東アジアにおける越境大気汚染と観測
2009年7月3日
高見昭憲(たかみ あきのり):
国立環境研究所 アジア自然共生研究グループ アジア広域大気研究室 室長
専門: 大気化学、主に微粒子(エアロゾル)の観測と化学的変質の研究。
1988年 京都大学 工学部 工業化学科 卒業
1993年 オックスフォード大学大学院 修了(物理化学 D.Phil)
1993年 東京大学大学院 工学系研究科 化学システム工学専攻 助手
1999年 国立環境研究所 大気圏環境研究領域 大気反応研究室 主任研究員
2007年 国立環境研究所 アジア自然共生研究グループ アジア広域大気研究室 室長
2008年 名古屋大学大学院 環境科学研究科 客員教授
1. はじめに
近年アジア地域では経済的な発展が進み、エネルギー消費が増え、大気中への排出が増加しています。大気中に排出された物質は輸送され、その間に化学反応を起こし、別の物質への変化や、ガスから粒子への変化が起こります。越境大気汚染の観測をする場合、どのような影響を想定しているかにより対象物質が異なります。環境への影響には大きく分けて、健康影響、生態影響、気候影響の三つが考えられ、大気汚染物質はそのすべてに関連します。まず、大気汚染がかかわる影響と対象物質について紹介します。
人間の健康に影響する物質としてオゾンがあります。主にオゾンを成分とする光化学オキシダントの濃度が高くなると目やのどが痛くなるなど健康被害が顕著になります。光化学スモッグ注意報は120ppbv以上の光化学オキシダントが1時間以上続くと予想される場合に発令されます。2007年5月に北部九州地区で高濃度オゾンが観測されたため光化学スモッグ注意報が発令され、運動会などの屋外行事が中止になったことは最近の出来事です。2007年の高濃度オゾンエピソードの解析結果によると、空間スケールで500kmを越える80ppbv以上の高濃度オゾンを含む空気塊が中国北部沿岸から日本列島に輸送され、九州地区での中国起源のオゾンの寄与率は40-45%に達すると報告されています。(大原ら 2008)
健康影響はオゾンだけではありません。アメリカのDockeryらはアメリカの6つの都市における疫学調査を行い、微小粒子(PM2.5)や硫酸塩と健康影響には相関があると発表しました(Dockery et al. 1993)。国立環境研究所においても大気中の微小粒子の挙動と健康被害の調査を行い、微小粒子などには循環系への影響があり、 細胞に酸化ストレスを誘発する可能性があることを指摘しています(若松ら 2006)。ダストあるいは黄砂と呼ばれる土壌起源の粒子状物質は、もともとは自然起源であり、人為起源の汚染とは異なりますが、中国などで観測される砂嵐は非常に激しく健康影響をもたらします。また日本に飛来してくる黄砂上に大気汚染物質や細菌(グラム陽性球菌など)などが付着し、黄砂と共に輸送されているという報告もあります(Kobayashi et al. 2007)。このほかにも、人間活動により発生する鉛や水銀など重金属も飛来しており、これらの健康影響を検討することも重要です。
生態系への影響としては酸性雨の問題が挙げられます。酸性雨の問題は森林枯損や湖沼の酸性化による生態系の変化に加え、材料や文化財の腐食も問題となる可能性があります。酸性雨調査は環境庁(当時)により1983年から開始され現在でも継続して行われています。酸性雨長期モニタリング計画(環境省)によると「東アジア地域では、大気汚染等の深刻な環境問題を抱えつつ経済が急速に発展しており、将来、酸性雨を含む越境大気汚染が深刻になることが懸念されている。」とあります。
平成16年度の「酸性雨対策調査総合取りまとめ報告書」によると
- 全国的に欧米並みの酸性雨が観測されており、また、日本海側の地域では大陸に由来した汚染物質の流入が示唆された。
- 現時点では、酸性雨による植生衰退等の生態系被害や土壌の酸性化は認められなかった。
現時点ではまだ酸性雨による影響は深刻化していませんが、越境輸送による汚染物質の流入が認められており、今後も観測の継続が必要である状態であると考えられています。
東アジア地域における酸性雨問題への取組の第一歩として、「東アジア酸性雨モニリングネットワーク(EANET)」が組織されました。日本の主導により1998(平成10)年から試行稼動が実施され、政府間会合の決定を経て、2001(平成13)年から本格稼動が開始されています。EANETでは、東アジア各国が測定局をつくり東アジアにおける酸性雨監視のネットワークを構築しています。ここで言う東アジアには中国、韓国、日本、東南アジア諸国、極東ロシア、モンゴルが含まれています。EANETではSO2、NOx、降雨中のイオン成分などが測定され公開されています(EANETホームページやADORC 2005などを参照してください)。アジア域での国際的な取り決めとして大気環境監視を行い、データを公開することは画期的であり、相互理解を進める重要なステップだと評価することができます。
気候影響に関しては、二酸化炭素などの気体も重要ですが、微小粒子や黄砂も重要な役割を果たしています。しかしながら、まだ不確実性が大きいのが現状です。元素状炭素は黒色であり光を吸収します。硫酸塩は透明であり光を散乱します。有機物や硫酸塩、さらには元素状炭素が混合し1個の粒子になった場合に、その粒子が光をどの程度散乱(吸収)するかを解明することが、東アジア域における気候変動予測を行ううえで非常に重要であるといわれています。また、これらの物質が黄砂と混合した場合などについてもその光学的特性を解明することが重要です。さらに、硫酸塩、有機物は雲を形成する際に必要となる雲核としての役割があると考えられており、いわゆる、間接効果(雲形成と降雨)を見積もる際に重要なパラメータであると考えられています。
このように、大気汚染物質は多岐にわたり、さまざまな領域で影響を与えています。そのためにも適切な観測方法を用いてできるだけ総合的に観測することが重要です。
2. 東アジアにおける越境大気汚染の観測
越境大気汚染について研究する上で重要な要素が三つあります。それは、排出量、輸送過程、化学反応です。それらについてまず解説し、最後に我々が最近行った観測について紹介します。
2.1 東アジアにおける排出量の増加
アジア地域では経済的発展に伴いエネルギー消費が増加し、大気汚染物質の排出量が増加しています。最近の排出量推計では、中国・インドにおける二酸化窒素(NOx)、揮発性炭化水素(VOC)の排出量が増加しています(Ohara et al. 2008)。2003年における中国のNOxの排出量は1980年に比べ約3倍になっています。また排出量の多い地域も、中国沿岸部から内陸にかけて広がっています。我々は中国の研究者と共同で、大連やチンタオ付近においてオゾンや二酸化硫黄(SO2)などを観測しました(Takami et al. 2006)。その結果によると、冬にSO2が最高で80ppbvを越えることもありました。また都市部だけでなく周辺の山間部でも高濃度のSO2が観測されました。また、航空機観測の結果によると(Hatakeyama et al. 2005)、海上から山東半島に入りチンタオに近づくにつれてオゾン濃度が上昇しチンタオに到達するときには60ppbvとなり、チンタオ近郊ではSO2が40ppbv、NOxが20ppbv近くまで上昇しました。都市部において大気中の汚染物質が高く、中国では排出量が増加し大気汚染が深刻であることがわかります。
2.2 物質輸送
越境大気汚染を考える上で、その輸送過程を基本的に支配しているのは総観規模の気象です。日本は、夏は太平洋高気圧に覆われ太平洋の比較的清浄な大気が日本に輸送されます。反対に冬は大陸性の高気圧に支配され、いわゆる大陸からの寒気の吹き出しによって物質が輸送されます。春には移動性の高気圧が中国大陸から日本へ移動し、前線を伴う低気圧と高気圧が交互に日本を通過します。春季、前線通過後にSO2や一酸化炭素(CO)などのガス状大気汚染物質や粒子状物質濃度が上昇するケースが見られます。多くの場合、前線が東シナ海を通過した後、中国大陸沿岸部に高気圧が進入し、山東半島から九州沖縄地区にかけて、すなわち、東シナ海を北西から南東方向にむけて風の場が形成されます。この風の場によって物質が輸送されると考えられます。
物質輸送の観点からすると気象的な要素が支配的であると考えられ、冬季から春季にかけては、中国大陸方面から日本方面へ物質が輸送されやすい気象状況が形成されています。先ほど述べたように、中国沿岸部において大気汚染物質が多く排出されていれば、越境大気汚染が起きやすい状況にあります。
2.3 物質の変化
排出源近くではSO2、NO 、VOCなどとして放出される物質も、大気中では光化学反応などを経てさまざまな物質に変化します。SO2は大気中や雲粒などの液滴中で酸化されSO42-に変換されます。SO2は輸送中の天候により物質の反応速度が変わり、輸送後の物質の組成が変化します。窒素化合物はもう少し複雑であり、発生源ではNO、NO2としてオゾンの反応サイクルに寄与します。一方で、NO2は反応によりガス状硝酸(HNO3)となり、乾性あるいは湿性沈着で消失します。ただし、アンモニア(NH3)があると硝酸アンモニウム(NH4NO3)となり微粒子を生成します。さらに粒子状のNH4NO3は輸送中に黄砂など粗大粒子に取り込まれ輸送されることもあります。このように窒素酸化物は化学反応を起こすと共にガス、粒子とその形態(相)変化を起こしつつ輸送されるため、たとえば、NOxの測定だけで越境輸送を評価できるわけではなく、気相と凝縮相(粒子)の窒素酸化物を測定する必要があります(Takiguchi et al. 2008)。
さらに複雑な様相を呈するのは有機物です。もともと排出される形態にVOC、一次粒子としての有機炭素(OC)および元素状炭素(EC)があります。その上、VOC、OCの成分は非常に多く、自動車排気ガス中の有機成分はしばしばガスクロマトグラムなどで組成分析がなされていますが、非常にたくさんのピークがあり多種多様な物質が含まれていることがわかります。これら、VOC、OCは大気中に放出された後、光化学反応を経て、さまざまな物質(カルボン酸、アルデヒド、ケトン、過酸化物)などを生成し、蒸気圧が低くなると粒子状物質を生成します。ECにもこれら有機物が吸着し、疎水性のECが親水性の有機化合物にコーティングされ、光学的性質を変え(Shiraiwa et al. 2009)、また、雲核形成に寄与するという報告もあります。
これら、SO2、NOx、VOCの反応はオゾンの生成と無関係ではなく、大気中の反応はすべて関係しています。オゾン生成の反応機構自体はよく研究され理解がすすんでいますが、VOCについては物質の種類も多く、二次粒子生成などにまで視野を広げるとまだまだ未解明な部分がたくさんあります。オゾン対策としてVOCやNOxの削減などを行うにあたって、その削減の効果を見積もるためには、オゾンを中心とした反応を理解しておく必要があります。また、微粒子の健康影響や気候影響を評価する上では、二次粒子生成が重要ですが、そのためには、SO2、NOx、VOCおよびオゾンの大気中の動態の理解が欠かせません。
2.4 越境大気汚染物質の観測例
国立環境研究所では1990年代から大規模な航空機観測を行い、また計算機シミュレーションなども駆使して東アジアにおける越境大気汚染の問題に取り組んできました。近年、われわれは沖縄北部辺戸岬や長崎県福江島において、主に、エアロゾル質量分析計という高時間分解能で粒子状物質の組成や粒径分布を測定できる装置を用いて観測を行いました (Takami et al. 2005, 2007, Takiguchi et al. 2008)。微粒子の濃度の長期変動を観測することにより、経済発展による物質の排出および輸送量の変化を捉えること、および、硫酸塩、硝酸塩、有機物などの粒子状物質に含まれる各成分についてその変質と混合についての知見を得ることを目的に観測を行っています。さらに、排出量推計や大気シミュレーションの検証のためにも同じ基準での長期連続観測は必要です。
越境大気汚染の典型的な例を以下に示します。Fig.1は2005年沖縄辺戸岬で観測した、SO2、オゾン、粒子に含まれるSO42-の濃度変動を示したものです。2005年3月18日の深夜から朝方にかけてSO2、SO42-とも急激に濃度が上昇しました。天気図では、3月18日午前中に前線が沖縄付近を通過して太平洋に移動し、高気圧が北京の南方に移動してきました。流跡線解析によると上海から山東半島にかけての中国の沿岸地域から空気塊が輸送されてきていました。空気塊が大陸方面から移流しやすい状況になっており、3月18日に観測された濃度上昇は中国起源の空気塊の輸送によってもたらされたと推測できます。
1992年ごろ国環研村野らにより沖縄辺戸岬でフィルターサンプリングによる粒子状成分の組成が観測されています(Murano et al. 2000)。当時の粒子中に含まれるSO42-濃度は大体3gm-3でした。我々は2003年10月から連続してエアロゾル質量計を用いて微粒子中の組成分析を行っています。ここ数年のSO42-の値は5-6gm-3程度で推移しており、当時と比較すると濃度が増加している傾向にあります。これが中国におけるSO2の排出量の増加で説明できるかどうかについては検討中です。
経済発展に伴い中国ではVOC、NOxの排出量が増加しています。また大気汚染物質ではありませんが肥料としてアンモニア(NH3)が大量に使われており、先ほど述べたとおり、粒子生成に重要な寄与をしています。粒子に含まれるアンモニウム塩は硫酸塩などとして存在し、微粒子中の主要な成分となっています。沖縄辺戸岬ではこの窒素化合物の動態を解明するため、反応性の総窒素酸化物(NOy)、ガス状硝酸(HNO3)、粒子状硝酸(NO3-)、アンモニア(NH3)、アンモニウム(NH4+)を行っています。現在進行中の研究では、中国大陸から輸送される場合、アンモニウム塩として輸送されていることがわかりました。すなわち、アンモニア(NH3)として散布されていても、越境輸送の過程で凝縮相(粒子)相に取り込まれていることが明らかになりました。
3. おわりに 越境大気汚染研究の課題
東アジアの気象要因と経済発展の状況を鑑みれば、今後も大気汚染物質が大陸から日本に輸送されてくることは十分予想されます。対策を策定するに当たり、まずは、物質の排出量、大気中の物質輸送と反応について科学的知見を各国で共有する必要があります。その際に有効なのは各国が共通の枠組みで活動を行い、データなどを共有して、共通の基盤のもとで議論をすることです。幸い、EANETに代表されるように、このような枠組みはすでに稼動しておりデータも蓄積されてきています。今後は観測項目や観測技術、観測拠点を拡充していくことが必要です。しかし、これら既存の観測だけでは新たな現象解明は困難な場合がありますので、我々が観測拠点としている沖縄辺戸岬観測ステーションで行われているような最先端の機器を用い、必要な観測項目を網羅した総合的な観測が必要です。また、地上観測だけでは代表性の問題や、鉛直分布の問題もあるので、航空機観測や、船舶を用いた観測、さらには、衛星を用いた観測なども今後は十分活用して行く必要があります。
越境輸送の実態を把握し、その影響を評価するための手段は日進月歩であり、中国や韓国をはじめとする東アジアの研究者の意識も高く、今後も科学的研究は進歩していくと考えられます。その上で必要なのは人々の意識の変革であり、10年後あるいは50年後の東アジアがどのような状態になっているのが望ましいのか、共通の認識を持つことができれば大気環境の改善もすすむと思われます。
Fig.1 2005年沖縄辺戸岬で観測した、SO2、オゾン、粒子に含まれるSO42-の濃度変動
主要参考文献:
- 大原利眞ら、大気環境学会誌 43巻 P198-208 (2008)
- 若松伸司ら、国立環境研究所特別研究報告 SR-74-2006ADORC, Data Report on the Acid Deposition in the East Asian Region 2005, Niigata, Japan
- Dockery, D.W. et al., NEJM 329 p1753-1759 (1993)
- EANET http://www.eanet.cc/jpn/
- Hatakeyama, S., Takami, A., et al., Atmos. Environ. 39 (2005) 5893-5898
- Kobayashi et al., Earozoru Kenkyu 22 218-227 (2007)
- Murano, K., et al., Atmos. Environ. 34 5139-5149 (2000)
- Ohara et al., Atmos. Chem. Phys., 7 4419–4444 (2007)
- Shiraiwa, M., Kondo,Y., Takami, A., et al. J. G. R., D24210, doi:10.1029/2008JD010546 (2009)
- Takiguchi,Y., Takami, A., et al., J.G. R. , doi10.1029/2007JD009462(2008)
- Takami, A., et al. Atmos. Environ. 39 4913-4924 (2005)
- Takami, A., et al., Atmos. Res. 82 688-697 (2006)
- Takami, A., et al., J. G. R. D22S31 doi:10.1029/2006JD008120 (2007).