第42号:環境・エネルギー特集Part 3-地球環境保護の取り組み
トップ  > 科学技術トピック>  第42号:環境・エネルギー特集Part 3-地球環境保護の取り組み >  環境保護対策に関しての日中協力を考える

環境保護対策に関しての日中協力を考える

2010年 3月24日

渡辺格

渡辺格(わたなべいたる):
文部科学省科学技術・学術政策局次長/原子力安全監

1958年生まれ。東北大学理学部物理学科卒業、科学技術振興機構北京事務所長

 急速な経済成長を続けている中国において、環境保護問題は、避けられない喫緊の課題になっていることは論を待たない。日本では1960~70年代の経済高度成長期、様々な公害問題が発生して社会問題化したが、その後、それを克服してきた経験がある。そういった日本に蓄積された環境保護に関する技術やノウハウは、現在の中国で大いに活用できるであろう、と考えられている。特に、既に日本国内では、多くの標準的な環境保護機器については、ひととおり行き渡っていて市場が飽和状態にあるのに対し、中国は環境保護対策はこれから、という企業等が多く、環境保護ビジネスにとって、中国が魅力ある市場であることは間違いない。

 ただ、環境保護設備や環境保護関連技術は、他の製品や技術と異なり、政府による環境保護のための各種規制と密接に関連していることに留意しておく必要がある。一般の商品ならば、消費者が入手したいと思う製品を安く製造することができれば、それが直接ビジネスとしての成功につながる。しかし、環境保護設備や環境保護技術は、それを使う側の者が「自ら使いたい」と思うケースはまれであり、政府による環境保護関連の規制があるから、それにマッチするような設備や技術を「買わざるを得ない」というのが実情である。従って、導入側が受けている規制の状況がビジネスの成否を握る。日本と中国では環境保護に関する規制は基準やシステムが異なるのであるから、環境保護分野については、日本でビジネスとして成功した設備や技術が中国でそのまま通用するとは限らない。

 また、降水量などの気象条件、大量の淡水が容易に得られるか、といった環境条件の違いにより使える技術は異なる。例えば、海の沿岸部や淡水湖の底に溜まる汚泥を乾燥・固化させて路盤材等に使用する材料を作る技術を考えた場合、比較的環境問題が解決している日本では汚泥から重金属を除去する必要はあまり生じないが、重金属汚染が激しい中国においては重金属を除去する技術が付加されていないと実際には使えない、といった問題が生じる。

 また、自然環境の違いも十分に考慮する必要がある。多くの人は、中国の街はほこりっぽく、日本の街は清潔なイメージを抱く。これは単に日本人は清潔好きなのだ、日本の環境技術が進んでいる、といった問題ではなく、おそらくは気候と地形の違いによる影響も大きいと思われる。日本は海に囲まれた島国であるため、陸地と海との温度差により、風の吹く日が多いし、降水量も多い。そのため大気中の粉塵は風ですぐに海上に吹き払われてしまうし、地上に溜まったほこりも、時々降る雨によって簡単に洗い流されてしまう。それに対して、中国は大陸性気候であるため、風が弱く、空気がどんよりと淀んでしまう日が多く、大気汚染はなかなか拡散しない。また、特に北部・西部地域では降水量が少ないことから、地上の粉塵等が洗い流される割合も日本よりも少ない。環境技術を考える場合には、こういった自然条件を含めた日中の違いを考慮に入れる必要がある。

 また、経済社会の発展段階の違いも考慮に入れる必要がある。発展途上国が工業国へと発展していく過程においては、まず環境に負荷が掛かるがコストの安い方法で経済発展を図ることが起こりがちである。かつてスモッグに悩まされたロンドンに象徴されたイギリスがそうであったし、公害が社会的問題となった1960年代末後半頃の高度経済成長期の日本もそうであった。環境に負荷を掛け、周辺住民の健康問題に影響が出る可能性がわかっており、環境に付加を掛けない一定のレベルの技術も既にそろっているのだから、経済効率ばかりを優先させ、最新の環境技術を導入しないのは社会倫理上不公正である、という主張は、過去に苦い環境汚染問題を経験してそれを克服して既に一定の経済レベルに達している先進国側だからこそ言える問題であって、まずは空腹を満たし、最低限の近代化技術を享受できる生活を送りたいと願っている発展途上の多くの国々からすれば、「それは金持ちだから言えるぜいたくな発言だ」と見えるのであろう。

 中国は既にGDPが世界第二になろうとしており、国内に大きな所得格差は存在しているものの、解放前や大躍進時代のような飢餓の危機に見舞われることはない。13億人の人々が、貧富の格差はあるものの、飢餓から逃れて生きていける、という現状は、率直に評価されるべきものである。一方で、アジア・アフリカ諸国等には十億人の単位で飢餓線上をさまよっている人々がいる。環境問題を考える場合には、当然、地球環境の保護や周辺住民への健康影響を考える必要があるが、ただ単に環境浄化のみに心を砕くのではなく、環境に負荷を与えずに多くの人々を貧困と飢餓から救うために何ができるのか、を常に頭に入れておく必要があると考える。

 こういった環境問題に対する基本的認識に立てば、現在のように世界的な経済発展を成し遂げた中国においては、もはや「経済発展のためにある程度環境に負荷を掛けるのはやむを得ない」としていた時代は終わったと考えるべきである。むしろ、中国が今の世界において「発展途上国のリーダー」を自認するのであれば、後に続く発展途上国の模範となるためにも、現在の中国においては、経済効率よりも環境負荷低減を重要視する、という姿勢を示すことが、中国とアジア・アフリカ諸国等との関係を進めるにあたって中国自身にとってもプラスになると考える。

 しかしながら、中国における環境汚染や環境負荷対策を無視したような企業の横行の現状はなかなか改善されない。中国も政策としては、環境保護対策を重視する方針を打ち出し、厳しい法規制も実行されている。しかし、現場で作業する企業の方々の話などを聞くと、中国の経済・社会がまだ発展途上にあるにもかかわらず、欧米並みの厳しい環境基準が作られているために、例えば、半分の企業しか環境基準が守れていない、といった実態が存在する。それだけ環境基準を満たしていない企業が多いと、「環境基準はあるけれども守らなくても当たり前」という雰囲気を作ってしまい、真剣に取り組まない企業が多くなる、とのことである。そのほか、環境法令を遵守しない場合の罰則には罰金刑が多く、環境汚染をすることにより莫大な利益が得られる悪徳企業の中には「罰金を払ってもなお汚水・排水を垂れ流して操業を続けた方が儲かる」として、環境保護対策に力を入れない企業もあると聞く。

 さらに、地方の企業の環境汚染を取り締まるのは地方政府であるが、罰則が罰金刑の場合、罰金が地方政府に入ることにより地方政府の財源が潤う、というケースもあり、地元の悪徳企業と地方政府(及びそれを監督する地方の党幹部)とが癒着すると、環境汚染が全く改善されない、というケースもあるようである。この場合、地方政府は法令に従ってきちんと取り締まりをやっており、企業の方も法令に従ってきちんと罰金を納めているために、中央政府としては現状の改善命令を出すきっかけがつかめない、といったこともあるらしい。

 日本の高度経済成長期にも大なり小なり似たような現象はあった。地方の企業は地元経済の中心的存在であることから、地方政府も企業に対して厳しいことが言えず、結局は経済成長とともに環境汚染が進んでしまう、という現象である。日本や多くの先進国でこのような問題の解決へ向けて本格的に進んでいった背景には、環境汚染の直接の被害を受ける地元住民が環境汚染反対の声を上げ、ジャーナリズムもこの問題を取り上げて社会問題となったことが挙げられる。他の先進諸国でも同様に環境汚染問題は社会的問題となり、環境負荷を低減させる技術を備えていない製品は市場では売れない、などの各種規制も行われるようになり、先進諸国の企業における環境保護技術は急速に発達した。

 現在の中国も環境汚染については、かつて先進諸国が高度経済成長期に経験した段階にある、と言えるが、先進諸国と現在の中国との間には決定的な違いがある。一つは、地方(県、市レベル)における政府と党の幹部に選挙制度がないことから、環境汚染に苦しむ地元住民が環境汚染を許している地元政府・党の幹部を住民の意思で辞めさせることができないことである。もう一つは、報道の自由が認められておらず、新聞等が個別の環境汚染問題を告発する記事を書くことが極めて難しいことである。中国政府は、様々な法規制を導入して「上からの環境汚染対策」に真剣に取り組んでいるが、地方と党と政府の幹部には「地元住民が反発したら選挙で落選させられる」という危機感がないので、環境問題に真剣に取り組まない傾向があるのではないかと思われる。また、現在の中国においても、地方政府と企業との癒着が表に出れば、中央から批判され、地方の党と政府の関係者は処罰されたり左遷させられたりするが、報道機関も党の指導に従うことが原則となっている中国では、地元の党と政府は報道機関をうまくコントロールすることが可能であり、報道機関をコントロールできれば、そういった癒着関係を表に出さないようにすることが可能である。環境問題には、法制度や技術の側面もあるが、こういった政治体制にも根源があるのである。

 中国の政治体制改革については、中国の人民が決めることであり、外国人がそれをどうこういうことは厳に慎まなければならないが、日本をはじめとする先進諸国の経験に照らせば、民主的選挙制度と報道の自由が環境汚染問題の改善に大きな力を発揮したことは客観的事実として間違いがないところである。

 もうひとつ問題だと思われるのは、環境問題について、政府当局者自身が時として科学的ではない態度を取ることがあることである。私が知るところでは、以下のような例があった。

 現在、中国の環境保護総局は主要な都市の大気汚染の状況を「大気汚染指数」として測定して毎日発表している。環境保護総局のホームページには、その値が毎日公表されている。2008年の北京オリンピックに際して、北京市は「大気汚染指数100以下の日を『青空の日』とし、オリンピックの前に大気汚染指数100を超える年間日数を年間120日以下にする、という目標を立てた。2007年の北京の大気汚染が100を超えた日は119日だったので「目標は達成された。オリンピックは問題ない。」とされた。

 私は、毎日発表される北京の大気汚染指数の度数分布がちょっと不自然なように見えたので、2006年1月1日から北京オリンピック開幕直前の2008年6月30日までの2年半の北京の大気汚染指数の度数分布グラフを作ってみた。そのグラフが下図である。

北京の2006年1月~2008年6月(912日間)の大気汚染指数の度数分布

 通常、この手の観測データの度数分布グラフは、なめらかな正規分布に近い形になるが、この北京市の大気汚染指数のグラフは、100以下のところに不自然なピークがあり、100を超えたところが不自然に低くなっている。北京オリンピック前、北京市環境保護局が記者会見をやった際、外国人記者から、この大気汚染指数のばらつきの不自然さについて質問が出た。北京市環境保護局の担当者は「大気汚染指数が100を超えそうになる日には、観測点の近くにある工場の操業を止めた。しかし、観測データの改ざん・操作をしていない。」と答えた。この記者会見について、日本の新聞では「当局が北京の大気汚染指数を操作」と報じた、中国の新聞では「当局は観測データの改ざんはしていない」と報じた。どちらの報道も間違いではないが、観測地点近くの工場の操業をコントロールする、というやり方は、データの改ざんがないのだとしても「科学的」とは言えない。

 日本は、高度経済成長期以降、環境汚染による被害者を出しながら、環境保護関連技術を発展させてきた。今後、その技術を中国において活用し、中国の環境汚染問題の解決に寄与することは、まさに日中関係において「ウィン-ウィン」の関係を築ける分野である。しかし、環境問題の解決は科学技術だけでできるものではない。そういった日中協力が順調に進むためには、中国側としても、上記におけるような中国独自の問題を自らの手で改善していく必要があると私は思っている。