中国人が関心のある日本の情報は為替レートだけ。これ以上の元高になればもう日本には行けないひとが増えますからね」と中国メディアの日本特派員が語るように、もはや日中間を政治の視点からは見なくなっている現実がある。
日中は明らかに新しい時代に入ったといえるのだろう。